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Cerevo岩佐琢磨インタビュー
「ものづくり2.0――DMM.make AKIBAと
メーカーズ・ムーブメントの現在」
(前編)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.3.10 vol.278
「グローバルニッチ」な製品を発信し、世界中から注目を浴びるハードウェアベンチャーCerevo。今回のメルマガでは代表の岩佐琢磨さんに、起業のきっかけとなった原体験や、ハードウェア・スタートアップの歴史、そしてDMM.make AKIBAの抱く野望についてインタビューしました。
▼プロフィール
岩佐琢磨(いわさ・たくま)
1978年生まれ、立命館大学大学院理工学研究科修了。2003年から松下電器産業(現パナソニック)株式会社にてネット接続型家電の商品企画に従事。2007年12月より、ネットワーク接続型家電の開発・販売を行なう株式会社Cerevo(セレボ)を立ち上げ、代表取締役に就任。世界初となるインターネットライブ配信機能付きデジタルカメラ『CEREVO CAM live!』や、既存のビデオカメラをライブ配信機能付きに変えてしまう配信機器『LiveShell』シリーズなどを販売。
◎聞き手・構成:稲葉ほたて
■ DMM.make AKIBAの"裏"仕掛け人?
――岩佐さんがここ(取材場所のDMM.make AKIBA)に入居したのは、どんな経緯からですか?
岩佐 いや、そもそも僕と小笠原さんとDMMで、この施設を仕掛けたようなものです。だから、機材のほとんどは僕が選定していますし、「秋葉原につくろうよ」と言い出したのも僕です。そこに自分で入らなくてどうする、という感じですね(笑)。
――そんなに深く関わっていたとは、知りませんでした。ITのイメージが強い渋谷や六本木ではなくて、秋葉原を選んだ理由は何ですか?
岩佐 まさに、渋谷や六本木が、既に特定の業種の人間が集まる街になっているからですよ。
もちろん、産業が特定の場所に集まっていることは大事です。例えば、iPhoneアプリを作っている会社が2つ営業に来て、所在地が葛飾区と六本木だったら、なぜか後者の方が信用度が高いと判断されそうでしょう?。あくまでもイメージですが、そういう現実があるのも事実です。
僕たちハードウェアベンチャーには、そういう聖地的な場所がなかったんです。だから、僕は2007年に起業したときから、ずっと「そういう場所をつくろうぜ」と言ってきました。自分たちが旗を振って、「ハードウェアベンチャーといえば、やっぱアキバだよね」と思われるようにしたいんですね。
――大田区や品川区ではなくて、秋葉原でなければならない理由はありましたか?
岩佐 販売店が多くて、部品も買える。店舗間のネットワークもあるので、テストマーケティングがやりやすい。その意味で、もう秋葉原はいきなり最適解です。しかも、日本でハードウェアといえば、ずっと秋葉原のイメージだから、とても自然です。
あと、ハードウェアの場合は、海外戦略が重要になるのも大きかったです。「どこからお前は来たんだ?」と聞かれたときに、秋葉原なら「ああ! 知ってるぞ!」となりやすい。Tokyoのゲームやアニメを売っている街に、日本の最先端のハードウェア屋が集まっていると思われたら、なんだか良いじゃないですか。
▲Cerevoのライブ配信機能搭載スイッチャー「LiveWedge」(上)。ビデオカメラやパソコンをつなぐことでテレビ番組のようなカメラ切替やエフェクトに加えライブ配信が可能。高度な専門機材ではなく、タブレット端末から操作できる(下)。
■ 「ファミコンなんて薄っぺらくて、面白くない」
――今日は、岩佐さんに日本のハードウェアベンチャーの歴史を聞きたくて来たんです。
岩佐 了解です。どこにもまとまっていない話ですが、大きな流れは語れると思います。
――……なのですが、取材のために調べながら、ビジネス系のメディアでの岩佐さんの発言の端々から、相当にガチなオタクであるとわかったので、少しその話をしたいな、と(笑)。実は、自作PCやパソコンゲームをかなり嗜まれてますよね?
