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"つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.235 ☆

2015/01/07 07:00 投稿

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"つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)

☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.1.7 vol.235
http://wakusei2nd.com

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本日のほぼ惑は、好評連載『ウェブカルチャーの系譜』第4回をお届けします。今回は「ウェブカルチャーの系譜」を辿っていくための補助線として、思想家・浅羽通明のメディア/コミュニケーション論を読み解きます。90年代前半の「ゴーマニズム宣言」にも強く影響を与えた浅羽通明という気鋭の論客は、なぜゼロ年代に迷走に陥ったのか――。「オナニスト」「職能の協働」をキーワードに、その限界と現代的意義を問い直します。

稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』これまでの連載はこちらから。


 博報堂ケトルの嶋浩一郎氏が以前、(正確な言い方は忘れたが)BRUTUSで「ソーシャルメディアの登場以降、一般的なニュース記事が受けるようになってきた」ということを話していた。これは筆者にも実感がある。実際、現在でもポータルサイトのトピックス流入などでは、硬派な政治や経済のニュースにPVが集まることは少なく、そんな記事よりも「きのこたけのこ戦争」や「ノーバン始球式」の方が遥かに高いアクセスを叩き出す現状がある。しかし、そのくせFacebookのような場所では、妙に政治や経済のニュースが流れてくる。

 その記事で面白かったのは、確か嶋氏がその理由として「ソーシャルメディアでつぶやくから」と言っていたことである。そう、TwitterやFacebookで自分が見ているニュースをつぶやくことは、自分がどんな記事を読んでいるかの態度表明なのだ。そのとき、普段は「はちま起稿」だの「netgeek」だの「ロケットニュース」だのばかり読んでいる人間であっても、Facebookでは知的な仲間たちに向けて朝日新聞のピケティの書評記事でもつぶやいておくかと考える。まあ、ありそうな心理ではないだろうか。
 実際、筆者自身もタイトルをつける仕事をする際には、多少の釣り要素を考慮すると同時に、それをTwitterでつぶやいた人が周囲に良い顔が出来る文言になるように気をつけている。これは実感ベースではあるのだが、極端に不快であったり、内容からかけ離れた釣りタイトルの記事は、アクセス率は高くなるものの、やはりつぶやかれる確率は下がっているように思う。
 いずれにせよ、こういう話から見えてくるのは、単純にニュース記事を消費すると言っても、そこに他者の目があるか否かで、そのあり方や拡散の度合いは大きく違ってくるということだ。一方でそれを意識するかは、アーキテクチャの問題であると同時に、当人の自意識の問題でもある。それは、かつてリアルの満員電車において、おしゃれな表紙の雑誌を見せびらかす自意識過剰な若者がいた一方で、堂々とスポーツ新聞のエロ記事を他の乗客に向けて読んでいたオッサンもまた、いくらでも存在していたのと同じことである。

 前回から私が、電話という原始的な形態のコミュニケーション媒体に的を絞って、一種の他者論を展開している理由の一つは、まさにここにある。電話のアーキテクチャそれ自体に注目すれば、それは一対一で人間がコミュニケーションしあうメディアである。しかし、そこにおいてすらも電話の向こう側にいる他者をどのようにイメージするかは、究極的にはユーザーに委ねられていた。
 では今回、私たちが考えるのは、一体どうイメージされた他者なのか。私は前回、富田英典は他者と1対1の関係を取り結ぶ場合を考え、吉見俊哉は1対Nの関係を取り結ぶ場合を想定しているとした。その比喩で言えば、ここで考えるのは、言わば「1対ゼロ」の関係とでも言うべきものだ。そこでは、人間は自分とのみ関係を持つ。あるいは、この言い方が持って回って響くなら、単純に「孤独」なユーザーたちと言ってもよい。これが最後の電話ユーザーの類型である。

 この「孤独」にインターネットで活動するユーザー像というのは、かつてのネット論においてはむしろクリシェだった。例えば、パソコン通信、ホームページ、2ちゃんねるなどの匿名掲示板……そうした場所は事実、社会からも家族からも切り離された「個室」で孤独に展開されてきた趣味や自己イメージが、膨れ上がった自我そのままに表出したような空間だった。だが、そうしたパソ通やHPの思い出も、もはや「黒歴史」という言い方で回顧されることが増えた。この言葉の台頭がソーシャルメディアの流行に伴い、リアルグラフとネット上のバーチャルグラフが一致していく時期に当たっていたのは象徴的だ。
 その一方で、この「個室」における孤独な消費は、現在も静かに拡大を続けている。例えば時折、有名サービスのレコメンデーションやランキング機能に思わぬ商品が登場して話題になることがある。数年前には、Amazonで硫化水素入りのトイレ洗剤のページに、ポリ袋などの商品がレコメンドされることが話題になった。あるいは先日、筆者が体調を崩してAmazonで健康グッズを調べていたところ、ジャンル内の人気商品として巨大なバイブレーターが登場してきて、思わずのけぞった。もちろん、多くの日本人にとって肩こりは悩みの種であるが、さすがにこれを多くの人間が必要とするほど病が進行しているとは思えない。

