國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
第7回テーマ:「お金に関する悩み」
第7回テーマ:「お金に関する悩み」
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.10.30 vol.109
一昨年よりこのメルマガで連載され大人気コンテンツとなり、書籍化もされた哲学者・國分功一郎による人生相談シリーズ『哲学の先生と人生の話をしよう』。2ndシーズンの連載第7回となる今回のテーマは「お金に関する悩み」です。
▼連載第1期の内容は、朝日新聞出版から書籍として刊行されています。
それではさっそく、今回寄せられた「お金に関する悩み」をご紹介していきましょう。
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【1】クレジットカードのリボ払いに苦しんでいます
シックスマン 24歳 男性 京都府 大学生
大学生です。クレジットカードでの買い物をやめたいです。大きな買い物をするわけではないのですが、KindleやAmazonで書籍を購入したり、メルマガの購読、Huluなどの月額課金制のコンテンツにお金を使うことに躊躇いがありません。その他に交通費をクレジットカードで払っているため、定期券で行ける範囲外に行くのにもどんどん交通費を払ってしまいます。その結果、毎月のアルバイト代はクレジットカードのリボ払いにほとんど消えてしまう生活となっています。今までクレジットカードに支払った金額を計算すると海外旅行へ行けたり、良い服を買えたりします。そのようなことにお金を使えば良かったと後悔するものの、クレジットカードのリボ払いを一括払いに替えられるほどの資金はありません。それに無形のコンテンツにお金を払うことを何度かやめようと試みたものの、ついついワンクリックで買い物をしてしまいます。このまま卒業するまでクレジットカードの決済のためだけにアルバイトをしていくしかないのでしょうか。
【2】自分よりも収入の高い同世代の友人にコンプレックスを感じてしまいます
ぱたぱた 26 男性 東京都 大学職員
國分先生こんにちは。
僕の悩みはお金に対する強い執着がないことです。有名私大の経済学部を卒業しているためか、大学の友人は「もっと高い年収」を目指す非常に意識が強く、スキルアップ・転職・年収アップに日々いそしんでいます。対して僕は正直350万円程度もらえて、ハードカバーの本とCDを気兼ねなく買えるだけの財力があれば十分で、結婚にも子どもにもあまり興味がないので、将来の家族のために働くという意識もありません。
それで割り切れれば良いのですが、一方でキャリア志向の人々に会うとコンプレックスを感じている自分もいます。やっぱり高度資本主義社会の中で”Greed is Good”と刷り込まれているからなのかなあと推測しますが、お金を得て何に使いたいのかという根本的なところがわからないのです。
國分先生のように博士号まで取られている方は、長く同世代の友人より収入が少ない時期が長かったと(失礼ながら勝手に)推測していますが、僕のように彼ら彼女らに対するコンプレックスみたいなものは抱きませんでしたか。
何かアドバイスをいただければ幸いです。よろしくお願いします。
【3】婚活サイトで相手の年収ばかりが気になってしまいます
匿名希望 30歳 女性 神奈川県 会社員
私は今年30歳になりましたが、彼氏と呼べるような人は長らくおりません。
そこで、今は婚活サイトなどを利用して真剣に相手を探しています。
いろんな方からコンタクトいただいたり、自分からしたり…そんな時に気になってしまうのが、相手の年収なのです。
例えば30歳超えているのに500万円では低いんじゃないかとか、若いのに1000万円超えていたりすると、危険な人なんじゃないかとかそんなことばかり気になってしまいます。
というか、婚活サイトに紹介されている人たちは男女問わずいろんな数字がくっついていて、全部が気になってしまうようになってしまったんです。年齢、身長、年収、異性からアプローチを受けている数など……。
今までは男性の身長なんて気にしたことなかったのに、いつの間にか「高くなきゃ嫌だ!」とか思うようになってしまっています。それにアプローチを受けてる人数でも、少なすぎても多すぎてもいろいろ深読みしちゃうんです。
さらにたちが悪いのは、婚活サイトでは次から次に新しいコンタクトがあるので、ちょっとでもつまらない人だと感じたらどんどん切ってしまう感じもあります。それは男性側も同じ様なかんじなのですが……。
私はどうしても恋愛して好きな人となんの迷いもない心で結婚し、助け合って生きていきたいと強く思います。以前は自分一人でも構わないと思った時期もあったのですが、両親や祖父母夫婦の仲の良い様子を見ていると羨ましくてたまりません。
婚活サイトで相手を探しているけど、こんなに相手の条件ばかり気にして、私のしたい様な恋愛、結婚はできるのでしょうか? 結局お金だけでなく他のことにも関わってしまってすみません。何かアドバイスいただけるとうれしいです!
