楽器と武器だけが人を殺すことができる――井上敏樹が『海の底のピアノ』で描いた救済 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.049 ☆
今回の「ほぼ惑」は宇野常寛による、8000字にわたる井上敏樹論です。彼が『仮面ライダーアギト』『仮面ライダー555』から、新作小説『海の底のピアノ』へ引き継いだ問題意識とは? そして、『衝撃!ゴウライガン』で示された、世界を変えるための想像力とは――?
初出:ダ・ヴィンチ2014年4月号 KADOKAWA
もし21世紀の日本でもっとも重要な作家は誰かと尋ねられたら、僕は間違いなく井上敏樹の名前を挙げるだろう。
井上敏樹は1959年、脚本家・伊上勝の長男として埼玉県に生まれた。伊上勝は『隠密剣士』『仮面の忍者 赤影』など日本のテレビ草創期から児童向けの時代劇や冒険活劇などを手掛けるヒットメーカーとして知られた存在だった。(ライターの岩佐陽一は「主人公の必殺技にリスクがあり、敵がそこを攻めてくる」「敵が裏切りを偽装して主人公に接近するが、それをきっかけに改心し任務と心情の狭間で苦悩する」「リタイアした歴戦の勇士が悪の組織に人質を取られ、心ならずも主人公に戦いを挑む」といったヒーロー番組に頻出するプロットを伊上の「発明」だと指摘している。)そんな伊上の最大の代表作は1971年に放映開始された『仮面ライダー』シリーズだった。仮面ライダーは社会現象と言えるブーム(第二次怪獣ブーム/変身ブーム)を起こし、70年代を通して国民的ヒーロー番組に成長していったが、作家としての伊上は70年代の末には壊死しつつあったという。
晩年の伊上は酒に溺れるようになり、そして、当時大学生だった井上敏樹は「借金しか残さなかった」父親を傍らに家計を助けるという目的もあってアニメの脚本を手掛け始めた。やがて井上敏樹の名前は『鳥人戦隊ジェットマン』(1991~1992年)、『超光戦士シャンゼリオン』(1996年)など、東映特撮ヒーロー番組を通してファンの間に知られるようになる。その作風は1話完結パターンの発明と再利用に長けた父親のそれとは真逆のものだった。井上敏樹が得意とするのは特撮ヒーロー番組の長い放映期間を活用した複雑な群像劇の展開と、パターン破りによる問題提起的なストーリーだった。
そして2001年、井上敏樹は父・伊上勝の手がけた仮面ライダーについにメインライターとして関わることになる。井上は『仮面ライダーアギト』(2001~2002年)にて全51話中50話を手掛けた。僕の知る限り、「アギト」は90年代を席巻したアメリカのサイコサスペンスドラマ(『ツイン・ピークス』がその代表例だろう)のノウハウの輸入とローカライズにもっとも成功した作品である。三人の仮面ライダー(主人公)を軸に膨大な登場人物が絡み合いながら、ある客船の遭難事件に端を発する巨大な謎を解き明かしていく。しかも、三人の主人公の三つの物語は互いに絡み合いながらも、物語の後半まで決して合流しない。そしてクライマックスでの合流の後、エピローグでは再び三つに分かれていく。僕の知る限り、こんなアクロバティックなドラマを一年間(全50話)展開し、破綻なく描ききった作家はいない。
しかし、それ以上に僕が衝撃を受けたのは、井上が本作で示した人間観と世界観だ。同作には複数の仮面ライダー(劇中では「アギト」と呼ばれる)が登場するが、この「アギト」とはいわゆる超能力者のことだ。そしてこの超能力者(アギト)たちが、自分の居場所を発見していく過程が物語の軸になる。
ここで僕たちは初代「仮面ライダー」が(特に石森章太郎の原作版で)「異形」のヒーローとして描かれていたことを思い出すべきだろう。原作漫画において仮面ライダー1号=本郷猛は感情が高ぶるとその顔面に改造手術で受けた傷跡が浮かび上がる。その醜い傷を隠すために本郷は仮面を被り、自らを拉致しサイボーグにしたショッカーと戦うのだ。
