小沢の"いっちゃん"から、前田の"あっちゃん"へ
光文社・青木宏行インタビュー
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.3.14 vol.030
今朝のメインコンテンツである元「FLASH」編集長"あおきー"さんのインタビューには、オウム事件の話が出てきます。その一連の騒動の幕開けとなった地下鉄サリン事件が起きたのは19年前の今朝、つまり1995年3月20日の朝でした。そこで今日は特別に、宇野が昨年オウム事件について朝日新聞に答えたインタビューを掲載いたします。
【3.20 特別掲載】宇野常寛のオウム事件へのコメント
(初出:朝日新聞・2013/3/20)
(本稿は、新聞の表記ルールやコンプライアンスの関係で不本意になった表現をリカバーするために、掲載時の内容から改稿しております)
僕が批評や世相に関心を持ったきっかけはオウム真理教の一連の事件です。地下鉄サリン事件当時は男子高の寮に住んでいましたが、サティアンにジャンクフードが乱雑に積み上げられた様子や、空気清浄機を「コスモクリーナー」と呼ぶオタクっぽいノリから、自分たちの日常に近い生々しさを感じて怖かった。そんな時、宮台真司や大塚英志さんのオウムに関する評論を読み、とても考えさせられるものがあった。
オウムは過渡期の現象だったと思います。先進国では1960年代末までに学生運動が挫折し「社会を変えることが、そのまま自己実現につながる」という、マルクス主義など大きな物語への信頼が失われた。その後台頭したのが、ヒッピーやドラッグ、オカルトなどのカウンターカルチャーです。共通点は「世の中を変えるのではなく、薬や修業で自分自身の意識を変える」という方向性です。
だが、多くのヒッピーが環境保護運動に積極的だったように、実は彼らは「世の中を変える」ことをあきらめきれなかった。オウムは日本におけるその典型例です。最初は、ヨガや瞑想で自分を変えることで、世の中の見え方が変わることを追求していたが、それでは飽きたらずに衆院選に出馬。それが挫折すると、社会を全否定するテロに走った。要するにオウムは、マルクス主義の代わりにオカルト思想を持ち出すことで、自己実現と社会変革との直接的な結びつきを取り戻そうとしたのです。オウムの暴走は、こうした「自分の内面を変えることで世界の見え方を変える」ことを社会変革の代替物とする思想の敗北だったと思います。かつての「革命」とは別のかたちで社会を変えるビジョンが必要だったのでしょうが、20世紀の若者たちはそこにたどり着けなかった。
オウムの事件後、「オカルトの時代」は終わったと思います。今でもパワースポット巡りなど「スピリチュアルブーム」はありますが、現世利益実現の手段に過ぎず、反社会性はない。クーデターを起こそうとするカルト集団も出てこないでしょう。
理由は二つあります。一つは、孤立した若者たちが手軽にインターネット上のコミュニティーに接続し、自分の居場所を見つけられるようになったことです。寂しかったから麻原の元に集った、というのがオウム信者たちの本音でしょう。昔だったらカルト宗教しか受け皿がなかったような純粋でプライドの高い若者たちが、今ではアイドルのファンクラブやニコニコ動画のコミュニティーに加入して趣味の世界で仲間を見つけ、充足している。人々がこれほど簡単に地縁や血縁から離れて、自由に結びつける時代はなかった。資本主義とネットの潜在力がオウムの問題を半ば自動的に解決してしまった、とも言えます。
もう一つの理由は、人々が社会を変えようとする時に「革命で体制を転覆する」という過激なモデルを考えなくなったことです。マルクス主義の失敗に加え、アニメーションやファンタジーの世界でも、80~90年代にはやっていた「世界が滅びる」というハルマゲドンものはすたれてしまった。当時はまだ社会が安定していたので、逆に「日常が壊れる」ことへの憧れがありましたが、今は本当に世の中がおかしくなっているので、むしろ平和な日常を描いた作品が受ける時代。「退屈な日常を打破するためにテロを起こす」というオウムのような発想で若者の気持ちをつかむのは難しい。ただし、僕が「終わった」と考えるのは社会現象としてのオウムです。数人の同志がいればテロは起こせる。オウム関連団体への監視を緩めていいとは思いません。
インターネットのような個人の発信装置の発達は、社会参加、社会変革のあたらしいイメージを生みつつあります。今後、社会を変えようとする時に主流となる考え方は、「革命」的な体制転覆ではなく、既存の体制を前提としつつ一人ひとりが積極的に発信することを通じて、コミュニティー間のバランスを調整し、効率的で公平な社会を実現することでしょう。