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▲Googleで「夫 こ」と打ち込むとこのように表示されます……。

 こんなふうに誰の目も気にせず孤独に使う類のサービスで集積されたデータが、ふいにランキングやレコメンデーションという形で「表象」の場に引きずり出されたとき、私たちはギョッとする。それは、「孤独」に利用するインターネットというあり方を、いかに私たちが意識の奥に追いやっているかを静かに告発する。だが、他者の視線に晒されてFacebookやLINEを使う時間と、一人Amazonやpixivで気の向くまま消費活動を行う時間―― 一体、本当のあなたはどっちにネットの時間を割いているのだろうか?

「忘れられた思想家」浅羽通明

 さて、そろそろ本題に入ろう。私は今回、この「1対ゼロ」、すなわち「孤独」な電話ユーザーのことを考えた一人の思想家について考える。彼は、そんな電話ユーザーたちを「オナニスト」と呼び、激しく批判した。そして彼は、ほとんどその後の作家人生を賭けて、この問題を考え続けた。その人物の名を、浅羽通明という。 
 もしかしたら、PLANETSの読者には、この名前に懐かしい感情を抱く人は多いかもしれない。だが、多くの読者は聞いたこともないだろうし、もはやWikipediaに書かれていること以上に、手短に浅羽を説明するのも相当に難しい。


 例えば、彼がかつて小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』にブレーン的に関わっていたと言っても、いまやその後に『戦争論』を書いた小林が一周回ってネトウヨの敵になっているという、タイムマシンに乗って当時の読者に話したらキョトンとされそうな時代である(いや、意外とそうでもない……?)。同様に、当時の浅羽の「おたく」批判も、現代ではもはや文脈を違えてしまった。その矛先は大塚英志のような彼と同世代のインテリ趣味人としての「おたく」、後の言葉を使うならば「第一世代オタク」に向けられたものであって、そこにこそ彼の「おたく批判」と「知識人批判」が同一の地平で行われる理由もあった。しかし、既にオタクの世代も何度も入れ替わり、今や「ヲタ」は単なる趣味のカジュアルなカテゴライズ以上のものではなくなっている。
 しかも、浅羽はインターネットを嫌っていた。そのことは、後述するライブドア事件に寄せた識者コメントや、その認識の延長線上に書かれた『昭和三十年代主義』(幻冬舎・2008)を読めば分かるように、近年の彼の言論からアクチュアリティを奪っている。

 だが、それでもなお浅羽が問い続けたテーマを、私たちは考え直さねばならない。それは、こうして彼の問題意識が失効されていった過程に、現代を覆う消費社会の中でのインターネットの立ち位置もまた見えてくるからである。したがって今回は、この浅羽を通じてネットと「孤独」を考える。実のところこの話題、本連載における主題(※)からは些か脱線気味なので、サラッと片付けるべきだとも思ったのだが、重要な割にほとんど議論されていない問題でもあるので、むしろ一回分を割くことにした。おそらく、本メルマガが事業者に取材して回っているECサイト等の生活系サービスや検索エンジンの問題系、あるいは尾原和啓氏による連載「プラットフォーム運営の思想」を読者が考える補助線になるはずだと思う。
 
(※)前回にも記したように、本連載はむしろ吉見俊哉の「1対N」のモデルに大きく寄せて、ユーザー文化論を展開していく予定である。

浅羽とオナニスト――1.なぜそれは"おぞましい"のか

 まずは、浅羽の考えるオナニストとは何かを確認しよう。

「他者は、それが一個の人格である以上、「私」と同じように、「私」を眺め、「私」を観察する。他者には視線があるのだ」(『澁澤龍彦の時代―幼年皇帝と昭和の精神史』p86)

 これは著作『澁澤龍彦の時代―幼年皇帝と昭和の精神史』(青弓社・1993)で浅羽が引用した、澁澤龍彦のエロティシズム論の一節である。浅羽は視覚とエロティシズムを結びつける視覚的な快楽の追求(「眼の欲望」)が、強引に対象を切り取り、対象をモノと化す行為であることを指摘する。そして、それが同時に「私」を観察する異性という他者への怯えと裏腹であることを指摘して、こう語る。

