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第九章 環境――自然から地球へ|福嶋亮大(後編)

2024/01/30 07:00 投稿

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福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ

6、環境文学のビッグバン――フンボルトの惑星意識

以上のように、ルソーやワーズワースが《自然》と心を同調させる歩行の技術を定着させたことは、文学史上のブレイクスルーと呼ぶべき事件であった。レベッカ・ソルニットが示唆するように、この技術は二〇世紀のモダニズム文学にまで及ぶ[25]。主人公の行動履歴を細かく再現したヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』やジョイスの『ユリシーズ』は、歩行のログを感覚の基盤とし、それを思考や記憶の触媒とした。

ただ、ここで見逃せないのは、彼らの自然のイメージがあくまでヨーロッパに限定されていたことである。彼らの「エコ言語」の特性と限界は、ワーズワースと同世代のドイツの知的巨人、一七六九年生まれのアレクサンダー・フォン・フンボルトと比べるとき、いっそうはっきりするだろう。

博物学者にして地理学者、そして何よりも野心あふれる冒険家であったフンボルトは、地球の全体性を思索の対象とした画期的な著述家であった。ルソーの主人公サン゠プルーが海の向こうの忌まわしい新世界から、スイスの静謐な庭に引き返したのに対して、フンボルトはむしろヨーロッパ人の知らない南米への冒険を敢行し、その驚くべき世界のありさまを詳しく報告した。フンボルトは名文家とは言えなかったが、本人もお気に入りの『自然の諸相』(一八〇八年)はベストセラーとなり、その後の科学者や文学者に多大な影響を与えた。彼の一連の著作は、まさに環境文学のビッグバンと呼ぶにふさわしい。

シニカルなゲーテですら、この猛烈な知識欲を備えた二〇歳下の若者のとりことなり、その来訪を心待ちにしていた。彼はフンボルトから献呈された『アンデス山脈の景観と先住民の遺跡』に熱中し、新世界の未知の景観にすっかり魅了された。興味深いことに、ゲーテのファウストは、当初からフンボルトとの類似性が指摘されていた。フンボルトの優れた評伝を書いたアンドレア・ウルフが指摘するように「ファウストもフンボルトも猛烈な活動と探究が知識につながると信じ、どちらも自然に強靭さと一体性を見ていた」[26]。

フンボルトは同時代人にとって驚異の的であったが、それは何よりも、彼のファウスト的な冒険が文字通り「グローバル」な地平に及んでいたためである。もともと、ジェイムズ・クック船長の同行者に触発され、著名な探検家ブーガンヴィル――ディドロの『ブーガンヴィル航海記補遺』の着想の源泉でもある――を訪問したこともあったフンボルトは、一八世紀の初期グローバリゼーションの遺産の継承者でもあった。のみならず、彼の活動は非ヨーロッパ的な異文化との出会いというディドロのプロト人類学的なテーマを超えて、物質としての地球の発見を伴っていた。

一七九九年にスペインからベネズエラに渡った際には、フンボルトはその眩暈をもたらすような魔術的な自然に熱中しながら、博物学的な調査にいそしんだ。なかでも、彼を強く触発したのは火山である。彼は一八〇二年には六千メートル級のチンボラソ山の初登頂に成功し、その後もエクアドルの火山を踏破した。この一連の探検は地球物理学の基礎となり、フンボルトの数多い知的貢献のなかでも突出した事例となった。彼にとって、火山は人間の諸文化をはるかに凌駕して、自然そのもの、ひいては地球そのものの力を顕現させる崇高にして驚異的な場なのである。

フンボルトの前例のない冒険は、ヨーロッパのエコ言語にも質的な変化をもたらした。メアリー・ルイーズ・プラットの指摘によれば、従来のヨーロッパの旅行記では自己中心的で情緒的な書き方が主流であったのに対して、フンボルトはむしろそのような個人のナルシシズムを取り去り、旅行記を科学的な客観性と融合させた。強靭な「惑星意識」(planetary consciousness)を備えたフンボルトの文体は、精神を人間の尺度をはるかに超えて、惑星のスケールにまで拡大した[27]。非人称的な科学のスタイルが、この意識の拡大を支えたのである。

この新しい「惑星意識」は、ゲーテのような先行する学者の想像力を逸脱するものであった。一七八七年にイタリアのナポリを訪れたゲーテは「ナポリは楽園だ。人はみな、われを忘れた陶酔状態で暮している。私もやはり同様で、ほとんど自分というものが解らない。全く違った人間になったような気がする」とあけすけに記し、動揺を隠さなかった。ゲーテをこの錯乱の危機から救ったのは、ナポリ近辺のヴェズヴィオ山の偉容であった。彼はこの火山に三度も登り、そのつど測量をおこなった。ルソーのみじめで孤独な人生を反面教師としながら、狂気じみた世界に秩序を与えようとしたゲーテにとって、エネルギーに満ちた火山を科学的に観察することは、精神を治癒する手段になったのである[28]。

逆に、南米で苛酷な冒険を経てきたフンボルトにとって、ヨーロッパの自然は地球のほんの一部にすぎなかった。彼はたまたまイタリア滞在中にヴェズヴィオ山の噴火を目撃したが、その迫力は南米の火山とは比べ物にならないと感じられた。地球そのものと接触し続けてきた冒険家フンボルトからすれば、ナポリ程度で自分を見失ってしまうゲーテはヤワな文人ということになるだろう――むろん、フンボルトが偉大な先人ゲーテから多大な知的影響を受けたことは確かだとしても。

してみると、フンボルトの惑星意識が、一九世紀の先進的な自然科学者たちを鼓舞したことも不思議ではない。若きダーウィンはフンボルトの著作に魅了され、ビーグル号でもずっと手放さなかった。ダーウィンの進化論に影響を与えた地質学者チャールズ・ライエルも、フンボルトの研究を継いで、地球を形成する「深い時間」(後述)を見出した。フンボルトはまさに「地球というウェブ」(アンドレア・ウルフ)に基づく思考を、自然科学の基盤に据えつけたのである。


 

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