たとえば米国のウォール街を包囲した人々は、格差是正を訴えているだけで革命を目指してはいない。日本の原発デモも「原発で一部の集団が得る利益に比べ、国民全体が被るリスクが大きすぎる」ことへの異議申し立てで、究極的には効率や公平の問題と考えられます。まあ、いわゆる「放射能」の人たちはそうは思わないのでしょうが。
効率や公平の実現は実は難しくて大きな問題です。「革命」という物語に酔うのではなく、人々が個々の生活実感に基づき自由に情報発信することが、社会全体のムーブメントにつながり、バランス調整が達成される。そんな社会に向かえればいいと考えています。
(聞き手・太田啓之)
元「FLASH」編集長であり、数々のAKB関連書籍を手掛けてきたあおきーの愛称で知られる青木宏行さん。アイドルの推し遍歴から今後の展望まで、少年時代から遡ってお話を伺いました。
▼プロフィール
青木宏行(あおき・ひろゆき)
1961年生まれ。慶應義塾大学法学部卒。光文社エンタテインメント編集部編集長(「FLASH」元編集長)。熱狂的なAKBファンとして知られ、数々のメンバーの写真集を手がける。ニックネームは「あおきー」。
◎構成:稲垣知郎+PLANETS編集部
■謎の編集者”あおきー”を生い立ちから解き明かす
― 今日はAKBヲタの皆さんにはお馴染み”あおきー”こと青木さんを丸裸にしようと思ってお呼びしました(笑)。
と、いうことで今日は青木さんの生い立ちからお伺いしたいのですが。
父親は高校の教師で、化学を教えていましたが、もともと実家が酒屋で、小さい頃から配達をしたり、お酒をついだりして手伝っていましたね。
お店が水沢市(現・奥州市)の繁華街にあって、バーやスナックから注文が来て、夜に持っていくんです。冬は、雪の中を自転車の後ろにビールをケースごと乗せて配達していました。
実際に酒屋を手伝いながら、商売にサービスがいかに大切かを学びましたね。
― 後に出版社に入られるわけですが、少年時代から本には関心があったんでしょうか?
家のすぐ側に本屋が3つもあったんで、一日に何度も本屋に行ってましたし、本や雑誌を読むのは好きでしたね。北杜夫に感想文を書いて、本人から返事が来たこともありました。
漫画雑誌は、ちょうど僕の子どもの頃からどんどん増えていったんです。物心ついた頃に、マガジン、サンデー、チャンピオン、ジャンプの週刊マンガ誌4誌が揃って、毎週全部読んでました。それにビックコミックオリジナルとか派生漫画誌がどんどん増えていったんですが、高校卒業するまで全部買って読んでましたね。
マスコミに行きたいと思ったのは、周囲の影響ですね。元々おじいさんが朝日新聞にいて、やめて地元で新聞社を作っていたり、親戚のおじさんがテレビ局にいたりして、わりとメディア関係の人が親戚に多かったんです。田舎ではあったんですが、割とマスコミを身近に感じていました。
■映画製作に明け暮れた大学時代
― 大学は、慶應義塾大学の法学部ですね。当時、印象に残った出来事はありますか?
大学生活は、映画を見て、芝居を見て、バイトをしての繰り返しでしたね。
映画研究会に入ったのですが、ぴあのフィルムフェスティバル(PFF)というのがあって、それに作品を提出しました。自主映画制作にはお金がかかるんで、結構バイトしましたよ。ケーキ屋やスキーショップの売り場をやったりして、六本木のパブで働いたり。フィルム代や制作費として、20万円くらいためて、自分でシナリオを書いて、クラブが年に3本作る映画の候補作品に応募するんです。
自分のシナリオが選ばれたら、主演女優を決めて、カメラマンやADのチームを作って、映画を制作できるんです。それが一番の思い出ですかね。
― 付き合いたかった子をヒロインに抜擢した……みたいなエピソードはないですか(笑)?
クラブで一番可愛いなと思った子をヒロインにしましたね(笑)。記憶喪失の女の子の役柄で、一人暮らしの主人公の前に突然現れて、一緒に住み始めるんですが、ある日帰ったら突然いなくなっているんです。お互いに恋心が芽生えた頃に、記憶が戻っていなくなってしまうという物語です(汗)。エンディングは御茶ノ水で撮ったのですが、御茶ノ水の街で、その子とすれ違うんですね。でも向こうはまったく気がつかない(苦笑)。
― なんか、『冬のソナタ』のような展開ですね(笑)。
あとは、芝居もよく見ていました。当時、野田秀樹さんの夢の遊眠社とか、鴻上尚史さんの第三舞台がすごい好きだったんです。年に30本くらい見ていましたね。
映画研究会なんで、映画も年200本くらい映画館で見ていました。当時は、ビデオもないし、池袋文芸地下とかオールナイトでまとめ見してました。あとは映画の配給会社でバイトしたり、新宿の映画館でもぎりのバイトもしましたね。
― 聞いていると、当時はかなりの映画青年という感じですね。そこから出版社を目指したキッカケはあったんですか?
