ディズニー、ピクサー、ジブリ…『アナ雪』
大ヒットから見えるヒロイン像の"後進性"
――石岡良治×宇野常寛が語る『アナと雪の女王』
大ヒットから見えるヒロイン像の"後進性"
――石岡良治×宇野常寛が語る『アナと雪の女王』
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.7.25 vol.121
本日のほぼ惑は、自宅警備塾でお馴染み批評家の石岡良治さんと宇野常寛の語る『アナと雪の女王』です。『アナ雪』の大ヒットから逆説的に見えてきたのは、ディズニーの遥か先を走っていたはずのピクサー、そしてジブリが直面する「テーマ的な行き詰まり」だった――?
◎構成:清田隆之
■ピクサー化するディズニー・アニメの象徴としての『アナ雪』
宇野 『アナと雪の女王』はまず、予告編で「Let It Go」のシーンを観たときに、「ディズニーは、この作品にものすごい自信があるんだな」と思ったんですよ。それで実際に観てみたら、まぁやりたかったことはわかるのだけど、作品としての出来がいいとまでは思えなくて、予告編の期待は超えなかったですね。
『アナ雪』の話をするにあたっては、前提として、ここ10年くらいのディズニー映画とピクサー映画の流れについて言及しておく必要があると思う。アニメファン的に見ると、ディズニーとピクサーって技術的にはそこまで差がないんだけど、ゼロ年代は特にシナリオは圧倒的にピクサーのほうが上だと言われていた。『モンスターズ・インク』(01年)、『ファインディング・ニモ』(03年)、『Mr.インクレディブル』(04年)など、圧倒的にシナリオワークの優れた作品を連発していたピクサーに対して、ディズニーはいまいちな作品ばかりだった。家族観・ジェンダー観にしても、旧来のディズニーは古典的なプリンセス・プリンスもの、ボーイ・ミーツ・ガールの話をベタに描いていたのに対し、ピクサー作品は、例えば『Mr.インクレディブル』だったら「古き良きアメリカの強い父」みたいなイメージがもう通用しないというところから出発していたように、時代の移り変わりや新しい家族観・ジェンダー観を取り込むことによって重層的な脚本を実現してきた。言い換えるとそれは親世代、つまり団塊ジュニア世代の記憶資源に訴えかけながら、子どもも楽しめる物語をどう作るか、ということ。一つのストーリーで大人にはイノセントなものの喪失の持つ悲しみを、子どもには古き良きアメリカのイメージを、その記憶を持たないことを利用して輝かしいものとして提示する、というのがピクサー的、ジョン・ラセター(※1)的なものの本質だと思うわけ。これは『トイ・ストーリー』から、最近のピクサー化しつつあるディズニーの『シュガー・ラッシュ』(※2)まで通底している。要するに、この流れはさまよえる現在の男性性をテーマにしてきた流れだとも言える。
(※1)ジョン・ラセター…ピクサー設立当初からのアニメーターであり社内のカリスマ。06年にディズニーがピクサーを買収し、完全子会社化したことでディズニーのCCO(チーフ・クリエイティブ・オフィサー)に就任。ディズニー映画にも多大な影響を及ぼしているという見方がなされている。
(※2)『シュガー・ラッシュ』…公開/ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ(13年/日本)。アクションゲームで何十年も敵キャラを演じることにうんざりしたラルフが、別のゲームの中でヒーローになろうとしたことから、複数のゲームの世界を舞台にした騒動が巻き起こる。
じゃあ、『アナ雪』は何か、というと、ここでもう自信喪失したおじさんたちの話はやめよう、ってことなんだと思う。自信喪失したおじさんたちの回復物語はもうやりつくしたので、自分探し女子の物語に切り替えて新しいことをやろう、ってことなんでしょうね。この決断は良かったんじゃないかと思う。その結果、出てきたのが最終的に王子様のキスではなく、姉妹愛というか同性間の関係性で救済される新しいプリンセス・ストーリーだった、ってこと。ディズニーといえばおとぎ話的な「いつか白馬の王子様が……」的な世界観でやってきていて、まあ、現代的なそれとは到底相容れないアナクロな世界観が維持されている文化空間なわけで、そこからこの作品が出てきたので、みんなこれは新しい、感動した、って言っているわけだけど……。うーん、それって、あくまでディズニーの過去作と比べたら今時のジェンダー観に追いついているってことに過ぎないんじゃないかって思うんですよね。この作品に何か特別なものがあるとは思えない。
