ニッポンの「働く」をめぐる言説を問いなおす
――宇野常寛による書き下ろし
「文化系のための脱サラ入門」再掲載
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.3.21 号外
http://wakusei2nd.com

今回の「ほぼ惑」号外では、「働き方」に対する宇野常寛の考えをまとめた書き下ろしエッセイ
「文化系のための脱サラ入門」を無料公開します!(※2011年末のコミックマーケットにて頒布されたものです)
この10年で厳しくなったと言われる労働環境の裏側で、当時サラリーマンだった宇野常寛が獲得していった「自由」とは一体どのようなものだったのか――? 宇野個人の体験談から、ニッポンの“働く”をめぐるクリティカル・ポイントを抉り出しています。

文化系のための脱サラ入門
(初出:2011.12.31 コミックマーケットにて頒布)
 
 
■はじめに
 
▼こんにちは。評論家の宇野常寛です。今日は「文化系のための脱サラ入門」と題して、文学や音楽が好きな人を対象にした「脱サラ」の勧めを書いてみたいと思います。しかし「文化系のための~」と題することに、僕は若干の抵抗を感じなくもない。このタイトルには分かりやすい欺瞞がある。そのことにまず読者は気づくべきです。

▼この「欺瞞」については、何のために「脱サラ」するのかを考えると分かりやすい。単純に考えると、このタイトルは「趣味を仕事にしたいと思っているけれどそれが何らかの理由でできない人」を対象にしている。そして、そんな読者に「働き方」を見直すことで別の生き方を提示することを目的としている――そんな内容を示しています。それがフリーの文筆業やアーティストとして生きる方法なのか、それともインディーズの文化活動と最低限の収入を両立させる方法なのか、あるいはその両方なのか――とにかく、普通に考えるとこの文章は、文化好きの/でも文化産業には就職していない人たちの人生をより豊かにするためのアドバイスが詰まっているこ
とになる。もちろん、僕も、僕の短い経験談が多少なりとも役に立てばいいと思ってこの文章を書いているのだから、そう思っていただいて間違いない。けれど、そんな「物語」が隠蔽するものが確実にある。それを僕は知っているので説明するほうが誠実だと考えているんです。僕は最近、いろいろ自分の仕事の仕方、もっと大げさに言えば社会との結びつきについて考えることが多くて、普通に考えれば「黙っていた方がいい」「隠蔽しておいたほうがいい」ことまで意図的に書こうとしています。その意味では、この文章はあまりお目にかかることのないタイプの、貴重なものだと思います。

▼この種の「物語」が隠蔽しているもの、それは端的に述べれば「才能」の問題です。たとえば僕の友人にはときどき、医者とか弁護士とか一流商社や有名マスコミなど、いわゆるステイタスのある職業についている人たちがいなくもない。彼らは僕と仲良くなるくらいだから、文化好きの人が多い。休日は映画館と美術館を梯子して、夜は本を読んで、ニコニコ動画を見る。そんなライフスタイルの人ばかりです。そんな彼ら/彼女らが、「もっと音楽や映画の仕事がしたい」と思っているかというと、そんなケースはむしろ稀です。社会的に「価値」が保証されている職業に就いている人は、たとえそれが一個人としては興味のないような仕事でも、「本当は~の仕事がしたい」と自分探し文化系になることはほとんどない。

▼これが何を意味しているのかと言うと、実は「脱サラ」して幸せになれる文化系なんてほとんどいない、ということです。彼らの大半は、たぶんもっといい会社に勤めて、あるいは今の職場で評価されて、心が満たされれば実は思想も文学も音楽も必要ない人たちなんです。これは普通に考えたら、読者の何割かは確実に不快に思うので「書かない」ほうがいい。しかし、僕は書いたほうがいいのではないかと最近考え方が変わってきた。そしてそれが何を意味するかと言うと、僕がこれから書くことがほんとうに役に立つ人は、日本に数百人くらいしかいない可能性が高い、ということなんです。だからほとんどの物書きはこの事実を隠ぺいした上で書く。僕もそのほうがいいんじゃないかと、少し前までは考えていた。けれど、いろいろあってやめました。

