【お詫び】本日配信の「ほぼ日刊惑星開発委員会」ですが、編集作業に時間がかかってしまい、今朝の午前7時に配信することができませんでした。楽しみにしていただいていた読者の皆様、大変申し訳ございませんでした。本日正午より配信・公開いたしましたので、ぜひ、ご覧ください。今後ともPLANETSのメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」を楽しみにしていただけますと幸いです。

※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)
▼PLANETSのメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」2015年1月の記事一覧はこちらから。
http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201501
▼今月のおすすめ記事
宇宙の果てでも得られない日常生活の冒険――Ingressの運営思想をナイアンティック・ラボ川島優志に聞く
井上敏樹書き下ろしエッセイ『男と×××』/第5回「男と女4」
ほんとうの生活革命は資本主義が担う――インターネット以降の「ものづくり」と「働き方」(根津孝太×吉田浩一郎×宇野常寛)
『Yu-No』『To Heart』『サクラ大戦』『キャプテン・ラヴ』――プラットフォームで分かたれた恋愛ゲームたちの対照発展(中川大地の現代ゲーム全史)
リクルートが儲かり続ける理由――強力な3つのループが生んだ「幸せの迷いの森」 (尾原和啓『プラットフォーム運営の思想』第6回)
1993年のニュータイプ──サブカルチャーの思春期とその終わりについて(宇野常寛)
駒崎弘樹×荻上チキ「政治への想像力をいかに取り戻すか――2014年衆院選挙戦から考える」
"つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)
宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第1回:「リトル・ピープルの時代」から「母性のディストピア2.0」へ

國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第9回テーマ:「逃げること」

☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.1.23 vol.247
http://wakusei2nd.com

e3edc193a12225dc4ddc6c1bbb6bc5e9d89eae5b

お待たせしました! 哲学者・國分功一郎先生による大人気連載『哲学の先生と人生の話をしよう』最新回をお届けします。今回のテーマは、「逃げること」です。

 
『哲学の先生と人生の話をしよう』連載第1期の内容は、
朝日新聞出版から書籍として刊行されています。
ed8c6c3bc9746678e82574b7e6d9d3c8c7113bd1

書籍の続編となる連載第2期「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」の最新記事が読めるのは、PLANETSメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」だけ!
過去記事はこちらのリンクから。

それでは、さっそく今回のテーマ「逃げること」について、寄せられた相談をご紹介していきます。


ビスちゃんぽん 31歳 男性 千葉県 勤務者

連載、いつも楽しく拝読させて頂いております。
お目汚し申し訳ございませんがどうぞ宜しくお願いします。

自分のこれまでの人生を振り返ると苦しいことから逃げ続けてばかりの人生だったような気がします。
中学受験、大学受験、その後の学生生活、職に就いた後もそこから逃げるように楽をできる方向ばかりの生き方をしてきました。
結果、私は何を得ることもなく、空虚な人間に成り下がっている、そんな感覚が常に自分の何処かにあり、空虚であることを肯定するかのようなルサンチマンで己を日々ダラダラと生かしているようにも思います。
周りに救われ、周りを傷つけて私が存在していることは明らかなのに、周りを救うことができない自分は、1人の人間としてこれで良いものか、と悩むこともしばしばです。
そこから脱却しようと克己すれば良い、というシンプルな結論もよく考えますが、その過程にある努力が苦しくて目を逸らし、逃げようとする意識のために、結局は何事も実現できておりません。
こんな随分な年齢になって伺うのも恥ずかしいことなのですが、自分の「逃げること」に対して歯止めをどうかければ良いか、などという益体もないことをつらつらと考える自分にも辟易します。

相談、悩みというには余りにも空疎でまとまっていない内容で気が引けるのですが、ご笑覧下されば幸いです。


谷新九郎 27歳 男性 東京都 会社員

 國分先生、こんにちは。
 僕は生活の節々で「大切な問題について考えるのを避けて、日常的な些細なことにかまけているのではないか」と感じることがあります。大切な問題というのは、はっきり書いてしまうと「老いる」ということであり、「いつか死ぬ」ということです。
 昔から夭逝というものに憧れていて、若くして死んだ戦国武将や芸術家がカッコよく思えてなりませんでした。中高生の時分、漠然と「自分も25くらいで死ぬのかな」と思っていたら、そういうこともなく、それからというものなんとなく「ずるずると生き永らえている」という印象があります。
 キャリアアップや自己実現のために努力することはもちろん素晴らしいことですし、趣味に打ち込むのも友人と談笑するのも楽しいのですが、どこか「問題を先送りにしている」という感覚がぬぐえず、時折虚無的になってしまう自分がいます。
 じゃあ逃げずに死ねばよいのではないか、といわれると困ってしまうのですが(因みに卒業論文はデュルケームの『自殺論』でした)、老いについて考えることから逃げず、逆に肯定的に捉えることはできるのでしょうか。何かアドバイスをいただければ幸いです。


