【現代ゲーム全史】
新城カズマ、野尻抱介、築地俊彦……
数々の才能を輩出したプレイバイメール
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.4.23 vol.058
http://wakusei2nd.com

今朝の「ほぼ惑」は、PLANETS副編集長の中川大地氏による月イチ連載「現代ゲーム全史」。前回にひき続いて、90年代前半のゲームの状況を論じていきます。従来のデジタルゲーム中心のゲーム史では語られてこなかったPBM(プレイバイメール)を取り上げた文章に注目です。

パソコン通信の普及とネットワークゲームの夢
 
 この時期に特徴的な民生の情報技術環境として、とりわけ〈仮想現実の時代〉の指標に相応しいのが、電話回線とモデムを用いたパソコン通信サービスであろう。マイコンブームが一段落した1980年代後半あたりから、アスキーネットやPC−VAN、ニフティサーブといった会員制の商用サービスやアマチュアの草の根BBSが急速に普及。ほとんどCUIによるテキスト上のやりとりのみに限定されていたが、電子メールや掲示板、チャットといった現在当たり前となっている基本的なネットコミュニケーションのツールが、この時期に一般化していったのである。
 そうしてコアなパソコンユーザーたちの間に、現実の人間関係とは別の「バーチャルコミュニティ」らしきものの手触りが普及していくようになると、今度はそのコミュニティをモニタ上のグラフィカルな仮想空間として表象しようという欲望が、必然的に立ち現れてくる。その欲望をいち早く具現化したのが、ニフティサーブと連動して90年に始動した『富士通Habitat』だった。これは米ルーカスフィルム社が1987年からコモドール64向けに提供していた『Habitat』のライセンスを富士通が取得し、CD−ROMを標準搭載した初の国産パソコンであるFM-TOWNSシリーズ専用のクライアントソフトとして供給を開始した、ビジュアルチャットサービスである。まるでコンピューターRPGでキャラクターメイキングをするような感覚で、300種類ほどの選択肢からユーザーは好きな顔を選びつつボディとともにカラーリング等を行い、自分の身代わりの図像をカスタマイズして他人の作成した同様の図像とともに同じ空間を共有するという仕様は、各種フィクションで描かれてきたサイバースペースの概念を、可能なかぎりの技術で具現化しようという発想に他ならなかった。
 このユーザーの仮想空間における代理表象は「アバター」と呼ばれ、以後の同様のネットサービスでの一般名称として定着していくことになる。

 それぞれのアバターは、自分の家を持つことができ、他人のアバターと同じ町でチャット会話やアイテム交換、あるいはボールを取り合うなどのミニゲームを行うことができた。プレイヤー層はまだごく少数のパソ通ユーザーに限られていたが、オラクルと呼ばれる「神」に見立てられた管理者や選挙で選ばれた町長などの自治的な管理の下、アバター同士の「結婚」や人間関係のトラブルも含め、コミュニケーションそのものを目的とした仮想社会での暮らしを、日本人が初めて大規模に味わった例だった。
 回線速度も遅く、コミュニケーション以外のゲームとして遊べる要素も限られていたため、本格的なオンラインゲームと呼ぶには萌芽的ながら、のちに様々ゲームタイトルやサービスで一般化する『Second Life』や『どうぶつの森』、『アメーバピグ』など、アバターコミュニケーション型のサービスの原型を形成していたと言えるだろう。

 『富士通Habitat』はNECのPC-9800シリーズやアップルのMacintoshなどにもプラットフォームの幅を広げながら、リニューアルを重ねて息の長いサービスになってゆくが、従量制ですぐに高額になる電話回線環境の未整備などが災いし、さほど一般的な認知度を得る存在にはなりえなかった。この時点では他社に同種のサービスの流行を招くようなこともなく、デジタルテクノロジーに依存したゲームのネットワーク化には、まだ時期尚早であった。同時期には任天堂がファミコンについても通信アダプタを発売し、野村證券などが株式情報の提供や売買を行えるシステムを試験的に導入していたが、こうした実用と娯楽の垣根を越えたシステムが定着することはなく、バブルの徒花として消えてもいた。しかしこれらの先駆的な事例が、ゲームやデジタル技術が目指すべき「夢」の像を提供し、「今はできないがいずれはそうなるべき未来」として、ネットワーク化の潮流が1990年代を通じて準備されていくことになるのである。
 
