「人は、愚かだ」
 吐月はまた、少し笑ったようであった。
「例外はない」
「ありませんか」
「ないね。人は皆、誰も愚かだ。人を好きになる、人を愛するというのは、その愚かさごと愛するということなのだよ」
 わずかに沈黙があった。
 風が、頭上で、葉を揺らす音、足が落葉を踏む音ばかりが、しばらく響いた。
「わたしは、人が好きなのだ」
 吐月は言った。
「その、愚かな人がね……」
 先を歩いていた吐月が、足を止め、九十九を振り返った。
「その愚かさ故に、人はまた、何かを求めてしまう。求めずにはいられない。あの頃と同じだったよ、久鬼玄造は……」
 吐月は、また、歩き出した。
「まだ、終ってない。まだ、激しい。陳岳陵のままだ。まだ、あの男は、求めている――」
「何をでしょう」
「さあ、何だろうね……」
 吐月は、ゆるゆると歩いてゆく。
「わたしもまた、愚かだ。もちろん今もね。だから、こうして、今、歩いている……」
「ええ」
「わたしが、若い頃に見た夢の一部を、今、自分の眼で見届けたいと思っているのだ。こうやって、危険を冒してね」
「―――」
「あの獣と出会い、そしてわたしは、あの獣に喰われて生命を落とすことになるかもしれない……」
「はい」
「それでいいと思っている」
 九十九は、その言葉に答えられなかった。
「あれを見たかね。牛を貪り喰(く)らい、そして、疾(はし)り、舞いあがった……」
「―――」
「なんと美しいのだろうと、そう思ったよ――」
 自分も、そう思いました――そう言おうとしたのだが、九十九はそれを言葉にできなかった。
「わたしはね、仮に、あれが人間の本性であっても、いや、本性であるなら、自分もああなってみたい……あの時そう思ったのさ。ほんの少しだけどね……」
「―――」
「人は、仏(ほとけ)にはなれずとも、あのようなものにはなれるのだねえ……」
 しみじみと、吐月はつぶやいた。
「だが、九十九くん、きみは違うよ。きみはまだ若い。未来がある。ここから先は、わたしひとりでゆくから、きみは引き返した方がよくはないかね――」
 言われて、九十九は、
「ゆきます」
 すぐに答えていた。
 迷いがなかったわけではない。
 迷いはある。
 迷いはあるが、しかし、ゆくことを決めたのだ。
 行ったからといって、この自分に何ができるのかはわからない。
 しかし、ゆく。
「危険だね……」
 吐月が、ぼそりとつぶやいた。
「危険?」
「もしかしたら、きみも、あの獣に魅(み)せられてしまっているんじゃないのかってね――」
 それに、九十九は答えられなかった。
 それでも何か言おうとして口を開きかけた時、前を歩いていた吐月が足を止めていた。
 九十九を振り返って
「しっ」
 右手の立てた人差し指を、唇にあてた。
 吐月が、自分の耳を指差した。
 聴こえるかい?
 そう問いかけているのだ。
 九十九は、耳を澄ました。
 葉ずれの音。
 これは、すぐ頭の上からだ。
 そして、森全体に満ちた数千万、数億枚もの葉ずれの音が重なった、遠い山鳴りのような音。
 これは――
 自分の心臓の音か。
 これは、吐月の呼吸音。
 そして、さらに……
 聴こえた。
 微かに。
 しかし、確かに聴こえている。
 呼吸音だ。
 荒い。
 しかも、ひとつやふたつではない。
 幾つもの喉がたてる呼吸音。
 太い呼吸音もあれば、短いものもある。
 ライオンか虎なら、このような呼吸音をたてるのであろうかと思われるようなものもあれば、鳥のさえずりに似ているようなものもある。
 九十九は、うなずいた。
 そして、ゆっくりと、その呼吸音の方へ近づいていった。



初出 「一冊の本 2013年8月号」朝日新聞出版発行

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