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現代のコンピューター科学発展の礎を築いた20世紀のアメリカ哲学。その土壌となった「オーストリア的」な知がどのようにアメリカで花開いていったのかを追う本書の第2部、冒頭の第7章を無料公開します。
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『知られざるコンピューターの思想史』第7章 アメリカにとって大学とは何か〜アメリカにおける大学観の変遷|小山虎
コンピューターの歴史にその名を刻むENIACが開発されたのはペンシルベニア大学である。現在の視点からすると、大学がコンピューターを開発することに何の奇妙さも見出されないだろう。じっさい、Google、Apple、MicrosoftといったIT界の巨人たちはみな、その誕生の物語が大学と結びついている。
しかし、改めて考えてみると、今となっては常識にしか見えないことのうちに隠れているミステリーが浮かび上がってくる。例えば、試しに考えてみて欲しい。ENIACが高校で開発されるなどということは、ちょっと想像できないのではないだろうか。もちろん、小規模のものなら高校でも可能だったかもしれないが、周知の通り、ENIACは巨大であり(設置には167平方メートルのスペースが必要だったという)、開発のためのスペースを確保することすら容易ではない。しかし、なぜ高校では不可能なものが大学では可能になるのだろうか。もし大学が高校卒業後に学ぶ次の学校に過ぎないのなら、高校と同じような困難があるはずである。問題はスペースだけではない。開発のための予算はどこから入手するのか。誰が何のために開発するのか。大学では中学や高校とは違って、こうしたことは問題にならない。その理由はなぜかというと、大学は教育だけではなく、研究も行う機関だからだ。
くどくど述べたが、大学では教育とともに研究もなされていることは、大学院に進学した人や理系の研究室に所属したことのある人には、改めて述べるようなことではないだろう。だが、ここで立ち止まらず、さらに考えて欲しい。どうして大学では、高校までと異なり、研究も行われているのだろうか。そもそもどうして学校で研究もする必要があるのだろうか。
コンピューター誕生の背景には、今となっては当たり前の、「研究機関としての大学」の存在がある。だがそれは、大学という制度が誕生した当初からのものではなかった。コンピューター、そしてコンピューター・サイエンスという学問は、アメリカに「研究機関としての大学」が根づいたことによって初めて誕生したものだ。本章ではこのことに焦点を当ててみたい*1。
1 大学の歴史〜世界最古の大学からアメリカ最古の大学まで
大学の歴史は古い。世界最古の大学と言われているのはイタリアのボローニャ大学であり、11世紀に設立されたとされている(正確な年月は残されていない)。ボローニャに続くのはパリ大学、そしてオックスフォード大学であり、13世紀までにはヨーロッパの各地で大学が設立されたことがわかっている。ただし、ややこしいことに、設立当時の段階では、これらは大学とは言えない。まだ大学制度が確立されていなかったからだ。
じつのところ、設立された時点では、ボローニャ大学もパリ大学も当時世界各地にあった学校の一つに過ぎず、世界最古と呼べる要素は何ひとつない。日本では、奈良時代(8世紀)の時点で「大学寮」と呼ばれる学校があり、大学寮で教える役職として「博士」が設置されている。その意味では、日本の「大学」の方がヨーロッパよりよっぽど歴史が古いのである。
もちろん、その名称だけを理由に、日本にはヨーロッパよりも古くから大学があった、と言うのは無理が過ぎる。事態はたんに、明治期にヨーロッパから大学制度が輸入された時に、奈良時代に存在した由緒ある言葉を訳語として利用した、というだけである。そもそもヨーロッパでも、ボローニャ大学ができるよりもずっと前から同じような学校は存在した。ボローニャ大学は法学校として始まるが、もちろん最初の法学校ではない。ローマにはそのずっと前から法学校があった。では、どうしてボローニャ大学は最古の大学だとされるのだろうか?