 
商業PBMという文芸ムーブメント
 
 だが、〈仮想現実〉を志向するゲームの同時期のネットワーク化へのうねりとしては、そうしたハードウェア依存のテクノロジー側のアプローチと並行して、むしろ文化やソフトウェアの側で空前絶後の試みがあった。商業プレイ・バイ・メール(PBM)ないしメイルゲームと呼ばれる、郵便を使って参加する大規模RPGジャンルの勃興である。遠隔地に住むプレイヤー同士が、郵便を使ってチェスやボードSLGを遊ぶ小規模なPBMの文化はアメリカなどで先行して存在していたが、日本で起こった商業PBMの特徴は、数百人から数千人規模のプレイヤーが同時参加するストーリー志向のライブゲームだった点である。
 この背景には、コンピューターRPGの普及にともない、1980年代後半からパソコンゲーム雑誌にグループSNEによる『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のリプレイ企画『ロードス島戦記』(1986〜87年)が掲載されるなど、テーブルトークRPGのプレイ人口の裾野が広がっていたことがある。このブームに乗じて、RPGのみならずSLG、さらにはゲームブックや各種のカードゲーム、ボードゲーム等、国内外の新作ゲームが専門誌での紹介などを通じて継続的に紹介され、のちに「非電源系」と総称されることになるマニアックなシーンが形成されつつあった。加えて雑誌メディアでは、いわゆる読者投稿コーナーの延長線上に、「Beep」誌の『ヤタタウォーズ』(1985〜86年)や「ゲームグラフィックス」誌の『フィクショナル・トルーパーズ』(1987〜88年)など、簡単な読者参加型ゲームの誌面企画が行われるケースも増えていた。つまりは日本の雑誌文化に根強かった読者投稿によるファンダムの形成力が、パソコン通信の発達と並行して、大規模参加型ゲームの実施基盤を整えていたのである。

 こうした土壌から派生するかたちで、遊演体が1988年に運営を開始した初のメイルゲームが、『ネットゲーム'88』であった。同社はもともと、テーブルトークRPG『ビヨンド・ローズ・トゥ・ロード』(1989年)発売のために設立されたゲーム制作会社だったが、『88』はそのプロモーションを兼ねて実施された試験的な事業だった。プレイヤーはまず、最初に与えられる日本神話やクトゥルフ神話に材を取った伝奇ホラー的な世界観説明に沿って、現代日本に紛れ込んだ怪物側の勢力とそれを迎え討つ人間側の2サイドに分かれ、規定の職業などから、物語の登場人物となる自らのキャラクターを作成する。そして月に一度送付されてくる「朝々ジャーナル」なる、新聞社のグラフ誌を模した架空の報道誌に記されているニュースの裏に隠された怪異の真相に迫るべく、選択式の定番行動か、任意の文章によるフリーアクションをハガキに記載してホスト会社に送付。遊演体のゲームマスター陣は、その行動を機械的に、あるいは人力で判定処理し、各プレイヤーに次号のジャーナルとともに定型または個別の小説形式のアウトプットを返送するという月間ターンの繰り返しで、1年間のシナリオが展開されていった。
 もっともらしい写真を表紙に使った「朝々ジャーナル」の体裁や、謎解きのためには日本神話や考古学、民俗学などゲーム外のマニアックな知識の学習までもが要求されるなど、現実とゲームの境界を意図的に曖昧にした『88』の手法は、2000年代のインターネット時代になってアメリカで登場するARG(Alternative Reality Game:代替現実ゲーム)のスタイルをも大きく先取りするものだった。

 このライブゲームの「ネットゲーム」たるゆえんは、一人一人のプレイヤーに与えられる情報が限定されているため、ジャーナルの交流欄などに掲載される投稿などを通じて他のプレイヤーと手紙で連絡を取り、それぞれが得た情報を総合して事件の背景を読み解かなければ、効果的なアクションが取れない点にある。この必要性から、同じ事件を追うプレイヤー間の個人的な交流が生まれ、さらに能動的な者は同人ベースで情報誌を制作したり、プライベートイベントを開催したりして、情報交換や交流のハブになるというプレイスタイルが発生する。人間側と怪物側が富士の樹海で対決する会戦など、ハイライト時には大勢のプレイヤーが自律的に役割分担する共同作戦行動なども行われた。
 このようにして、多くの人々が1年間にわたる架空の出来事を「もうひとつの現実」として共有する擬似社会を形成し、同期しながら一つの巨大な物語を築き上げていくという希有なムーブメント型のRPGのスタイルが、ほとんどデジタルネットワーク技術の支援なしに出現していたのである。否、デジタルネットワークの機能と普及度が貧弱で、誰もが容易に繋がれる環境ではなかったからこそ、手間暇を惜しまない同人創作的な参加意識と高いリテラシーを持ったタイプのプレイヤーグループが、ホビー雑誌メディアのフィルタリングを通じて集まってきたとも言える。他方、それを捌いていくゲームマスターの側には、SF・ミステリー畑や戦史・ミリタリー畑など、アニメやコンピューターゲームの浸透で衰退しつつあった当代最高レベルのハードコアなエリートおたく層が結集。不特定多数向けの一般エンターテインメント作品ではまず展開不可能な、衒学的な知識やマニアックな趣味を惜しみなく投入した世界観やシナリオを展開するという構図があった。

