【新連載】
稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』
第1回
「神の降臨で2ちゃんねるは変えられるか」
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.8.4 vol.127
http://wakusei2nd.com

ネット文化をウォッチし続けてきた稲葉ほたてさんが、ついに月イチで連載を開始。
『ウェブカルチャーの系譜』と題して、インターネット以降の「文化」を問い直します。

■ 「なりきり」文化に見るウェブカルチャーの祖型
 
筆者がいつもインターネットの文化――特に日本のそれについて考えるときに、必ず思考が戻っていく場所がある。それは「なりきり」と呼ばれる文化圏の存在である。まずは、そこから話を始めてみたい。

……と言っても、多くの人はそれを知らないに違いない。筆者にしても存在だけはずっと知っていたが、実際にハマったことは一度もなかった。そうした文化圏の詳しい姿を知ったのは、会社勤めの合間に同僚と始めた同人電子書籍の取材の中で、そのヘビーユーザーだった子から話を聞いたことである。
「なりきり」とは、一言でいえば自分ではない別の人物になりきって、ネット上でコミュニケーションを図る行為だ。その人物とは、具体的な知人の誰かなどではない。多くの場合は有名なアニメや漫画などのフィクションのキャラクターであり、ときには人気アイドルなどのリアルの人間になりきることもある(いわゆる"ナマモノ"である)。また、少数ではあるが、オリジナルキャラクターを用いた「なりきり」も存在している。

ここまで読んだ多くの人がお気づきのとおり、この文化は法的な意味で少々デンジャラスである。二次元のキャラクターになりきるにしても著作権の問題が浮上してくるし、三次元ともなると肖像権の侵害という問題が発生してしまい、「なりすまし」との境界線という問題が浮上してくる。故に、基本的には注意深く「検索避け」が施され、表の世界には出てこないようユーザー自身が極めて自制的に行動している。
また、そんなややこしい問題以前に、なりきりのユーザーは大半が思春期の女の子であることもあって、当人たちとしては"お察しください"な行動の見本市であり、当時のことは黒歴史として固く口を閉ざすべき存在になっている人ばかりである。そんな感じだから、もはや市民権を得た感すらあるBLや、あまり表には出ていないが意外にも話したがる人の多い夢小説のような他の同人サイト文化とは違い、気楽な同人での原稿のわりにはかなりセンシティブな配慮をしながら話を聞かざるを得なかったのが印象深いのだが、そんな取材の中で一つ大変に興味深いことがあった。

それは、ほとんど全てのネット上の表現メディアにおいて、この「なりきり」の文化が存在していたことである。

例えば、最も有名なのは、キャラクターになりきってチャットを行う「なりきりチャット」である。これくらいは名前を聞いたことがある人も多いかもしれないが(ちなみに、実際に見に行ってみると、チャットというにはかなり物語性の高い長文の応酬が行われており、むしろリレー小説に近い)、他にもブログを用いた「なりきりブログ」、メルマガスタンドを使った「なりきりメルマガ」、HPを用いた「なりきりサイト」、さらにはmixiをつかった「ナリミク」に、最近では(実はネタアカウントとしての流れもあるのでそことの切り分けが必要だが)Twitterをつかった「なりきりbot」、さらにはLINEをつかった「なりきりLINE」まで……もはや枚挙にいとまがないのでこれ以上はやめるが、つまりは一定規模のユーザーが使っているツールやプラットフォームには、必ず「なりきり」は存在していると断言してよいくらいだ。

こうしたユーザーの行動というのは、インターネットの大前提に根源的に逆らったものである。そもそもインターネットという場所は、その成り立ちからして人間がそこに「演技」や「フィクション」などの「嘘」の言葉を記すことを前提としていない(故に「虚構新聞」のような嘘サイトはその倫理を常にユーザーから問われるのだ)。ネットの検索流入の巨大な部分を占めるGoogleが自ら公開している検索評価のガイドラインでも、あたかもそんな表現活動はインターネット上に存在しないかのように記されている。
だが、それにも関わらず、この「なりきり」という行為を行うユーザーは、検索避けなどで周到に公の目から隠れながら、必ず登場してくる。おそらくは、どのような意図のもとに作られたプラットフォームであろうとも、それは逃れられない。たとえアカウントを用いない匿名のサービスであっても(※)、おそらくは人の手による「表現」を投稿する機能を搭載している限りにおいて、「なりきり」のユーザーは必ずぽこぽこと現れてくる。ネットサービスという場所を与えられたときに、ある種の人間たちが必ず始めてしまうのが、この「なりきり」という行為なのだと言ってよいだろう。

(※)2ちゃんねるにも「なりきりネタ」の板が存在する。
 
 
■ 設計・運営・文化という基本ユニット
 
いきなりマニアックな話から始めているが、別に筆者はここで「なりきり」の話をしたいわけではない。ただ、インターネットの文化を考えるときに、筆者はこのような場所から出発するしかないように感じているのだ。もちろん、別に人間の黒歴史的などろどろとした欲望を探求せよという話をしたいわけでもない。ただ、思考の立脚点として、言説の足場の問題として、こういう場所から始めるのが必要だと思うのだ。

例えば、現在このPLANETSメルマガでは、メディアアーティストの落合陽一さんと、楽天執行役員で『ITビジネスの原理』著者の尾原和啓さんの、ウェブを含む現代のITについて考える連載が始まっている。おそらくITに対するこの2つの連載とこの連載を比較するのが、(このお2人と自分を比較するのはあまりに僭越かもしれないが)筆者の立場が最もわかりやすいかもしれない。なぜなら3つの連載は互いに補完する関係でありながらも、大きく異なるものになっていくはずだからだ。
落合陽一さんの『魔法の世紀』の場合は、初回の連載でも記されているようにコンピュータの作動原理から、21世紀の文化を広く規定する「構造」を記述するものだ。それはビジネスにとどまらず、文化、ひいては人間の意識に至るまで規定するのだと彼は語る。この立場を、テクノロジーの設計の水準にまでさかのぼって原理的な記述を試みるという点で、仮に「設計主義」と呼ぶことにしよう。一方で尾原和啓さんの『プラットフォーム運営の思想』では、いかにして運営者がIT技術を駆使しながら、プラットフォームの運営を行っているのかがわかる内容を目指している。それは運営者目線でインターネットを見ていくということだから、これをまた仮に「運営主義」と呼んでみる。
では、筆者はこの「設計主義」と「運営主義」という極めて強い説得力をもつ立場である二つの連載に対して、どのような立場からインターネットについて記していくというのか。

それは、さしづめ「文化主義」とでも言うべき立場かもしれない――と思う。つまり、インターネットの設計思想を無視して、運営者の意図さえも食い破っていく、まさに冒頭の「なりきり」ユーザーのような人々が担ってきた文化のダイナミズムのような場所から、インターネットを見てみたいのである。