【4】学費のことを心配せずに勉強できる環境が欲しいです
どんちゃん 20代 女性 東京都 大学生
私立の美大に通っている大学生です。実家の家計が苦しく、奨学金とアルバイトで賄っていますが、毎日のアルバイトのために学業にあてられる時間が少なくてもどかしいです。 また、大学院の博士課程まで進学したいのですが、経済的にやっていけるのかとても不安です。 私は浪人をしたし、両親の結婚が遅かったので両親はすでに高齢で、身体障害もあります。本当なら私は普通に就職して家計を支えるべきなのだろうか、私のようなお金のかかる子どもがいなければ両親は楽だっただろうに、などと考えてしまいます。 それと同時に、経済的な事に疎くうまく立ち回れない両親に対して苛立つ事もあります。下着を二枚持っていたら、一枚も持っていない人にすぐあげてしまうような人達なのです。 お金のことを心配せずに勉強できる環境が欲しいです。
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皆さん、こんにちは。
今月はお金に関する悩みを受け付けました。哲学というのはあまりお金の話をしないんですね。もちろん、経済を論じる哲学はあります。しかしそれは、抽象的な経済活動や経済構造を論じているのであって、ここにあるこのお金をどうするかという話ではありません。
また文化人類学経由で、負債や贈与についても多くの研究があります。しかし、それもまたどうお金を使うべきかという話ではない。
お金はとても大切なものです。ですからそれをどう使うべきかを考える倫理学が哲学的に打ち立てられるべきだと思うのです。僕は友人たちと「金融の哲学」という共同研究プロジェクトをゆっくりと進めていますが、これをやってみて分かったのは、哲学が驚くほどお金の使い方について考えてきていないということでした。
お金をどう使うべきかという問題について僕は「買い物の倫理学」みたいなものを構想しつつあるんですが、基本的には拙著『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)の問題設定がベースです。すこし遠回りしながら書いていきたいと思います。
お金を使う上で何よりも大切なのは満足です。満足は充実感をもたらすわけですから、それ以上の出費を抑える効果があります。お金を使っているのに満足がなければ出費は止まりません。きちんと贅沢すること、これこそがお金を使いすぎない最大のコツです。
ところが、いまの社会ではこの満足というものが実に軽視されている。今の社会で幅をきかせているのは安さです。チラシに載っている商品価格が10円でも安いと、わざわざ車を運転してそこまで買いに行くなんてことがあるわけです。
「とくし丸」という移動スーパー事業を始められた村上稔さんが、ご著書『買い物難民を救え!──移動スーパーとくし丸の挑戦』(緑風出版)の中で、安さに振り回されることのばかばかしさを語ってらっしゃいます。買い手はもちろんガソリン代を損しているわけですが、問題はそれだけじゃない。安売り競争は売り手を疲弊させます。
商品を安さという基準でしか考えられないというのは本当に残念なことです。もう少し思想的に考えてみましょう。
19世紀イギリスを生きた思想家・デザイナーであるウィリアム・モリス(1834−1896)は、商品を労働との関連で考えました。酷い労働条件で作られた商品にはどこかおかしなところがある。あるいはまた、酷い商品はやはり酷い労働条件で作られている。そう考えていたモリスは自分で友人たちと工房を経営し、芸術的価値の高い商品を市場に提供しようとしました。その事業にはうまく行った点もうまく行かなかった点もあるんですが、この考え方はとても興味深いし、重要だと思います(この辺り、最近、大学で出した『デフレーション現象への多角的接近』(日本経済評論社)という本に、「ウィリアム・モリスの「社会主義」」という論文を寄せてますので、よろしければお読みください)。
モリスに決定的な影響を与えたのが、批評家ジョン・ラスキン(1819−1900)の思想でした。ラスキンの芸術批評というのは実に興味深いもので、なんと芸術作品を、実際にそれを作り出した仕事のありようから考えるというものなんですね(ラスキン、『ゴシックの本質』、みすず書房、を参照してください)。