そして同作に登場する超能力者たちもまた、ことごとくその過去の体験から精神的外傷(トラウマ)をもつ。この世界ではトラウマと超能力が、比喩的に深く結びついているのだ。その結果彼らはその傷を埋め合わせるために力(超能力)を行使し、そしてその結果ことごとく命を落としていく。そしてその一方で、この物語には「いま、ここ」にある快楽に全力でぶつかっていく人々が登場する。彼らは生活自体を楽しみ、ことごとくよく食べ、よく楽しみ、そしてよく恋をする。そして彼らは劇中においてまったく命を落とすことなく、ほぼ全員が最後まで生き残っていく。そして彼らは全員アギト「ではない」普通の、超能力を「もたない」人間として設定されているのだ。これはなかなか悪意のある設定だと言えるだろう。
特に「食べる」というモチーフに井上の意図は明確に表れている。『仮面ライダーアギト』はヒーロー番組とは思えないくらい、食事のシーンが多い。登場人物たちは、何かにつけて家庭の食卓を囲み、外出先でサンドウィッチをむさぼり、屋台のラーメンを啜り、そしてストレスが溜まると焼肉屋で飲み明かしそれを発散する。そしてこれらの「食べる」という行為はどれも生き生きと描かれ、視聴者の食欲を誘う。(特に焼肉については、当時狂牛病問題で牛肉の消費が下がっていたため同番組は関連機関から感謝状を贈られているほどだ。)
そして、ほとんど毎回のように描かれる食事のシーンが、前者(超能力者=アギト)にはほとんどなく、後者(非超能力者)に集中しているのだ。
そんな哀しき超能力者=アギトの中で唯一例外的な存在として描かれるのが主人公の津上翔一(仮面ライダーアギト)だ。翔一は、この物語の中で唯一トラウマを持たない。と、いうかそもそも記憶喪失で過去のことをほぼ覚えていない。しかし、そのことを本人はあまり気に留めておらず、居候先での「主夫」生活を楽しんでいる。趣味は料理を作ることで、毎日のようにユニークな創作料理を手がけ、他人に振る舞おうとする。当然、自身の食事シーンも多い。
そう、翔一は劇中に登場する唯一の「もの食う」超能力者だ。そもそも記憶のない翔一は、トラウマに捉われない。したがって自身の超能力(仮面ライダーへの変身能力)にもこだわりはなく、警察の尋問にあっさりと「実は僕、アギトなんですよ」と答えてしまう。物語の終盤、記憶を取り戻してからもその佇まいは変わらない。「津上翔一」とは記憶喪失中に仮に与えられた名前だが、彼は物語後半に判明した本名にも関心がなく周囲の人間には好きなように呼ばせてしまう。翔一は、世界に与えられたもの(記憶、名前、超能力)に関心を示さない、ある種超越した存在だ。彼を支えるのは「食べる」ことが象徴する、「いま、ここ」の世界から快楽を、生きる力を汲みだす思想だ。そして物語では、ほとんどの仲間たちが死にゆく中、翔一に感化された超能力者たちだけが生き延びていく。
かつて伊上勝は石森章太郎の描く悲劇的なドラマツルギーを、痛快娯楽活劇の「パターン」に落とし込むことで事実上無効化していった。しかしその息子の井上敏樹は、石森的なものを継承しながらも、その世界観を完全に反転させたのだ。
そして『仮面ライダーアギト』と双子の関係にあるのが、井上が全50話の脚本をすべて手掛けた『仮面ライダー』(2003~2004年)だろう。同作には、「アギト」同様、超能力(モンスターへの変身能力)をもつ人類の亜種が登場する。オルフェノクと呼ばれるその亜種は、人類を特殊な方法で殺害する。そして殺害された人類は一定の確率でオルフェノクとして蘇る。こうしてオルフェノクたちは密かに勢力を拡大していく。主人公の青年・乾巧は偶然手に入れたベルト(仮面ライダーへの変身能力を付与する)を用いて、人類を襲うオルフェノクたちと戦うことになる。
津上翔一と乾巧はコインの裏と表のような存在だ。陽気でコミュニカティブな翔一に対して、巧は周囲に心を開くことを苦手とする。料理好きの翔一とは対照的に、巧は猫舌でほとんど「食べる」ことを楽しめない。そして翔一がアギトであったように、巧もまたオルフェノクであることが判明する。(本作におけるオルフェノクはいわゆる「怪人」に相当する。そう、『仮面ライダー555』は仮面ライダーと怪人が「同じもの」であるという初代「仮面ライダー」の世界観に回帰した作品でもあるのだ。)
