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京アニはキャラクターをどう動かしているか(前編)|石岡良治

2023/10/03 07:00 投稿

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本日のメルマガは、批評家・石岡良治さんの論考をお届けします。 フォトリアルな背景、キャラクターの「しぐさ」の精緻な描写が従来のアニメ表現の水準を刷新した「京都アニメ」の達成について、『AIR』『涼宮ハルヒの憂鬱』といったゼロ年代の初期ヒット作から振り返ります。(初出:石岡良治『現代アニメ「超」講義』(PLANETS、2019))

今世紀アニメを象徴するスタジオ=京都アニメーション

京都アニメーション(京アニ)を、「境界の両岸」という観点から語りたいと思います。京アニは『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』『けいおん!』などのヒット作をゼロ年代に連発したアニメーション制作会社です。アニメをスタジオ単位で観ることが一般化した深夜アニメのファンコミュニティにおいて、「京アニ派」や「シャフト派」などが熱心に語られていましたが、私自身はあえて言うならシャフト派でした。しかし、ここ十数年は京アニ派が圧倒的多数を占めていた感触があります。
まず最初に上げておきたいポイントとしては、アニメーターの木上益治が、京アニの作画クオリティの基礎を築いている点でしょう。木上益治はとりわけアクション作画で有名になったアニメーターですが、京アニの高い作画水準への到達を導いた人として重要な人物です。『CLANNAD』のヒトデヒロイン風子の「風子参上」場面の作画などが有名です。アニメーター教育に用いられている『京都アニメーション版 作画の手引き』という教本があるのですが、作画の基本を解説した簡素な記述のなかで、動作に伴う微細な身体運動に注意を払う指示が掲載されており、繊細な身振り描写からアクションに至る様々な運動に対応可能な木上イズムが、京アニ出身のアニメーターすべてに行き渡っている所以を垣間見ることができると思います。
また、新海誠に由来する、アニメにおける取材に基づく背景の細密表現やレンズフレアなどの撮影効果を取り入れたフォトリアルな表現の「コモディティ化」をいち早く確立した点も京アニの功績でしょう。コモディティ化という言い回しはややどぎついかもしれませんが、たとえばアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』がリアルタイムで評判になった一因として、必ずしも名所とは言えない現実の風景が舞台になっていることが、明確にわかるぐらい写実的な背景描写があったことは間違いありません。新海誠は『ほしのこえ』(2002)以来、デジカメで撮った写真をもとに背景画を起こす方法を一貫して用いてきました。新海誠作品は『君の名は。』以前は人物表現が弱く、むしろ背景のほうが感情表現の媒体となるレベルで作り込まれていたわけですが、京アニ作品の背景は、テレビアニメということもあり、そこまでの執拗な描き込みはみられないものの、それ以前のアニメとは一線を画す厳密さで描かれており、そこに木上イズムに貫かれた人物描写が加わっていたわけです。今ではアニメの背景から取材箇所を特定することは当たり前のように行われていますが、京アニ作品がこうした手法の普及に果たした役割は大きなものがあります。