ミーハーだったんでしょうね(笑)。
光文社は、「女性自身」のほかに、「週刊宝石」が、出来たばっかりだったんです。そういう週刊誌的な情報も好きだったんです。
マスコミに行けないんだったら東京にいなくてもいいかなと思って、地元の銀行も一応受けて内定をもらっていたのですが、結局光文社に入りました。
■最初は政治班の記者だった
それで83年に光文社に入ったのですが、最初は業務部に配属されました。そこで、女性自身やJJ、CLASSYや文庫の担当をしました。そこで、印刷のことや予算管理や出版の仕組みを勉強しました。それは今、AKBの本を作るときにも生きています。業務部には4年ほどいました。
― その後がフラッシュですが、まさに写真週刊誌の黄金時代ですよね。
フラッシュの創刊が、87年の10月で、それから半年後の88年4月に異動しました。
その頃は写真週刊誌の全盛期で、5誌合わせると部数も合わせると400万部くらいで新聞と肩を並べるくらいの部数ですよ。フラッシュ、フライデー、フォーカスの3Fだけでも300万部以上発行していました。その中でやっていたので、記事の反響もすごいんですよ。自分のやった記事がワイドショーに取り上げられたり、影響力も強くすごく面白かった時代ですね。
最初は政治班になりました。安倍晋三総理のお父さんが総理を狙っている時代の、永田町担当です。永田町には番記者制度があって、大手新聞、テレビ以外は情報が入らないんですよ。懇談にも入れなくて、そんな永田町の「鉄のカーテン」の中をいかに人脈を作って情報を集め、取材していくかが主な仕事でした。
ですから、当時は、永田町の「小沢のいっちゃん、鳩山のゆきちゃん」と熱く語っていたのが、今は「前田のあっちゃん、柏木のゆきちゃん」に変わったわけです。やっていることは基本変わってないですね(笑)。
政治部のあとは、ずっとニュース担当をやっていました。
どういう仕事かというと、例えば88年のソウルオリンピックでは、記者兼カメラマンとして現地に2週間、1人で行きました。橋本聖子や小谷実可子の時代ですね。忘れられないのが、カールルイスとベンジョンソンの100メートル一騎打ちを間近で撮影したときのことです。記者席でカメラを構えて、決定的瞬間を取ろうと待ち構えていたんですが、勝利するジョンソンがゴールを走り抜けていく瞬間のシャッターを切ろうとしたら、前の記者がワッと立ったんです(笑)。だから、僕の写真には記者の頭が半分写っているんです。そういう写真の難しさも学びましたね。
■あおきーVSオウムーー個人情報に懸賞金がかかる!
オウム事件もありました。
元々、オカルトとかのミステリー系や面白い動物ネタが好きで、朝日新聞の地方版を毎週全部読んだり、地方紙をとったりして地方面をチェックしていました。ムーとかオカルト情報誌もチェックして、よくネタにしていましたね。
そうしたら、あるとき本屋のミステリー雑誌コーナーを見ていたら、空中浮遊できる人がいるという記事があったんです。これは面白いと思ってコンタクトを取ったら、オウム心理教の新実という人が僕のところに来た(笑)。それで、「面白いですねー、今度取材して良いですか」と聞いたら、「今度、富士山で修行するんで、ぜひ来てくださいよ」と言われたんです。
なんでも、富士山の麓ででっかい水槽をつくって、そこに水を入れてその中で24時間暮らすというんですね。「こんなことできる人いたら、すごいスクープだ! 」となったわけです。もちろん半信半疑ですが(笑)。
ところが、記者に行ってもらったら、なんかおかしいんですよ。
よく見たら水槽の中にさらに穴が掘ってあって、その中に人が入っているんです。それで息ができるようにしていた。結局、富士山まで行ったのに水が漏れて水槽にたまらず、失敗ということになって、すごすご帰ってきたんですね。
でも、そのときの写真が、そのあとすごく大活躍するんですよ。実はその取材のときに、麻原はもちろん、上祐とかそうそうたる幹部たちの写真を全部撮っていたんです。
― そして、地下鉄サリン事件が起きた。
そこから、オウムは相当に取材しましたね。例えば、麻原が捕まったあと、オウムの秘密のアジトが埼玉にできたということで、それを記事にしたんです。そうしたら記事にする前に池袋メトロポリタンに呼び出されました。
すると、そこに変な弁護士もいて、ずっとビデオを撮っているんです。それで、〇〇新聞の記者は土下座して謝ったとか、その記者の家の前に猫の死骸が置かれたりとか悪いことが起こるかもしれないとか言って脅すんです。「それでも書くのか」、と。「お前の親も含めて、個人情報をネットにアップするぞ」とまで言われましたね。
― それって完全に脅迫じゃないですか(笑)。っていうか青木さん完全にオウム真理教に狙われていますね。
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