本日のメルマガは、PLANETS編集長・宇野常寛の新著『水曜日は働かない』(ホーム社)から一部を特別無料公開してお届けします。
第7話で綴られたのは「食」についてのとあるエピソード。宇野常寛が「食べる」ことに徹底的に執着するのはなぜなのか、高校時代の「思い出」と共にその秘密が明かされます。
食べるチャンスは逃さない(「水曜日は働かない」第7話)|宇野常寛
突然だが、僕は「食べる」ことが好きだ。T氏とは毎週水曜日にランニングの後に昼食を摂ることにしているのだけれど、昼間から飲酒できればどこでもよいというT氏とは異なり、僕はいつもギリギリまで、何を食べるか検討する。なぜならば僕は一食、一食をとても大切にしているからだ。「宇野さんは、本当に食べることに執着しますよね」と若干の批難を込めて、T氏はいつも僕に言う。彼はたぶん僕のことを年甲斐もなく意地汚い人間だと思っているのだろう。しかし、僕にも言い分がある。人は、運命から自由ではない。僕がここまで、一食一食に拘泥するのには、それなりの理由があるのだ。
そもそも僕は子供のころはあまり食べることが好きじゃなかった。食べることが嫌いな人なんているのかなと思う人もいるかもしれない。しかし僕は小学生のころまで食が細く、その上好き嫌いが多かった。その結果どうなるかというと、たとえば給食の時間が地獄になった。僕は小学校の1年生から4年生までを長崎県の大村市で過ごした。そして当時(1980年代半ば)の田舎の小学校では、給食を「たくさん食べること」がよいことだとされており、そして好き嫌いは絶対に許されないことだった。給食を残すなんていう「もったいないこと」はまるで犯罪行為のように怒られた。農家の人が一生懸命育てたお米や野菜を食べずに残すなんて、申し訳ないと思わないのかと教師たちは僕に詰め寄った。それなら、最初から配膳する量を減らして欲しいと思ったのだけれど、「たくさん食べる」ことが「よいこと」だと無条件に思い込んでいた教師たちは、決められた量より少ない量を配膳することにも同意してくれなかった。その結果として、食べるのが遅い上に、好き嫌いが多い僕は、給食を全部食べきることができずにいつも昼休みや放課後まで事実上監禁され、完食を強要されることが多かった。昼休みを過ぎて、5時間目を過ぎて、放課後までそのままの状態で放置されたこともあった。現代の感覚で言うなら、児童虐待に近い何かだと思うのだけど、当時の日本の田舎町はほとんど迷信のような思い込みが幅を利かせている世界であり、僕の味方になってくれる大人は一人もいなかった。1980年代は戦中戦後の食糧不足を経験した世代がまだ現役で、そうした経験が作用していたのかもしれない。(しかし僕の食生活にとって最大の危機はこの何年か後に、世紀末のある街で訪れることになる。)
そんな僕が「食べる」ことが好きになったのは──今となっては、その日に許されるカロリー摂取の限界まで、好きなものをどう食べるかに全力を尽くしているくらいに「食べる」ことに執着する人間になったのは──高校の寮に入ったことがきっかけだった。
僕は函館にある、ある小さなミッションスクールの寮に入っていたのだけれど、この寮のごはんが壊滅的にマズかった。ほんとうに、現代日本でここまでのものがあるのかというくらいの味だった。一応、その寮には契約している栄養士がいて、その栄養士の指導で食べ盛りの男子高校生が必要な栄養をバランス良く摂れるように計算されているはずだった。しかし、その計算は事実上意味のないものだった。たしかに、その栄養士の指導のおかげで、一食につき4品くらいはおかずが出てきた。だが問題はその4品のおかずのうち、人間が口に入れても苦痛なく咀嚼できるものは1品あるかないか、だということだった。僕たち寮生は、その1品を少しずつ口に運んで、できるかぎりたくさんおかわり自由の白米を胃に詰め込むことで、無理やりお腹をいっぱいにしていた。魚の小さな切り身一つで、どんぶり山盛りのごはんを胃に詰め込むこと。それが、あの寮で生き延びるための唯一の方法だった。