13世紀に入ると、こうした各種学校のうち一定の基準を満たしたものに対して、ローマ教皇が「大学」として認可を与え始める(といっても、まだ「大学(university)」という名称は用いられていないのだが)。最初に認可されたのはフランスのトゥールーズ大学、次がモンペリエ大学。それ以前から名声を獲得していたボローニャ大学やパリ大学も負けじと認可を求め、無事認可される(奇妙なことに、オックスフォード大学は何度か認可を求めたにもかかわらず、結局一度も認可されることがなかった)。ローマ教皇による認可はその後、ヨーロッパ中に広まっていく。こうしてローマ教皇から認可を得た大学のうち、もっとも古くから存在していたことが確認されているのがボローニャ大学だ。ボローニャ大学が最古の大学とされるのは、このような理由からなのである*2。
ローマ教皇が認可していたということからもわかるように、初期の大学で重要な地位を占めていた学問は神学だった。13世紀ごろ、教会の神父やその上の司教になるためには神学をしっかり学ぶことが求められるようになり、そのための「品質保証」をしてくれる学校を定める必要が生まれていたのだ。その後もずっと、聖職者を育成することは大学の大きな役割として残り続ける。今の日本の大学でも神学部を持つものがあるぐらいだ。
現代の日本に生きる我々にはイメージしづらいが、建国当時のアメリカで一つの問題となったのは聖職者の育成だ。前章でも少し触れたが、アメリカ建国はピューリタンたちによって始められた。毎週日曜には教会の礼拝に参加するような敬虔なキリスト教徒である彼らの生活にとって、聖職者は不可欠である。そして上述のように、聖職者になるには大学で必要な課程を修了する必要があった。こうした理由により、当時のマサチューセッツ入植地政府は大学の設立を決定する。1636年のことだ。だが、大学のための土地は確保したものの、大学設立を進めるための予算が足りず、計画は頓挫する。
2年後、状況が変化する。ジョン・ハーバードという人物が、大学設立のためとして莫大な遺産を寄贈するのだ。その額は入植地政府の1年間の予算に相当するほどだったという。こうしてアメリカで最初の大学が設立される。それがハーバード大学である。ジョン・ハーバードはイギリス生まれであり、ケンブリッジ大学の卒業生だった。だからハーバード大学はケンブリッジ大学をモデルとして設立される。ハーバード大学が立地する土地の名前もまた、「ケンブリッジ」へと改称される。
2 「カレッジ」と「大学」の差〜植民地時代のアメリカの大学
ハーバード大学はケンブリッジ大学をモデルとしていたが、ケンブリッジ大学全体ではなく、その一部だった。少し細かい話になるが説明しておこう。大学制度は国ごとの違いが大きいため、日本の大学のイメージで捉えていると簡単に誤解してしまうからだ。
ケンブリッジ(およびオックスフォード)大学は、世界でも数少ないカレッジ制を採用した大学である。ざっくりいって、日本の大学が文学部や理学部などの学部によって構成されているのに対し、カレッジ制の大学は学部の代わりにカレッジによって構成されていると理解しておけばよいだろう。 学部とカレッジはある点ではよく似ている。例えば、日本の大学では学部ごとに歴史が異なる。例を挙げると、山口大学で最も古い経済学部の来歴は1905年設立の山口高等商業学校にまでさかのぼるが、最も新しい国際総合科学部が設立されたのは2015年である。一方カレッジ制の大学であるオックスフォード大学で最初にカレッジとして認められたのはマートン・カレッジであり(1274年)、最も新しいカレッジであるパークス・カレッジの設立は2019年である(ちなみに2020年6月に「ルーベン・カレッジ」に改名されたが、その時点でまだ一期生すら入学していない)。また、学費や予算、定員が学部ごとに異なるように、カレッジごとに学費や予算、定員もまちまちである*3。
このようにカレッジは学部と似ているが、最大の違いは、その名称からもわかるように、分野別ではないことである。
日本でも例外的によく似た分野の学部を複数持つ大学は存在する。例えば、大阪大学には工学部と基礎工学部という二つの工学系の学部がある。だが、学部の名称がその学部で学べる分野や内容を表しているのに対し、カレッジの名称は設立者の名前や、キリスト教の言葉(トリニティ(三位一体)など)であったりして、特に分野とは関係がない。そのため、日本の大学では、同じような名称の学部であればどの大学でも同じような分野を学ぶことができることが多い(といっても例外も少なくないのだが)。カレッジ制の場合、名称と分野は無関係であるため、同じ名称のカレッジであっても大学が異なればほとんど何の共通点もない。