▼それはなぜかと言うと、まあ、少しロマンチックなことを言えば、世界中の誰か一人でもこの文章に接したことで幸せになってもらえれば、それで構わない、ということになります。そしてもう少しつけ加えるのなら、僕が今から書くことは「文化系のための脱サラ」という観点から書くことで、もっと他の、大きなテーマを効率よく、そしてユニークなかたちで展開できる。それが「自分の実体験を素材に書く」ことの強みです。つまり、僕は自分の体験談を批評的に整理して紹介することで、自分にしかできないかたちでその背景にあるもっと大きな問題を扱うことができるわけです。

▼それでは、前置きが長くなりましたけれどさっそくはじめましょう。
 
 
■「会社をやめる」という発想をやめる
 
▼僕は2004年の5月(25歳)から、2008年の12月(30歳)まで会社員として働いていました。その後、いわゆる「脱サラ」して自由業(評論家)として活動しています。しかし、この表現自体がはっきり言ってしまえば不正確です。僕が物書きの仕事を始めたのが2005年の夏ごろなので、僕はそれから3年間、いわゆる「副業」もちの会社員だったことになります。そしてこの文章を書いている現在(2011年12月/33歳)も、僕は最後につとめた某社と業務委託契約を結び、社員時代の給料よりはぐっと下がりますがアドバイザーとして月々の報酬を得ています。その意味においては、僕は会社を「辞めていない」。しかし、僕が会社に顔を出すのは年に数回です。あとはメールや電話で意見を述べたり、人や企業を紹介したりするだけです。法的にはだたの出入りの業者でしかないし、その意味においてはやはり僕は会社を「辞めている」わけです。

▼この「脱サラ」入門の最大のポイントはここにあります。「脱サラ」というと、きれいさっぱり会社を辞めて、必死に貯めた貯金を元手にゼロから第二の人生を踏み出す――というイメージがあると思います。しかし、僕の考えではまったくそれは現実的じゃない。「脱サラ」の本質とは、「働き方」のイメージそのものを変えることです。「会社の中にいる(社員である)」か「外に出る(辞める)」という二項対立的な発想を捨てて、「今の自分に適切な距離で会社と付き合う」という発想に切り替える。これがほとんど唯一にして最大の要点だと言っていい。

▼僕のケースをもう少し紹介しましょう。僕は約5年の会社員生活のうち、3年を副業(評論活動)しながら過ごしていました。その間に何度か転職しているのですが、最後に勤めた会社(今も関わっている某社)は最初から「副業OK」という条件で入りました。この会社は某出版社の子会社で、当時は親会社関係の版権管理や、EC、ケータイコミックなどのインターネット事業を展開していました。

▼僕は当時インディーズのカルチャー誌「PLANETS」を発行しており、創刊2号でインターネットのサブカルチャー好きの中では少しだけ知られた存在になっていました。物書きとしては男性誌やライトノベル誌のレビュー記事などからはじめて二年、SF誌にはじめての連載をもつことがこのとき既に決まっていました。

▼要するに、物書きとして売れ始めていたので、会社に隠れて副業をすることに限界を感じていたわけです。そこで、別の企業に移って条件交渉し、副業を認めてもらうしかないと考えました。もちろん、普通の会社でそんなことは無理です。しかし、僕の売り出し中の物書きとしての、そしてインディーズとはいえ雑誌編集長としての能力(人脈を含む)を欲してくれる企業はゼロじゃないはずだ……そう考えたんです。

▼と、いうことで僕はこれまでは意図的に避けてきた、自分の物書きとしての所属ジャンルに近い事業を展開している企業に転職することにしました。最初は知り合いのつてで、いくつか紹介を受けたりもしたのだけど、やはりそうそううまくは行かない。そんな中、たまたま自分で求人を見つけて応募したのがその会社だった、というわけです。募集要項を見て、まさに自分にぴったりだと思いました。後で人事担当から聞いた話ですが、会社も僕の応募があったとき、「ちょうどいい奴が来た」と思ったそうです。

