あの時、自分の肉と心は、憎しみで満たされていた。
 憎悪。
 哀しみ。
 絶望。
 怒り。
 そういうものに身も心も支配された時、訓練したことの何もかもを、自分は忘れ果てていた。
 愛する妻――
 久鬼千恵子。
 そして、息子の麗(れい)。
 妻の胎内にいる、子供。
 それらの生命が、すでにこの世のものでないと思い込んでしまったのだ。
 久鬼玄造が、彼らを連れ出したのだ。
 日本へ――
 その久鬼玄造を、自分は追った。
 そして、彼らが死んだということを自分は知ったのだ。
 いや、思い込んでしまったのだ。
 そして、自分はキマイラ化し、台湾で殺戮(さつりく)を繰り返した。
 九十九三蔵(つくもさんぞう)と猩猩(しょうじょう)によって、自分は捕えられ、自らを滅した。
 しかし――
 久鬼玄造や、麗が、そして千恵子の胎内にあった子が大吼鳳(おおとりこう)として日本で生きていることを自分は知った。
 それで、自分は日本に渡ってきたのである。
 自分が台湾でやったことを、麗に繰り返させてはならない。
 しかし――
 ならば、「来い」と叫ぶべきか。
「麗!」
 巫炎は叫んだ。
 高い音域の声で。
 鉄格子を両手で掴み、喉を立て、叫んだ。
「麗!」
 あれは待ち伏せている連中に、おとなしく生け捕られるようなものではない。
 本人の意志に反して、そのようなことができるわけはない。
 麻酔銃があるといっても、それは、たかだか象を何頭か眠らせることができるだけのものだ。
 それが、どれほどの効果があるのか。
 それができるのは、ソーマと、そして、あれと話ができるものだ。
(あひいる!)
 その声が、さらに近づいてくる。
 大きくなってくる。
「玄造!」
 巫炎は叫んだ。
「おれを出せ。おれをここから出すんだ!!」
 通常の、人に聴こえる声だ。
 聴こえていないのか。
 この声が届いていないのか。
 鉄格子を掴んで、暴れた。
 渾身の力を込めて、それを広げようとする。
「糞」
 わずかに曲がった。
 もっとだ。
 力を込める。
 さらに――
 その時、音がした。
 たあん!
 銃声だ。
 そして、さらに二発。
 たあん!
 たあん!
 最初の二発は、麻酔銃。
 三発目は、三十三口径のライフルの音だ。
(おきゃあああああ!!)
 鋭い、悲鳴のような高い声。
 怒り!?
 とまどい!?
 おれの食事を邪魔するのは誰だ!?
 そういう声だ。
 何がおこっているのか。
 どうなっているのか。
 叫んだ。
 咆(ほ)えた。
 しかし、あたりは静まりかえっている。
 時間のみが過ぎてゆく。
 車のエンジン音。
 拳を握って、鉄格子を叩いたその時――
 声が聴こえたのだ。
 高い音域の、人に聴こえぬ声。
(誰だ。この声を発するのは誰だ。どこにいる――)
 その声はそう言っていた。




cd3236c17e7db90e77e3392bc0459aad6cfecc0e

画/だろめおん





初出 「一冊の本 2013年7月号」朝日新聞出版発行

■電子書籍を配信中
ニコニコ静画(書籍)/「キマイラ」
Amazon
Kobo
iTunes Store

■キマイラ1~9巻(ソノラマノベルス版)も好評発売中
 http://www.amazon.co.jp/dp/4022738308/