岩佐 ええ、そうですね(苦笑)。大阪にいた頃は、ずっと日本橋に通ってました。
……確か高1のときだったかなあ。当時は、自作PCじゃないとゲームが出来ない時代だったんですね。まだWindows 3.1で、Intel386からIntel486に移行するくらいの頃だったと思いますね。その頃にDOS/Vにハマって、洋ゲーの世界に行ったんです。
――早くから、パソコンゲームはやり込まれていたんですか?
岩佐 最初は小学生のときです。友人の家に父親のPCがあって、それで『大戦略Ⅲ’90』をやったらドはまりしたんです。でも、その友人とは違う中学に進むことになってしまい、もう彼の家には入り浸れない。これは困ったと思って(笑)、両親にねだって中古のPC-286C(EPSON製PC98互換機)、と「大戦略III’90」を購入してもらったんです。
当時は膨大な知識量がモノを言うゲームが好きで、だから一番最初にハマったのも、フライトシムと戦略シミュレーションゲームでした。「大戦略」は数百種類の兵器の情報が全て頭に入っているかで、戦略の組み立て方が全く変わってくるんです。その流れで「工画堂スタジオ」や「マイクロプローズ」の作品にハマって……ああいう当時のソフトハウスとともに育った人間ですね。フライトシムも500ページの辞書みたいな取扱説明書を読んで、プレイしていました。
――結構、ヤバい中学生ですよね。
岩佐 逆にコンシューマーゲーム機のゲームなんて、中学にいってからは全然やらなかったですからね。「あんなのは薄っぺらくて、面白くないな」と思っている子供でした。結局、初代PlayStation(以下、PS)も買わなかったです。それどころか、セガサターンもスーパーファミコンも買ってない。ファミコン以降でPS2より前のゲーム専用機はひとつも買ってないですよ。そのPS2もほぼ『GranTurismo』シリーズ専用機でしたし。まあ、自動車が好きなだけなんですけど(笑)。家庭用ゲーム機は、どうしても深みがない気がして、嫌いだったんですね。
■ Cerevoの原体験はゲーマー活動にあり?
――それだけパソコンゲームをやっていたとなると、やはりパソコン通信もやってましたか?
岩佐 中学生の頃には草の根ネットに入りびたってました。親が寝てからこっそり電話からモデムへと回線を繋ぎ変えて(笑)。でも、これが現在のCerevoでの事業の原体験なんですよ。
もう若い人には想像がつかないかもしれないけど、インターネットがなかった時代には、学校は「箱庭」だったんです。学校の小さなクラスが世界そのもので、そこに自分と同じものを好きな人がいなければ、もうおしまい。しかも、僕はすっかり軍事オタクになっていたので、「どこのミサイルのフィンの高さが何ミリだ」みたいな話をしていて毎日楽しいという、実にイカれた、ダメな中学生になっていた(笑)。
ところが、ある日そこにパソコン通信って世界が現れて、ネットに繋いだら見たこともない世界が広がっていた。フライトシムが好きな中学生や大人のおっちゃんたちと繋がれて――ああ、やっぱり日本には1億人がいて、オトンもオカンも学校の連中もみんな知らないけど、学校に縛られないもっと広い世界があるんだ――そんなふうに思えたんです。いちクラスの中では誰もほしいと思ってくれない超ニッチな商品であっても、実は日本だけでも1万人や10万人、世界に目を向ければ50万人や100万人がいる。中学生の頃にマニアックな草の根BBSの世界を覗いてそれを肌で感じたことは、やはり僕の原体験として鮮烈に残っているし、現在もなおその記憶を引っ張り続けています。
――つまり、Cerevoの「グローバルニッチ戦略」の原点には、パソコン通信でのオタク体験があったと。
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