ハーバード大学設立にあたり、モデルとなったのは、ケンブリッジ大学のエマニュエル・カレッジというカレッジだったという──真実かどうかは定かでないが、その理由は、ジョン・ハーバードがエマニュエル・カレッジ出身だったからと言われている*4。このように、設立当時のハーバード大学は、厳密な意味では「大学」ではなかった。当時の名称も、現在の「ハーバード大学(Harvard University)」ではなく、「ハーバード・カレッジ(Harvard College)」である。
このことには様々な事情があった。まず、ハーバードが設立された1636年当時、まだアメリカは独立していない。だから、大学を設立するには宗主国であるイギリスによって認可される必要があった。だが、当時のイギリスで大学を設置することは極めて困難だった。オックスフォードとケンブリッジが自分たちの権威を守るために抵抗していたからだ。じじつ、その頃のイギリスには大学が六つしかなかった。イングランドに二つ(オックスフォードとケンブリッジ)、スコットランドに四つだ。スコットランドの大学はいずれも15世紀以降に設立されたものだが、1583年に最後の一つ、エジンバラ大学が設立された後は、1830年代に紆余曲折の末、ロンドン大学が設立されるまで、なんと250年もの間、イギリスに大学が設立されることはなかったのである。当然、植民地であるアメリカに大学を設立するなど望むべくもなかっただろう。
また、当事者たちにも、オックスフォードやケンブリッジに肩を並べる大学を作るつもりもなかった。彼らが欲していたのは聖職者、そしてアメリカの発展に貢献する人材を育成する学校だった。それには、自分たちが学生時代を過ごした「カレッジ」があれば十分だったのである。
植民地時代、アメリカには全部で九つの大学が設立される。その中にはイエール(1701年設立)、プリンストン(1746年設立)、コロンビア(1754年設立)といった著名な大学に加え、ペンシルベニア大学(1755年設立)も含まれているが、いずれも「カレッジ」であり、聖職者育成が大きな役割だった。この頃のアメリカには、教育に加えて研究も行う「大学」は存在していなかったのである。すでに科学者ニュートンや哲学者カントが活躍していたイギリスやドイツと比べると、あまりにも遅れていた。
さて、こうした「カレッジ」はいつ頃「大学」になったのだろうか。じつは定かではない*5。ハーバードはアメリカ独立後まもなくの1780年ごろから「大学」という表現を用いるようになるが、正式に名称変更がなされるのはもっと後になってからである。最初に公式に「大学」が設立されるのは、1779年の「ペンシルベニア州立大学(University of the State of Pennsylvania)」だが、これは植民地時代に設立された「カレッジ・オブ・ペンシルベニア」とは別であり、1791年に両者が合併して「ペンシルベニア大学(University of Pennsylvania)」となる。とはいえ、これらは単なる名称の話であり、「大学」という名称が用いられることによって実態が変わるわけではなかった。
独立後のアメリカは当初の東部13州から西部へと領土を拡大していく。それに伴い、様々な学校──その中にはカレッジもあれば「大学」を名乗るものもあった──が乱立されるようになる。また、ハーバードやイエールなどの伝統校は、メディカル・スクールやロー・スクールといった専門職を育成する学校の併設や、専門科目を教える学科(department)の設置を進めていき、ヨーロッパの大学と引けを取らないほど複雑かつ巨大なものになっていく。だが、まだ十分ではなかった。何よりも、南北戦争前のアメリカではどの大学を卒業しても、大学で教えるのに十分な能力を得たとはみなされなかった。もちろん、ハーバードのような伝統校の卒業生であれば、歴史の浅い大学で教鞭を取るチャンスはあったし、運が良ければ母校に教授として戻ることも可能ではあった。だが、19世紀に入ってからは、大学で教鞭をとることを夢見る若者はみな、母校のカレッジを卒業した後は、ヨーロッパに留学し、博士号の取得を目指すようになっていた。そして19世紀の後半には、そのような若者が留学する国はおおよそ一つになっていた。ドイツである*6。
3 アメリカの大学のドイツ化、そこから生まれたアメリカ独自の「大学」観