▼僕は面接のときに、自分の原稿とPLANETSを持ち込んで自分を売り込みました。自分は物書き志望で、連載も決まっている、自分で雑誌も作っている。この人脈は絶対に今の御社のこの事業と、この事業に役立つはずだ、と。そして「……という理由で、給料は少なくて構わないので、副業を認めて欲しい」と。社長は僕の条件を飲んでくれて、採用が決まりました。もちろん、とても幸運だったと思います。しかし、ここで重要なのは「副業」という発想と「会社と交渉する」と発想です。

▼後から聞いた話だと、人事部長さんは僕の入社に反対だったらしい。それを現場と社長の賛成票で採用が決まった、とか。
 
 
「上司」と仲良くなる
 
▼そもそも僕が物書きになろうと思ったきっかけは、最初の会社の上司との出会いでした。彼は……昔の文芸評論に詳しい人は分かると思いますが「オルガン」という雑誌の周辺にいた人で、いわゆる団塊世代の吉本派の日本代表のような人でした。彼は会社員をしながら、数十年で数冊評論本を上梓していました。僕は彼と出会って「こんな生き方もあるんだ」と思ったわけです。つまり、会社員をしながらでも文筆活動はできる、と。

▼僕に師匠と呼べる人がいるなら、たぶんこの人をおいてほかにありません。彼とは(仕事をサボって取材先の喫茶店などでよく)思想や文学を巡って議論もしましたが、それ以上に世の中との対峙法について、僕は多くのことを学びました。彼は全共闘のあと、ずるずると労働運動の終わりなき闘争に身を投じ、80年代半ばに「転向」するまでそれを引きずっていたといいます。その上で、今の生き方を選んだ。ここで簡単に書くことはできませんが、僕はこの人に会ったから物書きになろうと思ったことは間違いない。それは彼の思想ではなく生き方から受けた影響なのも間違いありません。当時の僕には普通に生活しながら考え、書くことがとても豊かで、魅力的な営みに見えたのです。

▼ちょっと脱線しました。「師匠」については本人が嫌がるのであまり大きなメディアやインターネットには書けません。そう、僕はまだ彼との交遊は続いています。会うのは数か月に一度ですが、ときどきメールで意見を交換しています。

▼とりあえず、ひとつ言えることは僕の「脱サラ」のはじまりは直属の上司と仲良くなったことでした。そして彼から「副業」という発想を学んだ。「会社員をしながらでも本は書ける」のです。そう思うことによって自然に僕の思考回路からは「会社に残る/辞める」という二項対立は消えていきました。これはなかなか実例に出会わないとピンとこない。でも僕は最初に就職した会社で出会うことができた。これは幸運だったと思います。
 
 
会社と「交渉」する
 
▼と、いうことで僕は「副業」を始めました。具体的には学生時代インターネットで知り合った編集者にメールを出して、自分を売り込んだんですね。僕は学生時代、そこそこ有名だったテキストサイトで評論を書いていたので、その頃に声をかけてもらった人に連絡を取りました。そして雑誌のレビュー記事やインタビューの構成から仕事をはじめ、徐々に物書きの仕事が増えていった。そして一年半くらい立ったとき、さすがに量的にも、露出的にも会社に隠れて文筆活動をやるのは無理だと判断し、先ほど述べた会社に移ることにした、というわけです。

▼そして某社勤務時代、僕が副業で評論を書いていることを知っているのは社長を含む幾人かの幹部社員と人事担当だけだったと思います。あとは社内で仲良くなったごく親しいメンバーのみ。直属の上司を含め、ほとんどの社員は『ゼロ年代の想像力』が本になるまで知らなかったと思います。僕の方からも、積極的に話そうとはしませんでした。僕は入社の経緯からして特殊で、仕事的にも実務を期待されているわけではない。言ってみれば「ブレーン&ハブ役を期待して、腰掛け的な勤務を認める」という暗黙の約束があったわけですが、そんなことが公言されていいことはひとつもない。むしろ僕を社内で立ち回りづらくするだけだったでしょう。