なぜなら、こうした背景の作画方法が、アニメの外側にもひとつのイノベーションをもたらしたからです。キャラクターと実在の背景がアニメ上で組み合わさることで、視聴者たちの「この背景のモデルとなっている場所に行きたい」という欲望を生み出し、一連の「アニメ聖地巡礼」ブームが巻き起こりました。もともと映画やテレビドラマの舞台が「聖地」となる現象はみられましたが、実写とは異なるところに強みがあるとみられたアニメが、現在ではフォトリアルな背景がもたらす「コンテンツツーリズム」の中心媒体として一般化されるようになる過程で、京アニ作品がもたらした影響は多大です。埼玉県の鷲宮神社の参拝客が、アニメ『らき☆すた』の効果で増加し、アニメ終了後10年以上経ってもなおアニメ聖地巡礼の舞台となっている事例は象徴的です。
京アニの特徴としては、元請の初期に樋上いたるのキャラクターヴィジュアルが印象的なKeyのノベルゲーム原作を数多く手がけた点も挙げられます。その代表作として『CLANNAD』を取り上げます。Key作品は『AIR』(2005)、『Kanon』(2006~2007)、『CLANNAD』(2007~2009)の順番にアニメ化されています。しかし、このなかで現代の京アニに通じた部分が多いのは『CLANNAD』だと考えています。『CLANNAD』は相当な話数をアニメ化していて、ここで得たメソッドが未だに京アニの「貯金」になっているのではないでしょうか。
京アニの元請初期にはスポークスマンとしての山本寛が目立っていました。『ハルヒ』や『らき☆すた』などのキレの良い演出と様々な発言で知られ、「ヤマカン」の愛称でも有名です。しかし彼の京アニ退社以後、作品・作家性を主張しないスタジオというイメージが広まります。今では『けいおん!』や『聲の形』などで知られる山田尚子が、京アニで作家性を明確に備えた監督といえますが、それでもやはり、個々のスタッフよりもスタジオの存在感のほうが目立つように思われます。
スタジオの統一感が際立つ京アニには、「累積性」が強いというアドバンテージがあります。アニメーターは一般に、様々な絵柄を書き分けられるほうが優れていると言われていますが、スタジオとしての京アニでは、とりわけゼロ年代の頃は、「前の作品」の絵柄が次の作品へダイレクトに影響するサイクルが続いていました。『涼宮ハルヒの憂鬱』の絵柄が『Kanon』に影響を与え、『Kanon』は『らき☆すた』に影響を与え、『らき☆すた』は『CLANNAD』に影響を与えるという具合です。
京アニ作品は、ルックの「累積性」を持ったスタジオであるという印象を持ちます。そうしたルックの累積性は、キャラクターデザインにとどまらず、画面設計から仕上がりに至る工程が生み出した統一感なのでしょう。これはちょうど、実際には絵柄に一定の多様性があるジブリアニメが、漠然と「宮崎駿っぽい絵柄」と受け止められている事情と近いのではないでしょうか。『現代アニメ「超」講義』で触れたシャフトアニメが「シャフ度」のような特徴的演出で知られるのとは別の仕方で、「京アニ作品」としての統一感が生まれているわけです。たとえば京アニ出身の堀口悠紀子が別名義である「白身魚」でキャラクターデザインしている『ココロコネクト』(2012)は、シルバーリンクによってアニメ化されており、絵柄は一見すると京アニ作品のようですが、作画も作劇も全くの別物になっているので、かえって京アニの際立った個性が明確になったのではないかと考えています。

