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2次元と3次元の狭間にあるもの
――『テニミュ』が生み出したリアリティ
(アニメ&ミュージカルプロデューサー 片岡義朗インタビュー)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.10.30 vol.441
▲『ミュージカル テニスの王子様』初演DVDより
「2.5次元ミュージカル」――2次元で描かれた漫画・アニメ・ゲームなどの世界を、舞台コンテンツとしてショー化したものの総称です(2.5次元ミュージカル協会HPより)。
そして、この2.5次元舞台作品をとりまとめる「2.5次元ミュージカル協会」設立に関わり、メイン作品である『ミュージカル「テニスの王子様」』のプロデューサーも務めたキーマンとも言えるのが片岡義朗さん。今回はその片岡さんに、「日本発コンテンツ」としての2.5次元の魅力と展望についてお話を伺ってきました。
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▼プロフィール
片岡義朗(かたおか・よしろう)
アニメ&ミュージカルプロデューサー。「タッチ」「ハイスクール!奇面組」「キテレツ大百科」など多くのアニメ化や『ミュージカル「テニスの王子様」』や『ミュージカル「聖闘士星矢」』『「セーラームーン」ミュージカル』といった多くの2.5次元作品をプロデュースする。現在は(株)コントラの代表を務める。
◎聞き手:真山緑、稲葉ほたて
◎構成:真山緑、中野慧
■ 声には演じる人の人生が現れる――90年代アニメにおける「津田健次郎、涼風真世、ラサール石井」の声優起用
――片岡さんは「2.5次元ミュージカル」のキーマンとして著名ですが、今回はまず、これまでのお仕事の来歴について伺いたいと思います。もともとはアサツーディ・ケイで『タッチ』などのアニメのプロデューサーを担当されていたわけですよね。
片岡 僕はいろんな媒体で広い意味での「プロデューサー」をしてきたと思っていますが、やってきた事を振り返ってみるとアニメが原点であることは間違いないですね。
――『テニミュ』で初めて片岡さんのお名前を知ったのですが、復刻した『ハイスクール!奇面組』のDVDで片岡さんのお名前を見つけてとてもびっくりしたことを覚えています。『奇面組』ではOPとEDが「おニャン子クラブ」からの派生ユニットですが、アニメと3次元のアイドルを抱き合わせる方式は80年代後半当時としては珍しかったですよね。
そのあと90年代前半に手掛けられた『姫ちゃんのリボン』や『赤ずきんチャチャ』のアニメでも、主題歌にジャニーズタレントさんや声優さんを起用されたりしていました。その時点で、いわゆる2次元と3次元を繋げようという意識はあったんですか?
片岡 そうですね。『赤ずきんチャチャ』で香取慎吾さんに声をかけて声の仕事をお願いしたのは僕ですし、『姫ちゃんのリボン』で草彅剛くんにお願いしたのも僕でした。
ちなみに『姫ちゃんのリボン』の当時、草彅くんはは、セリフは伝わるけど滑舌はあまり得意ではなかったみたいで苦労してましたが、何話かアフレコしているうちに頑張ったのでしょう、その後はどんどんよくなっていきましたね。
アニメ的な表現に3次元のタレントを起用したのは、おニャン子クラブもそうですし『ミュージカル「聖闘士星矢」』のSMAP、アニメ『こちら亀有公園前派出所』のラサール石井さん、『るろうに剣心』の涼風真世さんもそうですし、ちょっと違う例ですが、『H2』の津田健次郎くんも実写映画畑の俳優さんにお願いしたのもそういう例に入るかもしれませんね。
――片岡さんのそういったキャスティングには、どんな意図があったんでしょう。
片岡 僕は、「声には、演じる人の人生が現れる」と思っているんです。
『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』のアニメ化(2000年に放映開始/以下、『遊戯王』)の際、ジャニー喜多川さんに「誰か(主人公の)遊戯を演じられそうな、主人公と同年齢か近い年齢で芝居のできる俳優はいないですか」と聞いたんですよ。『遊戯王』は武藤遊戯というキャラクターに表遊戯と裏遊戯というふたつの性格があって、裏になったときは強い性格になるけれど、表のときはフニャっとしている。だから「お芝居がうまい人」であることに加えて、「表と裏のある人」を表現できる人が必要で、そのようにジャニーさんに話したら、当時まだ中学生でジャニーズ事務所で下積みをしていた風間俊介くんを推薦してくれたんですね。結果的にはこれが大成功で、遊戯=風間くんはファンの方にもすごく愛されるキャラクターになりました。