「かくして「眼の欲望」の時代は、その裏面としての女性の視線におびえる童貞青年が増大する時代となる。彼らは「視線を意識しないで済む」「物(妄想のなかの死んだ相手)」が相手でなければ、性行為ができないオナニストたちなのである」(同書p86)

 ここで浅羽は「視線」を媒介にして、オナニストを説明している。せっかくなので、前回までの議論とこの浅羽の論を接続してしまおう。吉見にとっての「電話(伝言ダイヤル)の相手=他者」とは、演劇場の観客のような複数形の「他者」の眼差しとしてあった。しかも、それは未来から投射される故に、原理的に制御できない受動的なものだ。一方で、富田にとっての「電話(ツーショット)の相手=他者」とは一対一で向き合う、現在進行形で調整可能なものとしてあった。そこでは都市で登場するような見知らぬ他者を排除した、親密でほとんど自分と一体化した存在として他者をイメージできる。それは最終的に、互いに鏡写しに自らの視線の反射を確認しあうような姿になる。

 それに対して、オナニストにはそもそも自らを眼差す他者がいない。その代わりに、ただ徹底的に能動的に対象を眼差すのである。浅羽は、この眼差しの特徴について、「見るという関係性が優先してしまうと、もはや相手と溶け合うことができない」と表現する。その眼差しが人間に向けられたとき、それは極端に視覚に偏った、相手の内面に宿る個別性を徹底的に無視する、類型的で表層的な人間把握へと至る。そして浅羽は、その志向が一線を越えたときに、博物館の陳列ケースに過去の剥製を蒐集し続けるが如き、自立したデータベースを築く意思が生じるという。まさに"おたく"である。

 実は、このオナニストが浅羽の著作に現れたのは、このときが初めてではない。例えば、遡ること四年前のブックレット『伝言ダイヤルの魔力 電話狂時代をレポートする』(JICC出版局・1989)所収の「伝言ダイヤル症候群 どこかの誰かが上手くやっている」において、それは主題として論じられた。これはまさに伝言ダイヤルについて、若き日の浅羽が論じた文章でもある。
 この中で浅羽は強い調子で、ほぼ全編にわたって伝言ダイヤルを批判した。それは激しく感情的なもので、例えば後に評論集『天使の王国―「おたく」の倫理のために』(JICC出版局・1991)で同時に収められたセブン-イレブンを巡る、ほとんど現在のコンビニ論としても通用する理知的かつ網羅的な論述とは、対照的でさえある。ここで興味深いのは、浅羽が吉見とは全く別の認識で「伝言ダイヤル」を捉えていることだ。例えば、冒頭で浅羽は、吉見が「間接話法」と呼んだ伝言ダイヤルの話法を、にべもなくこう切って捨てる。

「彼らの話法が、とんねるずに代表されるTVのバラエティ番組の若い司会者もしくはラジオのパーソナリティの語り口のコピーであることはまず明らかだ。それは多少の訓練で即、口をついて流れ出してくるくらい、彼らの耳に親しい話法なのだろう」(『伝言ダイヤルの魔力 電話狂時代をレポートする』p32)
 
 日本のカルチュラル・スタディーズの第一人者・吉見俊哉が、後に「他者のまなざし」を観客とした即興劇として描いた伝言ダイヤルも、気鋭の若手おたくライター・浅羽の手にかかれば、単なる芸人口調の安易な劣化コピーでしかない。では、浅羽にとっての伝言ダイヤルとはどんなものか。浅羽は、見知らぬ他者のコミュニケーションが、本来は相互警戒のプレッシャーを解く場面から始まることを指摘する。しかし、伝言ダイヤルではそれを失わせるどころか、声と断片的情報しかないことから、むしろ手前勝手な妄想を相手に抱けるのである。

「相手方の他者性は希薄となり、半ば己の妄想を相手とする相互オナニー的交流が始まることになる。部外者にはなんとも異様に聴こえる演技過剰な伝言メッセージの語りの定形は、自分の他者性を希薄化するためのルールに他ならない。それは相手も当方も、他者ではなく己の妄想を相手にすれば済むように、各自を声のオナペット化する技術であった」(同書p33)

