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第10回 マイコンブームという自作文化の「エデンの園」
(前回までのあらすじ)
『スペースインベーダー』によって本格的に始まった日本ゲームの進撃の中で、
アーケード業界ではとりわけ『パックマン』を生んだナムコが、
玩具業界では電子ゲームブームの覇者「ゲーム&ウオッチ」を生んだ任天堂が、
それぞれ先導的なプレイヤーとして頭角を表す。
とりわけ後者のゲームウオッチは、以後の家庭用ゲーム機のコントローラーの
標準仕様となる十字キーを生み出すなど、携帯型ゲーム機が折々で大きな
イノベーションを起こす日本ゲームの史的パターンを先駆けることになった。
■「マイコンブーム」下で育まれたホビイスト・コミュニティ
アーケードやコンシューマー機の発達と並行して、この時期にはパーソナルコンピューターについても国産のハードウェア環境が整いつつあった。1970年代後半にはNECの「TK-80」を皮切りに組み立て式のマイコンキットが研究者やマニアの間で普及を始めていたことは前章で触れたが、第3章(※本連載では割愛)で詳述した米アップル社の「Apple II」、カナダ・コモドール社の「PET2001」(1977年)、米タンディ社の「TRS-80」(1977年)などに追随するかたちで、シャープの「MZ-80K」(1978年)やNECの「PC-8001」(1979年)など、筐体にキーボードやディスプレイ等を備える完成形で販売されるヒット機が登場。これらの8ビットパソコンは、北米では「ホームコンピューター」というカテゴリーで流通していたが、日本ではマイクロコンピューターないしマイコンピューターという意味で「マイコン」と呼称され、一種のニッチ家電としてブームを起こすまでにはなっていた。
とはいえ、まだ性能的に実用価値のあるアプリケーションソフトは無く、あくまでもBASIC言語などでのプログラミングを通じてコンピューターを操ること自体を目的とするほかなかったマイコンブームの広がりは、あくまで一部のホビイスト(趣味人)やそこそこ富裕な家庭の子弟といった層に限られていた。したがって、その使い道は必然的に機械に戯れることそれ自体が目的となっている行為、すなわちゲームへと向かっていった。つまり、日常の言葉とは異なる論理の呪文を困難を越えて習得し、コマンドの打ち間違いや設計の誤りがもたらすバグ(エラー)と格闘しながらコンピューターを望んだとおりに動作させるという、それ自体がゲームと呼べる秘儀的なプロセスによって、多くのホビイストたちがゲームプログラムを制作する楽しみに没頭していく。
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