▼と、いうことで僕は社内では端的に言えば半ば意図的にバカっぽい話ばかりしていました。当時僕の同僚だった人は、僕について「あまり仕事はしないでおしゃべりばかりしている人」という印象を持っていたんじゃないでしょうか。僕も当時は会社の同僚たちとは、社内恋愛と趣味のオタク話しかした記憶がない。もちろん、個人的に親しくなった人はどんどんPLANETSに巻き込んでいきましたが。

▼その代り、まあ、当たり前の話ですが会社が僕に期待している「方面の」仕事は相応にこなすようにしていました。逆に、僕がそれができないと思うたびに、会社と交渉して「距離を空けて」いきました。

▼実は僕は2008年に春ごろから、会社には週に3日しか出勤していませんでした。時期的には「ゼロ年代の想像力」が発売される少し前です。会社と交渉して、給料を減らす代わりに仕事を軽くしてもらったのです。たぶん当時収入的には既に文筆活動のほうが多くなっていたと思います。逆を言うと、僕は(1)副業の収入が本業のそれを上回るまで、(2)会社に期待されている業務を量的にこなせなくなるまで、週5日、会社員を続けていたことになります。

▼しかし今考えても、「週3日勤務」という待遇が認められたことは異例だったと思います。いくつか理由を分析してみると、まず第一に僕はそもそも実務を期待されて入社していなかったことが挙げられます。実質的な仕事のほとんどは会議に出て色んなことに対する「分析」を喋ることと、人脈の提供でした。これはよくよく考えると、「社員」として内部にいなくてもできる仕事です。と、いうか業種にもよるけれど、僕の考えでは現代日本社会において今の「正社員」的な勤務形態が必要なのはお金周りを押さえている役職の人だけじゃないかと思っています。

▼だから会社としてはむしろ僕が「身内にいること」だけが重要で週5日飼って満額の給料を払うことにメリットはなかったのではないかと思います。逆を言えば、社長は僕がまだ文筆だけでは食えなかったので、僕を支援してくれた、くらいの心づもりだったのではないかと思います。ほんとうに感謝しています。

▼第二に、これはたぶん僕が「言われたことしかやらない」かつ「言われたことはこなす」というかたちで勤務していたからだと思います。つまり、僕は積極的に提案を行って会社を導いていくような勤務はしていなかったけれど、会社に期待されていたことはたぶん1.2倍くらいで打ち返していた。この「微妙さ」が会社に「こいつは半分外に出して泳がせたほうがいい」と判断させたのだと思います。「宇野常寛」はペンネームですが、会社は「宇野常寛」の名前が商品価値をもつことが、会社のメリットになると考えたのでしょう。

▼そんなかたちで週3日勤務していたのですが、半年くらいでもっともっと文筆業が忙しくなり、ついに僕は「退社」することになりました。さすがに退社直前は会社から降りてくる「最低限のこと」もこなすのが時間的に難しくなってきた。そこで会社と再々交渉して、出社義務のないアドバイザリーとして業務委託契約を結ぶことになった、というわけです。そして今でも付き合っている。何ヵ月に一回か、オフィスに呼ばれて顔を出すと、僕の顔を知らない若い社員が結構いたりする。そしてそんな若い子たちから「サイゾー読んでます」とかいきなり言われたりする。不思議な気分です。

▼なので、僕の意識としては「会社を辞めた」のではなく「別の仕事が忙しくなるにつれて、何度か会社との距離を計りなおしてきた」という感覚です。だから、古巣の某社がものすごく魅力的な企画を僕に持ち込んで来たりすれば、もしかしたら僕は今よりも若干近い距離で会社に関わるかもしれません。

▼僕が会社と「交渉」し続けることができたのは、たぶん入社の経緯がやや特殊だったので会社が自分に何を要求しているかを、かなりかんたんに想定できたところが大きい。会社が社員に要求するのは「役に立つ」ことです。だから会社は僕のような特例を認めるデメリットよりも、僕が提供するメリットの方が上回ればそれを認めてくれる、と考えたわけです。