第1章で触れたように、ナポレオン率いるフランスに大敗したプロイセンは、大学改革に着手する。そうしてできた大学の筆頭がベルリン大学であり、新しい制度のもとで大学は重工業化や経済発展に大きく貢献する。そして普墺戦争と普仏戦争に勝利したプロイセンを中心として、オーストリア抜きのドイツ帝国が成立したのであった(第4節)。より高度な学問を追い求めてプロイセン、あるいはドイツ帝国にやってきたアメリカ人の若者は、まさにこれを目の当たりにしたのだ。もちろん、彼らの中には不運にも博士号取得に失敗するものも少なからずいたが、帰国した彼らはドイツで鍛えられた学識を発揮し、特に南北戦争の後、大学に対して大きな影響力を及ぼすことになる。
ドイツ留学組の影響でアメリカの大学に取り入れられたものとして、教育手法がある。具体的には、実験室とゼミ(演習)だ。それ以前のアメリカの大学での教育手法の中心は講義だった。実験室を備えていた大学もあったが、それは高校の理科室のように、教科書に書かれてあることを確認するための施設であり、研究のためのものではなかった。それに対し、ドイツの大学では実験室が広まっており、学生は自分が実験した結果を論文にまとめて公表することで博士号を取得するのが一般的になっていた。理系科目に導入されたのが実験室なら、文系科目に導入されたのがゼミだ。学生は、指定された文献を精読し、内容をまとめて発表する。これを繰り返して成果を論文にまとめて公表することで博士号を取得するのである。いずれの場合も、少人数のグループで作業を繰り返し、話し合って進めていくのが特徴だ。
ドイツ式の大学教育は制度にも及んだ。博士号を取得できる課程と、それを提供する大学院の設置である。まず1861年にイエール大学が先鞭を切る。ベルリン大学で学んだ教授が熱心に推し進めたのだ。実際に博士号を取得した学生の数はごくわずかだったものの、1871年にはペンシルベニア大学、1872年にはハーバードも後に続く。当時のハーバードの学長はチャールズ・エリオットという人物であり、ハーバードの学長を40年も務めた伝説の学長である。1872年にハーバードに博士課程を担当する「大学院科(graduate department)」を設置したのは彼である(後に大学院科が独立し、大学院(graduate school)となる)。また、1879年に当時はまだ男性しか入学できなかったハーバード・カレッジに加えて、ラドクリフ・カレッジという女性しか入学できないカレッジを設置して、ハーバードを男女共学にするのも彼だ。そのほか、必修科目がほとんどだったカリキュラムが選択科目中心に改革されるのもエリオット学長時代である。選択科目の有無が日本での高校と大学の大きな違いであることを考えると、エリオット学長時代に、ハーバードは「大学」になったといってもいいかもしれない。
こうしたドイツ式大学教育の導入の極め付けが、1876年のジョンズ・ホプキンス大学の設立である。ジョンズ・ホプキンス大学は、当時「ボルチモアのゲッティンゲン」と呼ばれたほど、ドイツの大学を意識して作られた。最初の教授陣も半数以上がドイツの大学で博士号を取得しており、実験室やゼミも当然のように取り入れられていた。
それだけではない。ジョンズ・ホプキンスは、大学として専門ジャーナルを創刊する。最初は1878年創刊の『アメリカ数学ジャーナル(American Journal of Mathematics)』、続いて1880年創刊の『アメリカ文献学ジャーナル(American Journal of Philology)』。これらを担当していた出版部門は、1891年にアメリカで最初の大学出版局であるジョンズ・ホプキンス大学出版局(Johns Hopkins University Press)となる*7。さらに、ジョンズ・ホプキンス大学は、アメリカ歴史学会(American HistoricalAssociation)設立の場ともなった(1884年)。セントルイスのヘーゲル主義者たち(第7章第4節)、そしてポーランド・ルヴフ大学のトファルドフスキ(第5章第2節)が、ジャーナルの創刊と協会の設立でもって学派を作り出していったが、この頃からアメリカでは、大学がそれを積極的にバックアップするようになるのだ。
さらに特筆すべきは、ジョンズ・ホプキンス大学が大学院大学、すなわち大学院だけを持ち、学部を持たない大学として設置されたことだ。じつは、例の大学改革の結果、ドイツの大学から学士号はなくなっていた(現在は復活している)。ながらくドイツの大学に「卒業」はなく、博士号以外の学位を授与してこなかった。ジョンズ・ホプキンスはこの制度まで忠実に輸入したのである。