 ここでも、吉見と浅羽の論はすれ違う。吉見においては、むしろ自己の声さえも他者性を帯びるのが、伝言ダイヤルにおける発話だったからだ。一方でこの認識は、吉見よりもむしろツーショットにおいて富田が指摘した「ナルシシズム」に近いようにも見える。だが、ここでは自らの欲望を動物的に満たす対象=オナペットとして、相手が利用されている。比喩的に言えば、富田において電話相手は自分自身だが、浅羽にとってはただの妄想にすぎない。そして、富田は実はこうした電話コミュニケーションを現代人が自己愛を調達する手段として必ずしも否定的に捉えてはいないが、浅羽の認識においてはもはや自己愛すらも存在しないのだろう。あるのは一方的な眼差しであり、ただコンビニでオニギリを買うように、即物的な欲望のはけ口として相手を消費する行為だ。若き浅羽はその醜悪さに唾棄する。

「どことなく長電話に伴う後ろめたさ、いたずら電話やテレフォン・セックスの醜悪さも、おそらく他者である相手を、オナペットと化して、相互にオナニーを楽しんでいるというおぞましさに由来するのだろう。費やされる膨大な性的想像力によって電話の彼方の異性を、こちらの思うがままのオナペットと化す点において、ヌードや下着から性的欲望を喚起する視覚によるオナニズムの場合とはまた異なって、電話のオナニズムはおぞましい」(同書p33)

 浅羽の論はその後『メンズ・ノンノ』が創刊された1985年頃に、社会に"普遍的な"「オナニズム」が誕生したとして、消費社会論の視点からその成立の分析を展開させていく。その内容そのものも興味深いが、むしろ重要なのは、オナニズムに対する浅羽の興味が、消費社会論と強く結びついていたことそれ自体だろう。浅羽は消費社会そのものの達成には極めて肯定的な思想家だった。だが、そんな彼がここでは激しく動揺し、終始書きなぐるようにして憤り続ける。それはなぜなのか。

 先に挙げた著作『澁澤龍彦の時代』も、実はこの電話論で表明された「憤怒」の延長線上に位置づけられる。糸井重里の西武百貨店のコピー「ほしいものが、ほしいわ」に象徴される消費社会とは、まさに他者の目を気にしないまま「孤独」に欲望を満たす生き方が(都市の若者には)可能になった社会でもあった。その「オナニスト」の生き方こそが、浅羽もその一人であったおたくやニューアカに純粋な形で象徴される、消費社会に登場してくる新しい「生」のありようであった。
 だが、それは当時の浅羽の目には危機に瀕していた。本の冒頭で浅羽は、同世代のニューアカ周辺にいた物書きたちが、チェルノブイリ原発、湾岸戦争の光景、そして何よりも埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤事件)に激しく動揺し、浮き足立ったことを苦渋とともに語る。その動揺の所以は、浅羽が語るところでは、自らの自閉的な生き方のもたらす末路を、そうした事件の陰惨に見出したからであった。とすれば、伝言ダイヤルにおける浅羽の動揺もまた、まさにその点にこそあったのではないか。例えば、浅羽は伝言ダイヤルにおけるオナニズムの、情報の交換と己の妄想によるイメージ補填に、一種のワナビー構造を見出している。互いに芸人口調を真似し合い、「上手くやってる」ナンパ師になった気分を味わい合う。その怠惰な遊戯に、当時の浅羽はほとんど国の危機すら憂う調子で筆を進める。だが、そこには後に、彼がニューアカ批判の文脈で反省的に語った、自身の似姿を見出してはいなかったか。

 そして、そんな最中に浅羽は「オナニスト」であることに堂々と居直るばかりか、それをモラルの糧とした澁澤の文章に出くわし、瞠目したという。浅羽にとって、人形やゴチックを愛好した異端の文学者・澁澤龍彦とは、まずはそんな「オナニスト」の青年たちの早すぎた先駆者としてあった。そして、1993年の浅羽がこの『澁澤龍彦の時代』で問うたのは、早すぎた「オナニスト」であるはずの澁澤が、何故に健康で、意外にもモラリストの相貌さえある精神性を保ち得たのかという問いだった。つまりは――なぜ澁澤龍彦は宮崎勤にはならなかったのか。その謎をひたすらに追求したこのとき、浅羽の「オナニスト」は克服さるべき消費社会の時代精神となった。そして、その最終的な解答は、小林よしのりの漫画『ゴーマニズム宣言』と並走した90年代の充実した成果を経て、「世間」「分際」「職能の協働」などの一連のキーワードからなる処方箋へと結実していくことになる。

浅羽とオナニスト――2.処方箋としての「職能の協働」

 では、その最終的な解答とは何だったのか。それはある時期以降の浅羽が何度となく取り上げた劇作家・福田恆存の、この言葉に行き着くのではないか。

「人間は生産を通じてでなければ附合へない。消費は人を孤獨に陥れる」(『消費ブームを論ず』福田恆存)
 

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