ぽてりん 29歳 男性 東京都 会社員

國分先生

いつも楽しく拝見させていただいております。

「逃げること」という今回のテーマ聞き、自分が幼少の頃より嫌なことがあるとすぐにベッドに逃げ、母に叱られた記憶を思い出しました。

成人した現在においてもその逃げ癖は、私の行動に影響を及ぼしていると思います。

例えば、私は知り合い程度の人間と同じエレベーターに乗るのが嫌いです。互いに話すことがなくなり、沈黙してしまう空気、それに耐えられないのです。

ですので、以前、事務所があったビルの7階までエレベーターを使用せず、逃げるように毎日地下1階から階段で上ってきたこともありました。

自分の行動を規制する「逃げること」とは何なのかが、私自身よく分かりません。

國分先生にお聞きしたいのは、「逃げること」とは何か、どこまでが「逃げること」
(例えば、物質へ自分の気持ちを投射することなど。嫌なことがあった時、空を見上げると曇り空から雨がしとしと降ってきて、その天気が自分を慰めてくれていると感
じる行為なども逃げることに入るのか?)
なのかです。
抽象的で申し訳ございませんが、先生のご意見をお伺いできれば幸いです。

逃げ癖人生を歩んでいる私ですが、逃げたことからは逃げられないとは思っております。蛇足でした。


ちんおんち 25歳 男性 千葉県 無職

自分にとって都合のよい世界で生きたいんですけど、自分の知る限りそんな世界はどこにもなくて辛いです。どこかそういう世界に逃げたいです。
どこに行っても「人としてこうあるべき」っていう圧力があって、どこかにそういうのが全くない世界がないかなぁって思ってます。
都合のよい世界を作るために努力する気はないです。面倒くさいから。
求めてるのは無条件で自分のことを肯定して生かしてくれる世界なんですけど、そういうこと言うと軽蔑されるのも嫌です。何もかも嫌です。
ネットとかだと「じゃあ死ね」って言われますけど、死ぬのも努力が必要だから嫌です。
やっぱり自分みたいに現実から逃げたい逃げたいと思ってる人は死んだほうが良いんでしょうか? それならどうしたら楽に死ねますか? 教えて欲しいです。よろしくお願いします。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 どうも、こんにちは國分です。 
 今回は「逃げる」がテーマなんですけど、すみません、ちょっと読者の方を不快にさせるようなことを書きますね。
 なんか、質問がつまんなかったです。
 「ああ、そんなもんなんだ」って思いました。
 だってどれも、「自分は逃げちゃ行けないところで逃げてしまうから、どうしたらいいか」という質問ですよね。
 そういう「逃げる」っていったいどういう意味ですか?
 どういう意味なのかはっきりしませんけど、そうやって「逃げて」いても生きていけるんでしょ。
 そこにあるのは、「自分は本当はもっとイケてるはずだ」という、理想からのズレに対する意識だけじゃないですか。ただそれだけじゃないですか。
 「逃げる」が、理想とのギャップを埋められないって意味になってる。
 逃げるってのは、そういうことじゃありませんよ。
 危険があって、それを察知して、その危険を避ける。それが逃げるってことです。
 ダラダラしてるとか、問題を先送りしてるとか、沈黙に耐えられないとか、それはあなたがそういう人間だというただそれだけのことです。
 自分がどういう人間であるのかを受け入れられていない、ただそれだけ。
 なのに、よく分からない理想像をどこからか学んできて、それと自分が違うから「逃げる」って言葉を利用している。
 まぁ、死にたいって言ってるちんおんちさんが正直なのかもしれないですね。生きているのって本当に大変だから。
 僕はですね、逃げたいのに逃げられない、どうやったら逃げられるだろうかという質問を期待していました。それこそ、考えるべき問題です。
 会社からどう逃げるか、親からどう逃げるか、DVからどう逃げるか、今の地位や生活を捨てて、迫り来る戦争からどう逃げるか……。たくさんあるじゃないですか。
 なんで、こうなっちゃうんでしょうか。
 つーか、どう思いますか?
 「逃げちゃダメだ!」ってフレーズが頭の奥深くにこびりついているって感じじゃないですか?
 このフレーズ、通俗的すぎるでしょ。なんで逃げちゃいけないの? わけわかんね。
 危なかったら逃げるんだよ。
 だって、危ないって分かっているのに逃げずにいい気になって立ち向かっていく奴がいたら、「バカだな、あいつ」って思うでしょ?
 「どうしても逃げてしまいます」って言う人は、「自分はバカになりたいです」って言いたいんですか? そうじゃないんだったら、単に「逃げる」って言葉の使い方がおかしいんですよ。
 もちろん、さまざまな理由で逃げられない、逃げられなくなるケースがあります。逃げるべきなのに逃げられないのだとすれば、これこそ考察に値するケースですよね。どういう可能性があるのかを考えることができる。

 すこし話を発展させます。
 「あなた方がそういう人間だというただそれだけのこと」って書きました。
 人間があれこれの性格や傾向をもっているというのは、いったいどういうことでしょうか?
 最近、「徳」についてよく考えるんです。僕はこの言葉が嫌いでした。哲学では、一般的に、保守的な思想の持ち主が徳の話をしますので。
 でも、「徳」を違う仕方で理解できると分かって、これがおもしろく感じられるようになってきたんです。
 薬物依存やアルコール依存の女性たちが互いに助け合う自助グループのお話を聞いたのがきっかけでした。