▼そしてたぶん、僕について会社が評価していたのはPLANETSという媒体を持っていたことです。僕は当時からこの雑誌のために数十人の人間に仕事をお願いして、それを仕切っていた。会社はその人脈も含めて僕を「買った」のだと思います。そして僕も会社で得た人間関係を「宇野常寛」の仕事に生かしている。たとえば今はその会社にもういない元上司や後輩とも僕は「宇野常寛」として仕事をしています。

▼会社の「外部」にカードを持っていること。これが結果的に会社と僕にwin-winの関係を結ばせたように思えます。
 
 
こうして考えてみると「会社」って何だろう
 
▼こうして考えてみると「会社」って何だろう。そう思いませんか? 僕は最初に就職した会社で、とにかく早く仕事を片付けて早く家に帰って、好きな本を読んで映画を見ることしか考えていませんでした。その意味では、会社に「何も」期待していなかった。でもお恥ずかしい話だけれど、その頃僕は先輩社員と喧嘩ばかりしていた。頭では「何も期待していない」と思っていても、心の中では自分の能力を認めさせたい、という考えが働いていたんだと思います。だから仕事で納得がいかないところがあると、効率よりは自分の正当性を主張して喧嘩になってしまう。けれど、師匠と仲良くなって、別の目標が出来た途端にはっきり言ってしまえば「会社」がよりどうでもよくなり、そのせいで結構うまくやれるようになった。

▼要するに、この共同体で認められなくてもいい、と思った瞬間、「スルー力」がハネ上がったんですね。いつか読者に喜んでもらえるものを書いて、師匠に認められればいい。いや師匠だって思想的には僕と隔たりがあるので、未来の読者に参考にしてもらえばいい、そう思って生活し始めるとものすごく会社での自分の立ち位置やキャラクターが客観的に見え始めた。比喩的に述べれば、カラオケで適当な曲を歌ってお茶を濁すのが苦痛ではなくなった。そしてさらに、うまく立ち回ってそういう「飲み」を回避するスキルすら上がってきた。

▼その後、僕は転職を重ねて、例の「古巣」に落ち着いたわけですが、その頃はたぶんどこに行ってもやっていけるという自惚れすらありました。今思うと、それはそれで思い上がりだったと思うのだけど、会社とは別の「社会とつながる回路」があるというだけで、人間はこんなに楽になるのか、と驚いたくらいです。

▼僕はよく、「生きがい」になる共同体は複数に分散しておくべきだと主張しています。たとえば「家庭」がうまく行かない人の何割かは、心の置き場が「家庭」しかなくて、その結果家族に過大な要求をしてしまっているケースが少なくない。同じことが「職場」にも「サークル」にも言える。人間はさまざまな承認欲求を抱えていて、それをひとつの共同体で満たしてしまおうという考えが僕にはひどく窮屈に思えます。もしそんな対象が見つかるとしたら、それはあなたのお母さんだけでしょう(セカイ系問題)。

▼「会社」についての問題も要はそういうことです。会社に限らず、ある共同体でうまくやれない人というのは何割かは確実にこのケースです。

▼その意味では「会社員」時代の人間関係は、僕にとってかなり大きな財産になっていると思います。僕の書くものが、(文芸評論家の割には)わかりやすいとするのなら、それは「思想」や「批評」とまったく関係ない人たちと主に付き合ってきたからだと思います。そして何より、普段そんな生活をしているよブログ論壇的な世界がいかに矮小かということが身にしみてわかる。これは大きかったと思います。

▼ここで重要なのは社会的背景です。僕の「古巣」が僕のような特例を認めたその背景には、間違いなくこの二十年間進行した労働環境の「自由化」があった。たぶん「誰もが正社員、終身雇用」という世界では、僕のようにまず数年間で転職を繰り返す人間自体がそもそも失格であり、社会的落伍者として見做されていたと思います。しかし今の「30歳くらいまでに転職しながら履歴書強化」ゲームが当たり前になった労働事情が、ものすごく僕を「楽」にした。