 こうした特異なゲーム形態が、さらに間口を広げて展開されたのが、『88』終了後1年を経て遊演体が実施した次作『ネットゲーム'90 蓬萊学園の冒険!』であった。プレイヤーは、日本列島の南海に浮かぶ宇津帆島に築かれた生徒数10万人を超える巨大学園・蓬萊学園高校の新入生となり、「地球最後の秘宝」をめぐる動乱に参加する。学園冒険ものという取っつきやすい枠組みの中で、メインストーリーを追う以外にも部活動や学校行事といった多様な交流機会ができた点が、前作に比しての特徴だ。そのぶん、公式ジャーナルである「蓬萊タイムズ」などの表紙も写真ではなく中村博文によるアニメ的なイラストになるなど、世界観の虚構性が高まり、現実との地続き感のあるARG的な趣向はいささか希薄になったと言える。
 それでも現代日本が舞台であり、学園の歴史が幕末・明治期からプレイ当時までに至る近代史と詳細に呼応した設定がなされていたり、『南総里見八犬伝』や『封神演義』といった古典からの引用、宇津帆島の先住民族に沖縄やアイヌに連なる架空の言語や民俗の設定があるなど、プレイヤーの教養を試す現実世界の知識や現象との照応性は依然として高かった。そしてそのシナリオは、連続猟奇殺人事件や秘境調査、小国家レベルの生徒会選挙やそれに端を発するクーデターや内戦といった展開、さらには地球内部の空洞世界だったという「秘宝」の正体とそれをめぐる選択など、およそ他メディアにおける「学園もの」のイメージを大きく逸脱するスケール感で展開。『88』のようにプレイヤー陣営全体が二つに分かれて互いに出し抜き合いながら勝敗を争うシビアさこそはなかったものの、適確に事件を読み解いて物語の中で活躍するためには、現実の人生で問題解決するのと同様、それなりの努力やセンスが必要だった。

 とはいえ『蓬萊』の真の醍醐味は、そうした物語の本筋では活躍できずとも、プレイヤーの側から学園内のサークルや施設、ムーブメント等の設定をゲーム内のアクションや同人誌での活動を通じて提案し、ゲームマスターや他のプレイヤーの承認を受けることで自らの居場所を自由に築いていけた点にあった。この性格により、蓬萊学園は空前の人数規模で集団創作するシェアード・ワールドとなり、1年間のゲーム終了後も小説シリーズやテーブルトークRPG、スーファミ版のコンシューマーゲームなどのメディアミックス展開も開かれている。
 こうして他のプレイヤーとの競争や協力を通じてメインストーリーでの活躍を目指す「目的型」の〈闘争(アゴン)〉的なゲーム性と、デジタルでの『Habitat』などと同じように仮想社会内での交流やロールプレイ生活それ自体を楽しむ「環境型」の〈模擬(ミミクリ)〉的なそれとが様々な塩梅で複合した集団文芸の営みとして、日本独自の商業PBMの基本スタイルが確立されたのである。

 以後、翌92年からは『88』『蓬萊』のスタープレイヤーたちをゲームマスターに起用するかたちで、遊演体に続いて参入したホビーデータ社がスペースオペラSFジャンルの『クレギオン』シリーズを開始。一人のゲームマスターが担当するシナリオを小さなブランチ制に分け、ロストテクノロジーの探索や星間戦争、政治劇やラブコメ等、それぞれのブランチごとのテーマを多彩にするなど、先行ゲームよりも大勢の参加キャラクターがストーリー上で自らの望む活躍ができるような工夫が加えられていった。この両社が競い合うかたちで、あまり一般的には知られない規模ながらも商業PBMのシーンが立ち上がり、以後さらなる参入企業を迎えつつ、インターネット普及以前の90年代を通じて、根強いホビージャンルとして隆盛していくことになる。

 加えて、プレイヤー集団ごとに膨大なストーリーテキストを量産する環境と、高度なSFやミリタリー知識をアニメ的なキャラクター文化に結びつける手法は、のちにライトノベルと呼ばれるようになるゲームの影響が強いキャラクター小説群の中でも、ハードなジャンル小説寄りの作風の書き手を輩出する母体ともなった。例えば遊演体のゲームマスターからは新城カズマや賀東招二、同社のプレイヤーからホビーデータのマスターになった野尻抱介や築地俊彦といった作家陣がデビューを飾ったほか、編集サイドやデジタルゲームなどのコンテンツ業界にも少なからぬ人材が輩出されている。いわば、多士済々のマニアが競い合ったフィクショナルな「もうひとつの現実」での成功体験やトラウマが、それぞれに新たなフィクションコンテンツを増殖させていく強烈な動機と能力を、参加者たちの現実の人生に刻みつけたのである。
 
 
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