■多世代対応産業としての「ガンダム」
宇野 なぜ今「ガンダム」なのかという話からしたほうがいいと思うんですね。『00』の映画や『UC』のDVDなど、ファンは「ガンダム」の近況を知っていますが、一般的には『ガンダム』(1st)は懐かしアニメの部類。なのに、なぜ30年以上経っても語らなければいけないのかと。僕は31歳ですが、中高生時代、「ガンダム」は”終わったコンテンツ”と言われていました。あれは80年代のアニメブーム時代のコンテンツで、1st~『Z』で基本的には終わっている。その後、「SDガンダム」シリーズで玩具としては生き残っていたけれど、新作アニメはヒットせず、アニメブームの中核でもなく、富野監督の存在すら忘れ去られていく。それが、『新世紀エヴァンゲリオン』がブームになった頃、庵野秀明によって富野ガンダムが注目されるようになり、関係書籍も増えてきた。そして99年に『∀』が放映され、ゼロ年代になってからは『SEED』が放映、「マスターグレード(MG)」シリーズを中心にガンプラも増えて、再び盛り上がってきた。そんな印象があります。
堀田 よく言われることですが、1979年当時、思春期に1stを見ていた人が30歳をこえて自分で企画を動かすようになった。それがゼロ年代初頭ということも一つにはありますね。それと、『エヴァ』で書き換えられたものは多いと思いますが、アニメについて公に語ることのハードルも下がっていたという事情もあったと思います。「日経ビジネス」誌が”キャラクターによるブランディング効果”を特集したのが97年。日本社会全体がキャラクタービジネスの大きさや深さに、目を向け始めていました。ちなみに、現在、1年間に発売される「ガンダム」関係のものを全て買うと250万~300万円かかるというデータがあるそうです(笑)。
宇野 ちょうど2000年に「ガンダムビックバンプロジェクト」がありましたよね。その中核の一つが『∀』。商業的にはあまり成功しなかったけれど、それからMGや団塊ジュニア向けのコンテンツが充実してきて、その一方で『SEED』を中心とした十代、二十代、しかも男女双方に向けたコンテンツが出てきた。
堀田 ガンプラは『SEED』シリーズが一番売れているそうです。1stシリーズより売れていると。
宇野 「ガンダム」は一見、80年代の懐かしアニメと思われていながら、実は商業作品としてブレイクしたのはゼロ年代前半で『SEED』がその中核であることを、団塊ジュニアの一人として、石岡さんはどう思われますか?
石岡 僕や堀田さんは『W』の放映時は腐女子需要を取り込むことに対してちょっと引き気味だったんですが、『SEED』の頃になると、それは、原点の1stにもあったんだなと思うようになってきました。1stが元々女性人気から火が点いたことを考えると、意外と『SEED』は1stのコンセプトの一部を普通に継承したんじゃないかと。
堀田 石岡さんの意見に大賛成。1stでガルマがシャアに言った「フフ……よせよ、シャア。兵が見ている…」、あのセリフを入れた富野さんの天才性は凄い。あれがなかったら、「ガンダム」はこんなにブレイクしていなかったと思います。
宇野 その血を、『00』や「SEED」シリーズ、特に初代の『SEED』が受け継いでいるわけですね。
石岡・堀田 そうそう。
宇野 そして、2004年の『ガンダム』25周年時には講談社で分冊百科『ガンダムヒストリカ』に、翌05年からは劇場版『Z』三部作の公開に合わせて『Zガンダムヒストリカ』の制作に携わっていたのが中川さんだったんですが、やはり主要購買層は団塊ジュニアでしたか?
中川 二つピークがありました。一つは確かに70年代前後生まれの団塊ジュニア世代なんですが、もう一つは当時の十代後半から二十代前半。明らかに『SEED』から入った世代が過去作を遡っている現象が起きていましたね。で、『SEED』以降の世代まで旧作の伝承効果を担っていたのは、やはりゲームでしょう。産業的な意味での1stの最大の画期性は、端的に言ってアニメの関連商品の基盤を超合金の玩具からプラモデルに変えたことでした。しかし90年代以降は、ドット絵の時代には「SD」系、ポリゴン以降はリアル系の格闘アクションを通じて、「ガンダム」ブランドは延命してきたわけです。
宇野 「ガンダム」は30年間で、様々な層に支持される化け物コンテンツとして日本社会に定着したと考えていいわけですよね?