「エブリデイ・マジック」と川のシンボリズム

私は「エブリデイ・マジック」が京アニ作品の重要な特徴だと考えています。「エブリデイ・マジック」とは、ファンタジー小説でよく言われる「日常に魔法が入ってくる」作風のことを指します。また京都の地形的特徴である「川」へのこだわりも、もうひとつの大事な特徴といえるでしょう。「エブリデイ・マジック」と川のシンボリズムの組み合わせによって、日常性と「超越」についての独特の展開が生まれているわけです。
アニメにおける「超越」というのは難しいテーマですが、京アニについては語らなければいけないと考えています。京アニの花を植えるCM(自社CM「花編」)を観てもらえばわかると思いますが、京アニのCMからは微妙な底知れなさを感じる人も少なくないのではないでしょうか。それは、真顔で健康的な雰囲気が強調されすぎている過剰さが一因だと考えています。京アニ作品における「超越」とは、なにも世界終末を暗示するカタストロフ表現や、いわゆるノベルゲームの「青空」が示唆する無限遠点への憧憬だけではなく、日常を描きつつもそこから半歩踏み出してしまっているような「気配」を指すのかもしれません。
木上益治監督作『MUNTO』(テレビ版タイトル『空を見上げる少女の瞳に映る世界』)における、不良の和也が病弱の涼芽を背負って河川敷を歩いて渡りきるシーンにも同様の「超越」の気配があります。『MUNTO』はある意味問題作でもあり、京アニ作品ではヒットしなかったアニメのひとつですが、重要なモチーフを含んでいます。ここで考察したい「川渡り」のシーンは、OVAとテレビ版(第3話「立ち向かうこと」)の両方で登場します。このシーンにこそ京アニの本領が現れていると私は考えています。このシーンでは、それまで交際を反対されていたかのようである2人が川を渡りきった瞬間、周りのみんなが拍手し2人を祝福します。このあたりはあたかも『新世紀エヴァンゲリオン』テレビ版最終話の「おめでとう」シーンにも似た、「承認の場面」と言えるのかもしれません。
このシーンには、「なぜ祝福?」という唐突感ゆえにやや不気味なところもありますが、京アニの持っている「超越」への意志のエッセンスがあると考えています。実際、このシーンを単に気持ち悪い場面で終わらせないところが京アニの力技の真骨頂で、今でもこのモチーフはいろいろな作品の中に生きていると考えています。たとえば『響け!ユーフォニアム』(2015~)の宇治川でのシーンは、このエッセンスが活かされているシーンと言えるでしょう。京アニは「エブリデイ・マジック」と「超越」をテーマとして作品に織り込もうとしています。
花を植える自社CMが奇妙に見える理由は、おそらく自然の描写にあります。自然描写と「健全な青春」の混ざり方によって、独特の「人間化した自然」となっているのでしょう。同様に『氷菓』(2012)の文字演出なども、シャフト作品と比べると牧歌的というかややもっさりした印象を受けるのですが、ここには「青春」というテーマに正面切って取り組み、すべての力を注いでいるようなところがあるからなのだろうと考えています。フェチ表現や露悪性を売りにする作品が多い深夜アニメという媒体において、そうした表現を得意とするにもかかわらず、同時にどこかしら健全な「青春」というテーマを全力で主張する一種の不器用さ、京アニのスタジオとしての個性や表現したいものの多くは、こうしたところに由来すると考えています。
花を植える自社CM、『MUNTO』の川渡りシーンに見られる底の抜けたような本質を、ただのカルト的演出(あるいは「ネタ」)であるとみてはいけないと私は思います。このような意味合いの底が抜けたシーンには、ある種のナンセンス性を感じます。しかし、きちんとやりきらないとただの寒いシーンになってしまうでしょう。京アニはそうした表現を全力できちんとやり遂げるからこそ、独自の表現にまで達しているのでしょう。
ノベルゲーム会社Key原作の京アニ作品は、『AIR』『Kanon』『CLANNAD』の三つがあります。京アニのKey原作作品のポイントは、「しぐさ」と「小芝居」で底なし感覚を埋めているところにあります。『CLANNAD』の「風子参上」シーンで魔法少女のように現れる風子は、本体が病床に臥していながら生霊が歩き回っている状態です。要するに風子が生霊として現れて参上する「小芝居」によって、底知れなさを埋めているんですね。「エブリデイ・マジック」の奇跡を説得的に示す上で、独特の存在感をみせる風子という脇役キャラに、魔法少女のような演出を施したことは、極めて効果的だったといえるでしょう。
しかし、「しぐさ」は演出にとってつねに効果的であるとは限りません。たとえばアニメ『Kanon』では、キャラクターの動作をくねくねさせすぎたようにも思われます。ところが、キャラクターが「しぐさ」を止めると途端にある種の空虚さが生じます。たとえばKeyの麻枝准作品でも、他社制作の『Angel Beats!』『リトルバスターズ!』(2012、2013)のような「ギャグの小芝居」と京アニ制作の『CLANNAD』では、主として「しぐさ」の充実によって、質の違いが生じているように思います。これは麻枝准の作風と、京アニが元来持っていたイニシエーション的表現への志向性がうまく融合した描写だと考えています。京アニは執拗といえるほど一貫して「青春」というテーマに取り組むスタジオなので、制作側が意図的に「しぐさ」と「小芝居」を加えている面もあると考えています。

『AIR』『MUNTO』『中二病』の“彼岸と此岸”

この問題を『AIR』に遡ってみていきましょう。

 

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