村山談話・河野談話に未来はあるか?
第27回 一度した「謝罪と反省」は取り消せない
1992年(平成4)1月、訪韓した宮沢喜一首相(当時)は
慰安婦問題に抗議するデモ隊の大歓迎を受け、
わけのわからないままに首脳会談で8回も謝罪と反省を繰り返し、
「真相究明」を約束して帰国した。
そもそも謝罪と反省を公言してから真相究明の調査をする
というのが完全におかしい。
宮沢は、真相もわからないのに謝罪と反省を表明したのだ。
国益を背負った一国の首相ならば、どんなに相手が激昂していようと、
真相がわからない以上は「調査結果が出るまで留保する」で
押し通さなければならなかったのに。
宮沢はその翌年、テレビ番組で田原総一朗に
「政治改革、やるんですか、やらないんですか!?」と詰め寄られ、
つい「やります!」と言ってしまい、それができなかったために
「ウソつき」呼ばわりされ、内閣不信任案が可決され、
自民党が38年間に及んだ政権与党の座から転落するという事態を呼ぶ。
要するに宮沢喜一とは、ちょっと強く出られるとたちまち飲まれて
相手の意のままに動いてしまう、決して首相になどしてはいけない
人物だったのだ。
ともかく日本政府は「真相究明」に乗り出した。
そしてありとあらゆる資料を集めて検証した結果、究明された真相とは
「強制連行はなかった」というものだった。
1992年7月、日本政府は第1次調査結果を発表、加藤紘一官房長官は
「強制連行したことを裏づける資料は見つからなかった」
「誠心誠意探して見つからなかったことは韓国政府も信じてくれると思う」
と発言した。
しかし、もうすでに宮沢首相が「謝罪と反省」を表明している。
これは国際社会に対して日本政府が「強制連行」を
公式に認めたということを意味しており、そう簡単に
「調べたら違ったから、あの謝罪と反省はナシ!」
なんてことにできるわけがなかったのだ。
韓国政府もさすがにこの頃には強制連行がなかったことはわかっていたが、
だからといって、もうそれを認めるわけにはいかなかった。
そんなことをしたら国内から「弱腰外交」との猛烈な突き上げを食らい、
発足間もない金泳三政権が揺らぐ恐れさえあったのだ。
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