たとえば一般に建築はその形態から論じられます。ロマネスク様式は半円形アーチを利用した重厚な教会堂建築だが、それに続くゴシック様式は尖ったアーチ(尖頭アーチ)を利用した背の高い教会堂建築である云々。
ところが、ラスキンは、そうした形態の問題はさらりと片付けてしまう。そして、そうした形態よりもむしろ、そうした形態の建築を実際に作っていた職人たちの仕事が当時どうであったかを考えようとするんです。
「職人が完全に奴隷にされているところではどこでも建物の各部分は当然絶対に画一的なものになるはずである。というのは、彼の仕事が完全なものになっているのは、彼にひとつのことをやらせて、ほかには何もさせないことによってはじめて可能になるからだ。したがって職人がどの程度までおとしめられているかは、建物の各部分が均一かどうかをみれば一目瞭然であろう。そしてもしギリシアの建物のように、すべての柱頭がおなじで、すべてのモールディングが変わりなければ地位の下落はきわまったといえる。もしエジプトやニネヴェの建物のようにいくつかの彫像を制作するやり方がつねにおなじであっても、意匠【デザイン】の様式がたえず変化していれば下落は行き着くところまではいっていない。もしゴシックの建物のように意匠と施工の両方に不断の変化がみられるのならば、職人は完全に自由にされていたにちがいない」(『ゴシックの本質』、54ページ)
芸術作品の出来上がった形態を見比べて「あーだこーだ」言っているような批評はラスキンには物足りなかったわけです。まさに作品の発生する現場を具体的に論じるところにまで批評を推し進めた。それは、作品を実際に作っていた職人の労働についてまで考えることにつながったわけです。
別に誰もが批評家になるべきではないので、ラスキンやモリスのようにモノを眺めることができなければならないわけではありません。しかし、こういう視点は参考になると思うんです。
たとえば商品を買うときにこんなことを考えてみる。
これはどうやって作られたのだろう? どこで作られたのだろう? 作った人は誰だろう? 作った人は何歳だろう? どうしてこの値段なのだろう? 思ったよりも安いだろうか? 思ったよりも高いだろうか? これを買った時に得られる満足はどれほどだろう? その満足は作り手の願ったものだろうか? もしも作り手に会えて、その満足を伝えたら作り手は満足してくれるだろうか?
工場製品であっても、作り手がいます。僕は『シルシルミシルさんデー』というテレビ番組の工場レポートが大好きだったんですが、あれを見ていると様々な工場の方々が実に自信をもって製品を作っているのがよく分かる。
もちろんテレビですから、いいところばかりを見せていたのかもしれません。しかし、そこには何かしらの真理もあると思います。やはり作ることは楽しいのです。そして、自信をもって、誇りをもって製品を作れることは何ごとにも代え難い喜びを与えるのだと思います。
ですから、手作り製品でなくても、工場製品であろうとも、その商品を買う際に、その商品についていろんなことを考えられるはずです。
友人の服飾デザイナーは、「服を作るには布が必要、布を作るには糸が必要、糸を作るには綿花が必要…」と言っていて、綿花農家と付き合いながらデザインをしています。デザインする側でなくても、買い手として同じように考えられることがあるはずですね。
商品について想像を巡らすことは、楽しいことですし、また購入後に満足を得るためにも有効です。商品をより分析的に眺められるようになるからです。細かいところに目がいくようになるのです。
そういうクセをつけることが現代では難しくなってきています。商品のことなんか全く分からない粗いサムネイルの画像で、テキトーに書かれた商品説明を読んで、ワンクリックで買うというのが増えてきていますから。
しかし、若い頃から買い物に意識的になり、購入時にいろいろと考えるクセをつけ、少しずつ買い物のスキルをあげていくことはとても大切だと思います。
すこし大きな話をしてしまいました。もうすこし身近な話をしましょう。
現代社会においてお金の使い方が難しいのは、普及している消費モデルがいずれも、我々を「お金が足りない」という状態に至らせるようにできているからです。
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