もっとも、大学院大学としてのジョンズ・ホプキンスは長続きせず、数年で学部を設置している。といっても、この「学部」とは日本のような文学部や理学部のことではない。ジョンズ・ホプキンスだけでなく、同時期に博士号授与を始めていたハーバードやイエールなども、ドイツの大学制度をそのまま持ち込んだのではなく、大きく変更した点もあった。その一つが「学部生(undergraduate student)」である。 今日に至るまで、アメリカの大学では、学生はまず「学部生」として入学する。ただし、日本のように大学院と独立の学部があるわけではないので、この「学部生」は「学部に所属する学生」という意味ではなく、「大学院生未満の学生(under-graduate student)」という意味で理解して欲しい。そして、4年間の学部生期間で所定の単位を取得して無事に卒業(graduate)した学生だけが、上位の学校である大学院(graduate school)の入試を受験でき、無事に入学すれば晴れて「大学院生(graduate student)」となる。これが現在の日本のシステムとまったく同じであることに気づいた方もおられるかもしれないが、このシステムはアメリカで発明されたものなのである。
日本では大学院と学部は別の組織である。アメリカでは大学によってまちまちだが、日本の大学の学部やカレッジ制大学のカレッジの代わりをしているのは「スクール」であることが多い。ロー・スクールやメディカル・スクールという表記を見たことがある人もいるだろうが、それ以外にも様々なスクールが存在し、そのほとんどが修士課程や博士課程のみを提供している。要するに、日本でいう大学院であり、入学するには学士号を取得(日本で言えば学部を卒業)している必要がある。学部生は、ジョンズ・ホプキンスでは「教養学部(school of arts and sciences)」もしくは「工学部(school of engineering)」というスクールに入学する。この二つのスクールは他のスクールと同様に修士課程や博士課程も提供しているため、学部と大学院を兼ねるという特殊なスクールである。
ハーバードでは事情が異なる。ハーバードの場合、学部生が入学するのはハーバード・カレッジである。そう、ハーバード・カレッジが名称変更してハーバード・大学になったのではなく、ハーバード・カレッジは現在も存在しているのだ。現在のハーバード・カレッジはハーバード大学の一部であり、学士課程のみを担当している(東京大学の教養部は似たような特徴を持っている)。
気づかれた方もいるかもしれないが、アメリカの主要な大学は基本的に、イギリスのカレッジ制大学をモデルにした、もっぱら学部教育を担当する「カレッジ」の上に、ドイツの大学をモデルにした大学院が乗っかっているという構造をしている。ハーバード大学の現在の部門構成はまさに、その歴史的経緯を反映したものなのである。
これが意味するのは、アメリカでは学部と大学院に明確な役割分担があるということだ。「学部」の方は、かつてのハーバード・カレッジがそうであったように、イギリスの古き良きカレッジをモデルにしており、主に教養教育(リベラル・アーツ)を担当する。それに対し、「大学院」の方は、学生はもっぱら論文を書いて博士号を取得するドイツの大学をモデルにしており、主に研究を担当するのである。
ドイツの大学でも研究が重視されていたのは間違いないが、教育と分離したものではなかった。むしろ、研究することによって教育するのが大学だと考えられていた。ところがアメリカでは、ドイツ式の大学教育を持ち込もうとした結果、研究と教育はむしろ相反するものだという認識に至ったのだろう。そうでなければ、ドイツの大学を可能な限り模倣して作られたジョンズ・ホプキンス大学が、わざわざ学部生の制度を追加することなどなかったはずだ。
じっさい、現在のアメリカには、教養教育に特化した「リベラル・アーツ・カレッジ」が存在する。アメリカの「カレッジ」とは、あくまで教育の場なのである。アメリカの「大学」にもカレッジやそれに相当する部門はあるが、それに加えて研究を担当する大学院がなければならない。研究をしないのならば「カレッジ」であり、「大学」を名乗る資格はない。それがアメリカ人の感覚なのだろう。
