福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
1、物質ともつれあった心の生成
近代文学が生成したのは、環境に心を創作させる技術である。物質的な環境(自然)の記述が、心的なものの表現として利用される――この心と自然の共鳴現象が、近代文学を特徴づけている。例えば、小説における風景描写はたんなる記録という以上に、語り手の心の動きと相関関係にある。つまり、ある特定の風景の選択は、心のステータスを間接的に説明しているのである。
もとより、心的なものと物質的なものは、さしあたり別個のシステムである。しかし、近代文学はこの二つのシステムを交差させ、物質(自然)を心のあり方の隠喩として使用する道を開いた。そのパイオニアの一人であるアメリカの詩人エマソンは、有名な論文「自然」(一八三六年)で「そもそも人間はアナロジストであり、あらゆる物象のなかに関係を探る」「自然全体が人間精神の隠喩だ」と記したが、これはまさに心と自然のあいだの相関関係を強調したものである。エマソンによれば、この両者は「鏡」のように顔を向きあわせており[1]、ゆえに自然を深く精密に理解することが、そのまま心の正確な表現となる。
エマソンをはじめ欧米のロマン主義者は、この「鏡」のアナロジーを推し進めた。それが意味するのは、物質ともつれあった新しいタイプの心が、文学にプログラミングされたということである。このような現象が生じたのは、近代における文化的・学問的関心の中心が、神学から人間学に移ったことと無関連ではない。
もとより、神とは隠喩的に語られるしかない存在である。ドイツの神学者エーバーハルト・ユンゲルの言い方を借りれば「神自体はただ隠喩的にのみ表現しうる。言いかえれば、そもそも隠喩的に語られる時にのみ、神について語りうるのである」。神は「この世の言語」では記述できない何ものかであり[2]、ゆえに神をこれこれと言語的に定義するのは、すべてメタファーとなる。
かたや、近代文学は神を記述する代わりに、もっぱら人間を説明することに舵を切ったジャンルである。小説において、神についての語りは、心についての語りに凌駕されたが、この新たな関心事となった「心」もまた、隠喩なしには語れない不可解な何ものかであった。神的なものは変形されて、小説の心=中心(heart)に残り続けた。ポスト神学時代の表現と呼ぶべき近代文学は、心を表現するのに、物質的な環境を隠喩として導入するという新たな技法を編み出したが、それはエマソンの汎神論的世界像に見られるように、心=自然が神のオルタナティヴになったことも意味していた。
ゆえに、近代文学における心は唯物論と宗教の交差点に位置している。心は感覚的・物質的なものでありながら、ときに神に似たものとして――ジョルジュ・バタイユの言う意味でのコミュニケーション(霊的交通)の場として[3]――記述される。前章で述べたように、ジョン・ロックやディドロは心を感覚的反応の集合体として捉え、それが文学上のリアリズムやモダニズムの源流となった。逆に、ルソーやドストエフスキーにおいては、心はこのような唯物論に還元されない神的あるいは霊的なものと結びつく。ただ、その場合でも、心はいきなり神に跳躍するのではなく、あくまで特定の環境(ルソーのスイス、ドストエフスキーのロシア)ともつれあいながら、神的な境地に到るのである。
では、近代の著述家たちは、環境と心をいかに「もつれ」させたのか。さらに、自然との接触の仕方を反映した文学的言語、すなわち「エコ言語」(ecolect)はいかなる変化を遂げてきたのか[4]。これらの問いについて、以下《一八世紀的自然から一九世紀的地球へ》という大きな見取り図をもとに論述を進めていこう。
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