『555』でもまた、井上はアクロバティックな脚本術を披露している。『仮面ライダー555』では物語が進行するとオルフェノクは誕生と共に壊死の始まる種であり、既にその存在が滅亡する寸前であることが明かされていく。そして、物語も巧を含むオルフェノクたち(登場人物の大半)が壊死していく未来を示唆して、終わる。要するに同作は予め滅びの運命を刻印されていた人々が、そのときを迎えるまでの短い時間を描いたものだった、と言えるだろう。実際に、同作の展開を俯瞰するとベルト(仮面ライダーへの変身能力)と人間関係(主に恋愛関係)の移り変わりが存在するだけで、同作の世界には何も本質的な変化は起っていないのだ。
『555』には海堂直也というオルフェノクが登場する。
かつて天才的な才能を示し、音楽家(ギタリスト)としての将来を嘱望されていた海堂だが、その才能を妬む人物により事故を仕組まれ、指の神経を失ってしまう。以降、海堂は自暴自棄な生活に溺れるようになり、やがてオルフェノクとして覚醒する。オルフェノクとなった海堂は、やがて自分に匹敵する才能をもった若いギタリストにその夢を託し、そしてすべてを清算するために愛用していたギターを階上から放り投げて、壊す。
しかし、以降の海堂は夢(生きる目的)を失い、迷走する。あるときはベルトを入手して(仮面ライダーとなって)人類に加担するオルフェノクを排除しようとする。またあるときは逆にオルフェノクから人類のを守るために奮闘する。しかし海堂の心は満たされない。
海堂は劇中で語る。「夢ってのは呪いと同じなんだよ。呪いを解くには夢を叶えなければ。でも、途中で挫折した人間は、ずっと呪われたままなんだよ」──アギト=オルフェノクとはまさにこの「呪い」を受けた存在だろう。しかし『555』の主人公・巧には「夢」がない。正確に言えば(オルフェノクである自分の人生に絶望しているため)「夢」を抱くことができないのが巧の「呪い」だ。したがって巧はもっとも救済され得ないオルフェノクとして描かれる。『555』という物語はそんな巧の救済をめぐる物語だと言えるだろう。
そして物語の結末で、巧はその死(の暗示)によって救済される。巧は長い闘いを経て「夢」をもつことのできない自らの宿命を受け入れる。「夢=呪い」から自由になった巧の立つ場所は翔一のそれと同じ地点だと言える。しかしその救済の瞬間は同時に彼の死が暗示された瞬間であり、物語の結末でもある。ここには翔一的な超越を、徹底して作品世界から排除しようとする井上の意図が感じられる。こうして考えると、同作は津上翔一のような超越者(アギト=オルフェノクであるにもかかわらず、「食べる」ことができる)を設定することなく、井上の世界観を追求したものだと言える。
そもそも「食べる」というモチーフは、井上敏樹の作品において世界への肯定の象徴であると同時に、執着を持たないことの象徴でもあった(津上翔一の描写はその最たるものだろう)。「食べる」という行為は一瞬で快楽をもたらし、そして一瞬で終わる。要するに、井上敏樹にとって「食べる」=世界を肯定することと「夢=呪い」をもたないことは等号で結ばれているのだ。
だとすると井上がその作品世界から翔一的な超越者を排除した理由が浮かび上がる。そう、『555』で「食べる」ことではなく「夢=呪い」を主題にすえた井上の意図は明らかだ。井上の本作におけるねらいはただ滅ぶだけの、世界を肯定できない呪われた存在たち=オルフェノクたちの目を借りてこの世界を描写することだ(前述したようにこの作品には事実上「展開」が存在しないのだから)。
そして、井上敏樹の最新作となる小説『海の底のピアノ』は、井上が『555』で掴み出したものに10年の歳月を経て再びアプローチした作品だと言える。
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2014/04/11(金) 07:00 いまこそ語ろう90年代テレビドラマとその時代ーー野島伸司・北川悦吏子・三谷幸喜 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.050 ☆
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