さて、南北戦争後のアメリカでは、思想面で中心となっていたのはヘーゲル主義であり、ドイツ哲学の影響を強く受けた観念論だった(第6章)。ちょうどその頃、アメリカの大学はドイツ式の大学教育導入を熱心に進めていた。20世紀に入る頃には、思想面ではヘーゲル主義、観念論からアメリカ独自の思想であるプラグマティズムへの転換が始まった。ちょうどその頃、アメリカの大学では学部と大学院の役割分担が確立され、それに基づく大学観が広まっていく。いずれの場合でも、19世紀から20世紀への世紀転換期アメリカで起きたのは、プロイセンおよびドイツを理想とし、それを愚直なまでに学ぼうとする姿勢から、ドイツから学んだことを発展させたアメリカ独自のものへの転換である。これは偶然とは思われない。20世紀初頭のアメリカは、ドイツから多くを学んで発展させた国だったのだ。
アメリカのドイツ追従が終わるきっかけとなったのは、第一次世界大戦である。開戦当時のアメリカにはまだ、ドイツに留学して博士号を取得した学者も数多くいたのだが、敵国となったドイツについて語ることは、あっという間に難しくなっていく。また、当然のことながら、ドイツ留学も不可能になってしまい、ドイツからアメリカへという学問の流れも閉ざされる。こうして、それまでドイツ一辺倒だったアメリカの知的風土は大きく変わることになる。そこに現れたものこそ、「ドイツ的」な知の否定、すなわち、「オーストリア的」な知であった。
*1 アメリカで今日のような研究大学が成立した経緯については、Axtell (2016) およびSteven Muller. (2004). "German Influences on the Development of American Higher Education." in Jackson Jane (ed. ). A Spirit of Reason: Festscrift for Steven Muller, American Institute for Contemporary German Studies, 12-19. に 従う。*2 Axtell (2016), p.4 を見よ。*3 オックスフォード大学のカレッジの様子は、児玉聡「第1回 オックスフォードに行ったら大学がなかった話 」、『オックスフォード哲学者奇行』、Web あか し(https://webmedia.akashi.co.jp/posts/2363)で見られる。ちなみに、本書とは異なり、この連載では現地の発音に近い「コレッジ」表記が採用されている。*4 Axtell (2016), pp.109-114 によれば、特定のカレッジではなく、むしろケンブリッジ大学全体をモデルにしていると考える方が適切らしい。*5 なにしろ英語版Wikipedia に「First university in the United States 」という項目(https://en.wikipedia.org/wiki/First_university_in_the_United_States)があ るぐらい、どの大学が「アメリカで最初」なのかは解釈によって変わる。*6 Axtell (2016), Ch.5. を見よ。*7 以上は、ジョンズ・ホプキンス大学出版局公式ウェブサイト内の歴史のページ(https://www.press.jhu.edu/history)に基づく。
[続く]
▼プロフィール
小山 虎(こやま・とら)
山口大学時間学研究所准教授. 大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。 専門は分析哲学、形而上学、応用哲学、ロボット哲学。論文に“Against Lewisian Modal Realism from a Metaontological Point of View”, Philosophia, Vol.45, No.3, pp.1207-1225, 2017, “Ethical Issues for Social Robots and the Trust-based Approach”, Proceedings of the 2016 IEEE International Workshop on Advanced Robotics and Its Social Impacts, 2016 など。編著に『信頼を考える:リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房, 2018年)、訳書にデイヴィッド・ルイス『世界の複数性について』(共訳, 名古屋大学出版会, 2016年)などがある。
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