▼しかしゼロ年代の日本は僕のような働き方を受け入れた。この事実がある限り、僕はゼロ年代の日本を否定しきれない。一般的には格差を広げ、弱肉強食の世界を作ったと言われる(僕はそれは一面的な見方だと思うけれど)この十年、二十年の日本企業社会の変化のおかげで、僕は随分と楽になったし、はっきり言ってしまえば僕はこの新しい世界が好きです。

▼物書きになろうと思う前、僕は言ってみれば「草食の生き方」をしたいと思っていました。給料は安くても構わない。なるべく早く家に帰って、土日もしっかり休んで、その時間を趣味に充てようと思っていた。そして物書きになろうと思ってからはたぶん「肉食の生き方」をしていたと思います。しかし今思うと、あと二十年早く生まれていたら僕はどっちの生き方も許されなかったと思います。日本社会は、安定と引き換えに「雑食の生き方」を国民に強制するシステムを戦後に構築したのだと、僕は考えています。そして、たぶん僕はそのシステムの中ではどっちにせよ居場所はなかった。しかし、今の世の中には(どっちにせよ)ある。僕はより多様な生き方を許容するというこの一点において「いま」の社会を(この文脈では)肯定します。
 
 
「会社」を使いこなせ!
 
▼どうでしょうか。気づいている人もいるかもしれません。この文章は「脱サラ入門」と銘打っていますが、その趣旨はむしろ逆です。文化系のためのニュータイプ・サラリーマンの勧め、です。現代における会社の、日本的経営という最適解が崩壊し、迷走するこのシステムが結果的に獲得している柔軟性をメリットとして捉え、以前の基準ではいい加減で、デタラメで、あり得ない会社員生活を構築することこそが、会社員をしながら「面白いこと」をする秘訣です。

▼そして、この文章では紙幅の関係で書けなかったことがあります。それは仲間を集めることです。ご存知だと思いますが、僕が自分が物書きになろう、メディアを作ろうと思ったときに最初にやったことが、自分が面白いと思う人たちを「口説く」ことでした。会社の外部のカード、というお話をしたと思いますが、それは要するに人脈のことです。同志を集め、「みんな」で会社の外にカード(実績と人脈)を蓄積する。これはひとりでやるよりも圧倒的に効率がいい。この蓄積があってはじめて会社と「交渉」できるわけです。今の会社がそのカードを評価してくれないなら、評価してくれる会社を探せばいい。カードが蓄積すればするほど、その選択肢は広がります。
 
 
では、自分はどんな「会社」をつくるのか……
 
▼と、いうことでつらつら書いてきたのですが、僕は今、これまでとはまったく別の問題にぶち当たっています。それは自分がどんな会社を作るのか、という問題です。規模的に考えて、PLANETSはそろそろ法人化しないといけない。人も雇っているし、お金の出し入れも多いのでそろそろ個人名義でやるのは辛くなってきた。そんなとき、諸々の手続き以上に僕はどんな会社システムをつくるのか、という問題にぶち当たったわけです。僕の通ってきた道がこうである以上、人を囲い込んでしまうようなタイプの組織にはしたくない。やはり僕と古巣のようなwin-winの関係で社員とつながるような、そんなシステムを考えています。滅私奉公させて、搾取するのではなく。細かいことはここでは書きませんし、書けませんが会社員時代の経験を生かした新しい「働き方」のモデルがあるような……そんな企業を考えています。

▼長くなりましたが、今日の僕のお話はこれでおしまいです。来年も著作発表、雑誌発行、イベントなど盛りだくさんでお届けしますので、引き続きご支援よろしくお願いします。僕には何の権威もなければ、後ろ盾もありません。みなさんの応援だけを背景に活動している在野の評論家です。その分、絶対にみなさんの期待を裏切らない(裏切れない)。来年も、必ずみなさんをワクワクさせるようなことをしますので、どうぞよろしくお願いします!

2011.12.31 宇野常寛