風間くんが何歳からジャニーズの稽古場に通い始めたかはわからないけど、事務所から見て「センスがある」と思われる人じゃないとデビューできないはずなんです。そういう厳しい淘汰の道を通って来た「根性」があって、なおかつ演技力のある人が『遊戯王』の主役に必要だったんですね。
『遊戯王』は他のファンタジー作品と違って、普通の生活があって裏の顔があるのが面白い作品ですよね。裏の遊戯のように攻撃的にガンガン戦う強い人間と、フニャっとした普段の普通の中学生のリアルな男の子、どちらの人格も「演技力」でやられたら困ると思っていたんです。なぜかというと、実際の『遊戯王』のカードゲーム大会に行くと、みんなただ俯いてカードゲームをやっているわけで、あれが中学生のリアルなんですよ。そういうリアルな中学生のようなフニャフニャした感じがベースにあって、演技で「裏」をできる人として、風間くんが見事にハマってくれました。
――風間さん自身がその「リアル」を持っていたんですね。
片岡 声優に求められるのは「キャラクターが持っているリアリティをどう体現するか」ということだと思うんです。『こち亀』ではラサール石井さんに両津勘吉の声をお願いしましたが、彼自身が演技学校で研究生だった時代にアルバイトとして渋谷のストリップ劇場の幕間のコントに出ていたんですよ。ストリップ小屋の幕間のコントって、出てきた瞬間に「帰れ!」ってお客さんに言われるんです。おねーちゃんの裸を見たくて来てるオッサンたちの前に出て「まぁまぁ」ととりあえずなだめて落ち着かせて、だんだんと自分の世界に引きずり込んで笑わせちゃうっていう……そのことだけ考えても、ラサールさんは両津勘吉にハマると思ったんですよね。
今のアニメ業界・声優業界の意見とは違うかもしれないけど、宮﨑駿監督のアニメはまさにいい例ですよね。宮﨑監督も俳優の演技にその人の人生観が反映すると思ってらっしゃるように僕には見受けられます。
■ 演劇とミュージカルは違う――『タッチ』から『聖闘士星矢』、そして『テニミュへ』
――片岡さんはSMAPを起用して1991年に『ミュージカル「聖闘士星矢」』(1991年上演/以下『星矢』)を制作されていて、それが『テニミュ』の一つの原型と言われていますが、その前に『「タッチ」ミュージカル』も制作されていたんですよね。
片岡 この経緯をお話しすると、まず僕がテレビでアニメの『タッチ』を作っているときに「ミュージカルでやりたい」と申し出てくれたミュージカル会社があったんです。彼らがやっていたのは、日本アニメーションが企画・制作していた『小公女セーラ』や『若草物語』といった「世界名作劇場」枠のアニメのミュージカル化でした。夏休みの時期に、「後楽園アイスパレス劇場」という今のGロッソの前身のようなところで上演していたんですね。
その一環として『タッチ』をやりたいということで、僕もミュージカルが好きだったからプロデューサーとして一緒にやることにしたんです。でも結果として、僕が思っている漫画やアニメの『タッチ』とはまったく違うものができあがってしまった。なんというか、「文法」が違ったんですよ。
――「文法」というのはどういうことなんですか?
片岡 2.5次元舞台を作ろうとするときにプロデューサーが一番最初に考えることは「どうやって原作を尊重して別の表現に移し替えるか」ということなんです。アニメ作りも同じで、原作の漫画をくまなく読んで、一コマの中に何が描いてあるか、コマの中に前のコマの何が繋がって続いて描かれているのか、といったことをとことん読み取っていかなければいけない。
たとえば『タッチ』のあだち充先生の漫画って非常に独特な間がありますよね。セリフとセリフの間、コマとコマの間の時間の流れの独特な「緩急」というか……。基本はゆったりしているんだけれども、その中にきゅっと短く「きれいな顔してるだろ、死んでるんだぜ…それで…」というセリフが入ることで、心にグサって何かが刺さりますよね。
『タッチ』のときはミュージカルの経験の長い方が演出を担当されていたんですが、やっぱりそういった漫画・アニメ的な手法に対する理解があまり深くなかった。あちらはプロで、僕はミュージカルに関しては初心者だしで、こちらの意図を押し通すこともできなかったのでとても悔しい思いをしました。
その『タッチ』のミュージカルでの経験が直接の引き金になって、「これはもう自分でやるしかない」と思い、『ミュージカル「聖闘士星矢」』をやることになったんです。
――そして『星矢』以降、様々な漫画を舞台化していくことになるわけですが、そもそも片岡さんにはアニメ以外にも演劇やミュージカルをやりたいという思いがあったんですか?