堀田 ええ。「ガンダム」は中年男性がコアファン層というイメージが持たれがちですけど、そうとはいえない。多世代キャラとして展開されていますね。
宇野 「日本にはアニメ・特撮・ガンダムというジャンルがある」というジョークがありますが、あながち冗談ではないと思うんです。『ガンダムA』という雑誌は、現在も30万部近く出ているんですが、これは凄い数字ですよ。『週刊少年サンデー』が80万部くらいですが、「ガンダム」1コンテンツで、かつ月刊誌なのに。実際、雑誌の中身を見れば、「ガンダム」というものが、世間一般で思われているガンダム像とはかけ離れていることがよくわかると思うんです。安彦良和さんの『ORIGIN』福井晴敏さんの『UC』という二大看板があり、アニメディアにあるような「お父さんにしたいキャラは?」的な人気投票企画もあり、当然『SEED』や『00』作品もあり。「ガンダム」が世代や性別を貫く一大産業であることが、『ガンダムA』に表れていると思うんです。
堀田 「少年誌は“少年”と冠していても中心読者とともに年齢層があがる」ということがあったりする。どこかで年齢層を思い切って下げるべきなんでしょうけど、それが難しい。けれど、サンライズ作品は年齢層を維持することを重視しますね。サンライズがプロデュース集団であることが、その理由かもしれません。サンライズのメインはプロデューサー的なスタッフ。その点で、クリエイティブな意識とプロデューサー的なコンテンツ開発の意識とがうまくマッチして回っているのかもしれませんね。
宇野 一口に「ガンダム」と言っても、誰も全体像を把握できないくらいに肥大化しているコンテンツなわけですが、テレビ放映の最新アニメは『三国伝』、『UC』はOVAで『ORIGIN』は漫画。この幅の広さも凄いですよね。
堀田 『サザエさん』や『ドラえもん』ですらこうはなっていませんからね。
■『00』の挑戦をどう評価するか
宇野 今回は『00』『UC』『ORIGIN』『三国伝』この4本を中心に話を進めますが、まず『00』から。『SEED』は「ガンダム」中興の祖であるという話が出たわけですが、『00』はどう位置づけますか?
中川 『SEED』は「21世紀のファーストガンダム」を掲げた原点回帰だったから、対立の背景を宇宙開発からバイオテクノロジーに変えて現代めかしてはいても、作劇のレベルで二大陣営の総力戦という20世紀的な図式は変わらなかった。対して『00』は明らかに9.11以降のテロ戦争の世界を描こうというコンセプトで作られた初めての「ガンダム」ではありましたね。
石岡 僕は『00』には期待していたんですが…。モビルスーツのフォルムは野心的でしたよね、「ガンダム」各作品のフォルムを取り入れようとしていたと思う。特にテレビ版第1期は『∀』のフォルムすら取り入れようとしていた。ディテールを複雑にするのではなく、シルエットでシンプルに形を見せようとして、陣営ごとにメカデザイナーを変えるなど細かい工夫もありました。最初のやる気は素晴らしいと感じました。
宇野 水島監督ですしね。それと、70年代に戦記物をやるなら世界大戦物で1stになったように、『00』は、今、戦記物をやるならテロと極めて自然にやっています。『Z』は早すぎたテロ・内戦物という気がしますが。
石岡 西暦で設定していることも含めて、今世紀の問題に応じようとしていた意欲は高かったですよね。
宇野 『SEED』が1stのリメイク色が強かったことに対して、『00』は新しいスタンダードを出そうとする意欲はあった、しかし!そうはならなかった、というコンセンサスが取れたようです(笑)。水島監督にインタビューをしたとき、現代性の高い直球社会派アニメを「ガンダム」でやっていく、という所が 『00』の基本だと感じたんですよ。かつ、『SEED』の長所も取り入れ、男性向けのメカと戦記物+女性向けのキャラ萌えという二重戦略で行くんだなと。「これはゼロ年代アニメの当たるパターンだ」と思って、そのまま行くのかと思いきや……。1期はあまりテンションが上がらないなという感じでしたね。
石岡 ”武力介入”という言葉は面白かったんだけど、介入行動自体は意外にショボかったり。
宇野 1期の終盤、ロックオンの死ぬあたりが盛り上がったくらい。けれど、2期があるからと、流していたわけですよね。で、2期になって「さて、どう落とし前をつけるんだろう」と思ったら、伏線は全然回収されないわ、Mr.ブシドーが出てくるわ、中途半端に『コードギアス』化するわ……。僕は、2期で崩れたという印象が強い。