石岡 僕はまず、歌のバズり方自体に興味を持ったんですよ。これは日本特有だと思うけど、「Let It Go」が「ありのままで」と訳されて、「意識高い」女性に大受けしてますよね。あの歌って、いろんなところで指摘されているように、いわば邪気眼というか厨二病の能力解放の歌だと思うんだけど、それを”自己啓発系”の歌として読んじゃうっていうのは、ある意味で痛快ですよね。つまり、普段は邪気眼的なものに共感を示さないような女性に、「これは私のことだ!」と感じさせているわけで、うまいといえばうまい(笑)。
歌に関してはもう一つあって、これもいろんな人が指摘していることだけど、歌とストーリーの意味がズレまくっているというのが『アナ雪』の特徴ですよね。クライマックスでアナが凍る場面なんか、本来ならミュージカルナンバーを入れたら盛り上がるシーンなのに、すごく静かで引きの画になっている。そういうふうに、感情移入の操作をズラしている感じがした。ある意味では「Let It Go」が物語全体を食い破っているんだと思う。もともとはエルサがもっと悪役になる予定だったのが、歌があまりにもいいからナシにしたという説もあるくらいで、シナリオ全体にいびつなところが多い。ハンスやクリストフの背景の描き方も不十分だし、アナたちの両親である王と王妃も、あまりにあっさり亡くなってしまう。これは僕の推察だけど、おそらく一度シナリオが出来上がってから間引いてカットしていったんじゃないか。だけど省いた後の隙間を埋めきってなくて、ちょっとデコボコしたままで放り出しているところがあって。僕はこの作品を2回観たんですが、1回目に観たときにシナリオに完成度を感じなかった理由はそこかな、と。
宇野 単純に考えれば、『アナ雪』って描写不足の作品だと思うんですよ。なんで姉が妹をうらやみ、妹が姉に憧れているのかも、あの描写からは好意的に想像を膨らませないと補完できない。はっきり言ってしまうと、後半のあの展開にもっていくためには前半のプロローグ部分の処理はすごく甘くて、細かい描写や芝居でキャラクターを立たせることに失敗している。それがこの作品の弱点なんだけど、むしろ興行的にはプラスになった側面もあると思う。描写不足によって歌のシーンが半分作品から遊離することで、観る人が逆に「これは私だ!」と自分の物語に没入させやすくなっていて、それが泣く女子を大量発生させた一因になっている。歌パートの出来の良さとドラマパートの描写不足が、結果的に功を奏してしまっているのも『アナ雪』の特徴だと思う。
石岡 それとは別次元で、単純に映像が素晴らしかったというのもあると思う。雪や氷の表現を観ているだけで、わくわくする部分があった。「Let It Go」のシーンでの、雪を踏んだら氷が結晶の形にバーン!と広がるところとかね。ディズニーはこれまで技術的達成を見せつけるようなことをやってこなかったから、『アナ雪』の映像表現には意外性を感じた。「Let It Go」にはそれらが全部集まっているわけで、あの歌が圧勝するのは当然といえば当然なんですよ。
■ディズニーの無限更新とジブリが感じるべき脅威
宇野 しかしこの映画で描かれている女性性って、現代の先進国のジェンダー観からすれば当たり前のものだし、確かにディズニー映画のような大作では初めてかもしれないけど、女の子の自分探しみたいな話は、日本のマンガやテレビドラマではずっと以前からやってきたわけで。そこを今さら「革命的だ!」とか言われても、「この人たちは国内のコンテンツをちゃんと見てこなかったんだな」って気分になってしまう。国内の少女マンガでもテレビドラマでも、この程度の「王子様幻想の相対化」って大前提でしょう? じゃあ、姉妹ものとして優れているかって言うと、むしろそこは粗い作りでスカスカに見えるんですよ。
石岡 ディズニーにはウォルト(※3)の”超・家父長制”というか、保守オヤジみたいなイメージがあって、いまだにその観点から批判を受けているわけです。
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