片岡 そうですね、演劇やミュージカルは好きでもともとよく観ていたんです。僕が学生時代を過ごした1960年代は、いま世の中にある文化の芽が少しずつ出始めた、疾風怒濤の時代と言ってもいい時代で、当時は演劇が「サブカルの権化」みたいなところがあったんです。そういう世の中の熱に浮かされてよく観に行っていたんですね。
――当時は、唐十郎さんや寺山修司さんといった方が活躍されていましたね。
片岡 そうですね。僕が一番自分に合うなと思って観ていたのは、自由劇場の吉田日出子さんや串田和美さんたちでした。吉田さんのちょっとすましたところだったり、とにかく洒落ているところが好きだったんです。そういった60年代のアングラ演劇に触発されるかたちで小劇場運動が起こって、つかこうへいさんや野田秀樹さん、鴻上尚史さんといった人が70〜80年代に続々と出てきました。それらをぜんぶ観てきたので、演劇はよく行っていたんですが、一方でミュージカルはミュージカルで別のジャンルのものだと思っていたんです。どうも、自分が観ているミュージカルはつまらないなぁと思っていて。
――ミュージカルというと、劇団四季のようなものでしょうか?
片岡 それ以前にも四季のミュージカルは観てはいたんですが、1982年に会社を移籍するタイミングで一ヶ月程時間を取ってニューヨークで毎日のようにミュージカルを観たことがあって、「あ、これは日本のミュージカルとまったく別のものだ」と思ったんです。「もしかしたら日本のミュージカルは、まだミュージカルと呼ぶには値しないんじゃないか?」、と。
――どういうところが違っていたんでしょう?
片岡 劇中の人物が本当に「生きている」んですね。例えて言うなら、日本の劇団四季の『CATS』には「猫がいなかった」んですよ。でも、ブロードウェイで観た『CATS』には「完全な猫」がうじゃうじゃいたんです。
もうひとつ別の驚きもあって、向こうとこっちではダンスのレベルが違いすぎるんです。関節全部が動いてそれが物語るようなダンスを踊る。僕がニューヨークにいた頃はボブ・フォッシーという有名なダンサー兼振付師の演出家が生きていた頃で、まず技術的なレベルが違うし、作中人物がドンとキャラクターとして立って性格が見えてくるんです。
それからニューヨークとロンドンと日本を行き来しながらそれぞれの国のミュージカルを観るということを繰り返して、「アングラ演劇の面白さとミュージカルの面白さは違う」ということを思い知りましたね。アングラ演劇が「一生懸命見ようとして、面白さをなんとか捕まえて楽しむ」ものだとすると、ミュージカルは娯楽作品として洗練されていて、どんな人でも座っているだけで劇中世界に入っていけて、完全に浸りきって受け取って帰ることができるというものなんじゃないか、と。
■ 劇団四季を反面教師にして構築された『テニミュ』システム
――ストレート・プレイ(ミュージカル以外の演劇のこと)にはない、ミュージカルならではの面白さの本質があるわけですよね。
片岡 ミュージカルは、観客の身体のレセプター(受容体)の数が多いんです。まず歌としての感情表現があるから、座っているだけで引きずり込まれるようにできている。だから、観劇の初心者の人でも入りやすいですよね。
僕はそうしてミュージカルの面白さにどんどんハマっていって、そうなると四季のミュージカルが物足りなく感じてしまったんです。ここから先はいつも言ってることなんだけど、僕にとっては劇団四季が反面教師なんです。四季がなかったら2.5次元舞台は、今のようなかたちでは育ってこなかったと思っています。もし四季のミュージカルを見て面白いと思う人がいたら、ぜひ2.5次元舞台を観てほしい。歌は下手かもしれないけど、ちゃんと役者が活き活きと演っていますから。
たとえば「歌で表現される中身が観客に届いてるか」に関して、僕は『テニミュ』の役者の歌もきちんと届いていると思うのです。
――『テニミュ』では、劇団四季のどういった部分を反面教師にしたんでしょうか?
