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第3回 二人の訪日ユダヤ人がもたらした地球史的因縁
(前回までのあらすじ)
現在のアーケードゲームに連なる日本のアミューズメント産業は、
古来からの土俗祭礼と近代のデモンストレーション空間だった百貨店とが混淆する
松屋浅草の屋上遊園地から生まれた。
そして太平洋戦争のでの敗戦を経て、ジュークボックスなどを卸す進駐軍カルチャーの流入で、
在米ユダヤ人のデビッド・ローゼンを社長とする現存最古のアーケードゲーム企業
セガ・エンタープライゼスが誕生した。
■「満州のイスラエル」計画と太東貿易
セガの初代社長となったローゼンと並び、戦後ゲーム史の起点では、もうひとりユダヤ人が決定的な役割を果たしている。ただしその出身は、太平洋を隔てたアメリカとは反対側、ユーラシア大陸のはるか西にある黒海沿岸の都市オデッサ。映画『戦艦ポチョムキン』にも描かれたロシア革命の記念地で、十月革命から引き続くロシア内戦渦中の1920年に生まれた、ミハエル・コーガンという人物である。
少年期のコーガンは、革命の混乱とヨーロッパで広まりつつあったユダヤ人排斥の動きを逃れ、家族とともに満州国の特別市となっていたハルピンに移住する。そこで極東地域でのシオニズム運動に身を投じる中で、1938年に日本陸軍の安江仙弘(やすえのりひろ)大佐と邂逅している。安彦良和の漫画『虹色のトロツキー』でも劇化されていたように、大連特務機関長であった安江は、「河豚(ふぐ)計画」と呼ばれたユダヤ難民の満州国内および上海租界への移住計画に従事していた。こうしたユダヤ人保護計画は、日中戦争下の日本が、人種差別の撤廃を掲げる八紘一宇の大義を世界にアピールするため、協力国ドイツの反ユダヤ政策に同調することなく、独自に推進しようとしていた国策であった。
その発想の根幹には、ユダヤ人に約束の地イスラエルを日本と満州が与えることで彼らの開発力を利用し、ソ連の南進の防波堤にするとともに、アメリカのユダヤ系資本ネットワークとも経済的なパイプを築いて対米関係の悪化を和らげようという政略的な着想があった。そこにはもちろん、必ずしも人道的とは言えない機会主義的な打算や、ナチスへの配慮による制約があったものの、安江個人は軍命を超えた情熱をもってユダヤ人保護活動に身を捧げていた。コーガンはそんな安江に心酔して親日家となり、日本に渡って早稲田経済学院で貿易業を学ぶことになる。
しかしながら、日独伊三国同盟の締結に至る国際情勢の変化の中で、ユダヤ人移住計画の現実性はなくなり、軍中央部と折り合いの悪くなった安江は予備役に回されてしまう。一時期はロシア文学者の米川正夫のもとに身を寄せてドストエフスキー文学の翻訳にも協力していたコーガンもまた、時局柄ソ連のスパイとも疑われかねない立場にあり、麻雀賭博罪で逮捕されるなどの災難を受けながら、対米開戦後はいったん本土を離れて天津に流れ、貿易商を営み始めるのだった。
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