石岡 『00』は俯瞰すると『X』並に地味な印象なのですが、細部をみると『SEED DESTENY』よりも派手なギミックをいっぱい使ってしまっている。で、劇場版で宇宙人を出さざるを得なくなってしまった理由は、『00』には『∀』の月光蝶システムのような要素があるわけですが、2期終盤で色々やり過ぎたからですね。刹那の乗るダブルオーライザーの放つGN粒子で怪我が治ったり、それどころか、人々の間にある、あらゆるわだかまりがどんどん解消していくんです。劇場版では、金属製のELSの攻撃よりもその粒子を使ったクアンタムバーストのほうが凄かった。
宇野 劇場版については、「マクロス化問題」がありますね。確かに、劇場版は意欲作だけど『00』の企画の発端を考えると、当初の志は完全に捨てていた。ストーリーを「マクロス」化して、後は、キャラがいかに格好よく戦うかという方向に舵を切ってしまったと思うんです。これはゼロ年代のMBSアニメが取っていた男女二重戦略の崩壊を表しているんだけれど、それが当たっているから結果オーライ。
中川 結局90年代以降の「ガンダム」って、SFやミリタリー系の男性カルチャーをどれだけ希薄化していったかが成功の関数になっていますよね。『00』は当初、男性的なミリタリズム要素をかなり残していたものの、最終的には『W』的なイケメンチームバトル性だけに収斂されていった。
石岡 僕は、キャラデザ原案の高河ゆんの漫画が好きなんですが、彼女の作ったキャラクターで、キャラクター性とテーマ性とのマッチングがうまくいったのは、ティエリアだけだと思います。リボンズはパっとしなかった。テレビ版も劇場版も、美味しい所はだいたいティエリアが持っていっていますしね。特にテレビ版の第2期は、ティエリアのお陰でなんとか見続けられたと思っていますよ。
宇野 元々「ガンダム」というものは、世の中にフロンティアというものがなくなった完結した世界の中で、いかに人は生きるのか、といったことをやっている作品。そこで劇場版『00』は「マクロス」化することで、他者=外側からやってくる者に対してどう接するのかという新しい面を描いたけれど、他者の象徴として、あの金属生命体はどうでしょう? 石岡さんは、あの世界で一番他者性のあるのは、ティエリアだと思うんですよね?
石岡 はい。僕は“木星”というキーワードが重要だと思うんです。これはガンダム世界では外宇宙の要素ですよね。けれど、『00』では外宇宙よりも、内宇宙=ヴェーダつまりコンピュータシステムから出てきたティエリアという存在が、結果的には一番他者性がありリアリティを掴めていた。それと、ソレスタルビーイングのメンバーが喪男と喪女ばかりの集団ということも併せて考えると、内宇宙的なテーマが合っていたと思うんです。そうならなかったのは、スタッフの問題かもしれないですが。
宇野 外宇宙からやってきた金属生命体で他者性を出すよりも、テクノロジーの発達により生まれたティエリアのような存在、つまり我々の内側に他者が生まれることのほうが、リアリティがあるのではないかと。
石岡 そういうことですね。
中川 ただ、イオリア・シュヘンベルグの計画の中に異星体との「対話」が入っていたという設定は、むしろ木星を外部性というよりは人類のインナーな普遍的古層の隠喩として捉え返している気がする。2期では、当初は人類を国家や民族によらず裁定する超越的な存在として設定されていたソレスタルビーイングが、エゥーゴ的なショボいレジスタンスになってグダグダになってしまいましたが、劇場版のあの設定は当初のコンセプト性への強引な回帰だった気もしていて、その力業はちょっとだけ評価してます(笑)。
■時代を映す「モビルスーツ」観の変容
宇野 ロボットアニメには、子供の成長願望を満たす使命もあるから、博士や軍事技術者の父や祖父が子供にロボットという大きな身体を与え、子供はそれに乗り社会的自己実現を果たすのが王道でした。『マジンガーZ』から『エヴァ』まではその流れがあったけれど、『00』はそういう比喩関係を自覚的に、いや、恐らく自覚していないんだろうけど、壊してしまっているんですよね。エクシアや00やクアンタは刹那のアクセサリー的なもの。モビルスーツは完全に美少年たちのアクセサリーになっていて、アバ ターやツイッターのアイコンのようなキャラクターのアイデンティティを強化するためのアイテムに、良くも悪くも成り下がっている。
石岡 それは、可能性でもありますよね。
宇野 ええ、『SEED』や『00』の得た可能性は、それじゃないかと。だからこそ、ガンダムというものは唯一無二の存在ではなくて良くて、ガンダム同士のバトルも『G』から始まって常態化しているわけです。80~90年代に、
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