片岡 まずひとつ、劇団四季って劇場に行かないと誰が何役をやっているかわからなかったんです。たとえば普通の演劇を観るお客さんなら、『オペラ座の怪人』を観に行くときに誰がファントム役なのかにすごく関心があると思うんですけど、劇団四季は「誰が演るかは問題ではない。劇団四季の俳優だったら誰が演っても同じレベルでできるから名前を公表しないんだ」と、表向きにはそういうメッセージを出しているわけです。
だけどこのやり方って実は大量生産の手法なんです。機械的に同じ型に当てはめた役者をどんどん作って、ファントム役の型に当てはめた俳優を10人作っておけば全国10カ所で『オペラ座の怪人』を上演できるというわけなんですね。
――たしかに、劇団四季の常設劇場はそうなっていますね。
片岡 そう、全国にいくつもあると思いますけど、たとえばそれらの劇場全部で『オペラ座の怪人』を演ればどこでも一定のお客さんが入るようになっているんです。「ファントムを演じているこの役者さんの演技がすごい」という評判が立ってしまったら、その人がいる劇場にしかお客さんが来なくなるし、もしその人が辞めてしまったらドッと集客が落ちる。こういうことを避けるために、誰が演っても出来るしどんな役に対しても演れるようにするという仕組みが劇団四季のやり方なんです。
でも、役者側からすると「誰がやっても同じ」と言われたら頑張り甲斐がないでしょう? 『テニミュ』の役者って、「ここで初めてプロとしてお金をもらった」という人がたくさんいるんです。「ここでしっかりできれば、俺は一生この道でやっていけるようになるかもしれない」というモチベーションがある。
一方で四季の場合は給料システムで、1ステージいくらで年間に100ステージ立てばいくらになると保証されるようなかたちなんです。もちろん、1ステージの単価が上がっていって1ステージ10万円で年間200ステージ保証されると年間2000万円になるけれども、そういう枠の中でやる以上は、ハングリーさがやっぱり違ってきてしまいますよね。
そして、四季は、誰がやっても同じように歌い誰が演じても同じようにセリフを喋るんです。「四季の発声法で発音しなさい」「この歌はこういう風に歌いなさい」というのが決まっていて、そこからはみ出した歌い方をすると外されてしまうんですね。
でも、こうしたことは僕にとっては違う方法を採用するきっかけになった事ではありますが、四季が果たしてきた日本にミュージカルを大きく根付かせたという功績を否定することではありません。単に方法論の違いを言っているだけで、四季の舞台は今でも観に行きますよ。
――いつ行っても同じクオリティで観られるけれど、それ以上のものを観ることはできないということでもありますね。
片岡 そういうことを全部裏返しにして、『テニミュ』の役者には、「ダブルキャストや代が違う同じ役柄の俳優と同じようにやらなくてもいい。原作漫画やTVアニメの中から君なりの手塚を演ればいい」と伝えていました。
『テニミュ』は「卒業」というキャストの代替わりがあるんだけど、代が変わるときに同じキャラに同じようなタイプの役者を選ばないことにしているんです。見た目が似ている人を選ぶと、同じような演技に見えてしまうことがあるからです。
『テニミュ』の1stシーズンで言えば、2代目の手塚役は城田優くんで、背が高くてかっこいい男だし、歌もすごくうまいし何も言うことのない完璧な手塚を創りあげていました。今や『エリザベート』にも出ていて日本ではトップクラスの舞台俳優になりましたよね。
その手塚役が2代目から3代目に変わるとき、南圭介くんというそこまで歌が上手いとはいえない人にスイッチしたことがありました。城田くんと同じことをやろうとしてもできないことはわかっていたので、「完璧な手塚の後なら違う方向性にしよう」と、演技に人柄の良さが滲み出るタイプの南くんをキャスティングしたんです。
本人にも「歌が上手くなくても、歌詞のメッセージやメロディの情感が伝わればいいんだから、それをお客さんに届けられるように頑張ればいいんだよ」と言っていました。南くんは歌も個人教授について、必死に勉強して見事に手塚役を全うしてくれました。
役者にはそれぞれ育ってきた家庭の事情や環境があるわけです。その人の個性がどういうもので、役柄を自分の手の内に入れてどう表現するかということを演出家と役者が話し合って、僕自身はキャラクターという大枠の中に収まっているかどうかを判断するという役回りでした。このやり方は、反面教師としての四季があったおかげで、早い段階でつくり上げることができましたね。
■「役者として表現する」ことと「キャラクターになりきる」ことの違い
――2.5次元舞台では、その役者自身の個性が取り込まれた方が面白くなるというこということですよね。
片岡 そうですね。ただ、だから『テニミュ』のキャスティングに素人か素人に近い人を使っているのかというと、それは違います。
さっきの声の話と矛盾するように聞こえるかもしれないけど、アニメのキャラクターを演じる俳優にはある種の「匿名性」が必要だと思っているんです。たとえばある有名俳優Aさんが手塚を演じるとして、天才的な俳優なら難なくできると思いますよ。でも、どう考えでも「Aさんが演る手塚」を観に行くことになるでしょ?
――「手塚国光」だけを観には行けなくなりますね。どうしてもその「Aさん」というイメージが先に出てしまいます。
片岡 もちろん、そういうものとして楽しんでもらうこともできるとは思うんだけど、そもそも制作側が大物ばかりをキャスティングすることもできないわけです。だったら逆に、基本的に全部をまっさらな人でやろうと。プロはいないとまずいから適度に入れようというのはあったんですが、プライオリティーとしてはできるだけ「新人」「顔を知られていない人」を選んでいます。それもこれもすべて、キャラクターになりきって演じてもらうために、お客さんにとっての障害物となるような要素をできるだけ少なくしようとしていたことはありますね。
――『テニミュ』では初舞台の人を起用したり『HUNTER×HUNTER』の舞台ではメインに声優を起用したりしていますよね。いわゆるプロの舞台俳優をあまり起用しなかったのはそういう理由があったんですね。
片岡 アニメの仕事をしている人たちや、まったくまっさらで何の仕事もしてないキャリアの浅い人たちは、そのキャラクターや役柄に「なりきる」努力をするんです。もちろん、キャリアのあるセンスの塊みたいな俳優に仕事をお願いしたとして、彼らもなりきる努力はちゃんとやってくれると思います。でもそういう努力と、お客さんから観たときに「キャラ」として見えるかどうかは別次元の問題なんですよ。
――「キャラ」ではなく「表現」になってしまうということですよね。少し抽象的な質問かもしれないのですが、「表現すること」と「なりきること」はどう違うんでしょう?
片岡 僕の考えでは、まず「なりきること」が大前提としてあって、「表現すること」はなりきった後に出てくるものなんです。「表現する」というのはとても難しいことで、訓練されたスキルを持っている人が自分の引き出しの中から生み出すものなんです。
持って生まれて演技の才能を持っている俳優はは表現者として大変素晴らしい演技を披露してくれるに違いないけど、キャラクターになりきることを通り越していってしまうかもしれない。そうなるとキャラクターの本来の魅力がなかなか出てこなかったりします。要するに観客が持っているキャラクターのイメージを飛び越えて作れてきてしまうので、トゥーマッチになってしまうんですよね。
■ 伝説のテニミュ俳優「カトベ」はいかにして生まれたのか
――原作やアニメのキャラクターを求めて観に来た人にとっては、それはもう2次元発生のキャラクターではなくなってしまうということですよね。ちなみに、なりきるのが上手な俳優はどういう人たちなんですか?
片岡 単純に、なりきるのが上手なのは「なりきろうと思う」人ですよ。なりきろうと真剣に思う人は「なりきれる」。そのキャラクターになりきることが表現することだと思い込んでやりきってくれればいいんです。
――すごくなりきってるなと思う人と、ちょっとイマイチだな、という人との違いはどんなところにあるんでしょう?
片岡 それはやっぱり、抽象的な言葉だけれど「熱量」ですよね。『テニプリ』の人気キャラ・跡部景吾役を演じて「カトベ」と言われるぐらいになりきって大人気になった加藤和樹くんという役者がいますが、オーディション会場に入って来たときからすでに跡部だったんですよ。彼なりの稽古着を着て現れて、その瞬間にこちらも「跡部は彼しかいない」ということになってしまいました。他にオーデションを受けてた人たちも、もうその時点で「しょうがない。あいつで決まりだ」と思ったらしいですね。
――他にも跡部候補がいる中で一発で決まったんですか?
片岡 ええ、たくさんの跡部候補がいた中でも圧倒的に「跡部」でしたね。ちょうど同じタイミングで斎藤工くんもオーディションを受けていたんだけど、工くんにはぴったりの役があってその役をお願いすることになりました。
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