その結果、あの寮では毎食大量の残飯が発生していた。ほとんどの寮生が、4品あるおかずのうち1品しか食べないのだから、どうしてもそうなってしまう。当時のあの寮では、人間の背丈くらいある大きなポリバケツ数杯分の残飯が1日三回、発生していた。僕の母校は海外の有名な修道院の運営するミッションスクールで、毎年クリスマスには恵まれない人のために寄付を募ったりしていたはずなのだけど、毎食、おそらくはトン単位の残飯を出していた(寮に住み着いた猫たちはその残飯を無限に漁っていたため、自力歩行が不可能なほどまるまると太っていた)。校長先生をはじめとするローマの本部から派遣されたブラザー(神父)たちは、建前的には寮の食堂で僕たちと一緒にごはんを食べることになっていたのだけど、ほとんど彼らを夕食時に見かけることはなかった(後に、近所のとんかつ屋の常連であることが判明した)。
寮には1日1000円以上の食費が徴収されていたので、当時の物価を考えると決して安くはなかったのだけど、なぜか僕たちの食生活は信じられないくらい劣悪だった。
しかしそれでも、まだ4品中1品食べられるものがあるときは幸福だった。
いまだに忘れられないのだけれど、当時あの寮では「ゴム肉」と呼ばれていた、一応豚肉であると主張されていた謎の肉片がよく出てきた。これはあの寮で出てくるすべての料理に当てはまることなのだけど、基本的に冷え切っていて、パサパサと乾いていた。噛むと固くてなかなか噛み切れず、その通称の通り輪ゴムのような臭いがした。そしてほとんど、味がしなかった。肉自体に味がないのをごまかすように、無造作かつ大量にケチャップとパイナップルのソースがベチャッとかかった「ポークソテーハワイアン」がそのゴム肉を使った定番メニューだった。このメニューのときは、ゴム肉とケチャップの臭気が入り混じり、食堂に近づくだけで軽い吐き気がした。
ほかにも、骨ばかりでほとんど身がない正体不明の魚フライ(謎のフレンチソースがかかっていて、それがまた一口食べただけで失神するくらいまずい)とか、公衆トイレの臭いのするこれまた正体不明の貝がたくさん入った海鮮トマトスパゲッティとか、ほんとうに摂取不可能なメニューがいくつかあり、そんなとき僕らはなけなしの小遣いをはたいて、近所のダイエーでふりかけや生卵を、あるいは惣菜コーナーでコロッケやメンチカツを買ってきて飢えをしのいだ。僕はよく、食パンにマヨネーズをかけたものを寮のトースターで焼いて食べていた。
普段、こんな食生活だったので、寮のクリスマス会でモスバーガーとハーゲンダッツのアイスクリームが出たときは、この世でこんなにおいしいものがあるのかと涙が出てきた。
夏休みや正月に実家に帰省して母親の手料理を食べると、寮の食事とのあまりの違いに、生まれてはじめて母の炊事に心から感謝した。そして、1日三回、夢中で貪り食った。僕に限らず、おそらくほとんどの寮生は入学後数ヶ月の寮生活でげっそりと痩せていた。そして1年生の最初の夏休みの帰省時に保護者たちは子供の健康上の危機感を覚え、ひたすら食べさせるという行為に出ることが多かった。その結果として在校中の3年間、ほとんどの寮生は学期中に痩せて、休暇の帰省中に太るということを反復していた。
食べ盛りの男子高校生が3年間、このような食生活環境下に置かれた結果、何が起きたか──。まず、好き嫌いがほとんどなくなった。たとえばそれまで、僕は生野菜に苦手なものが多かった(トマトも、大根も嫌いだった)が、この寮において生野菜サラダはその存在が貴重であるだけではなく(冬場にはほぼ出なかった)、サラダというあまり手がかかっていない料理は誰が調理しても最低レベルの味が保証されており、これを食べないという選択肢は生存戦略的に存在しなかった。こうして僕は、生まれてから15年間悩まされ続けてきた偏食を、この3年間でほぼ克服した。僕は悟った。世界にはまずい食材なんてない。まずい料理があるだけなのだ。
そして、ほんとうに、ほんとうに意地汚くなったと思う。好きなものを、好きなように食べられることがどれほど人間にとって幸福なことか、それを僕はこの3年間で思い知った。そして寮から「娑婆に出た」僕は「食べる」ことそのものに執着する人間になっていた。夜寝る前は、必ず明日は何を食べようかと楽しみに考えるし、死ぬまでの間に一食たりとて無駄にしたくない。だから僕は絶対にT氏との朝活後の昼食選びを妥協しない。とにかく早く体内にアルコールを入れたくてソワソワするT氏の視線を鋼の意志で無視して、僕は今日も昼食の店を納得のいくまで妥協することなく探し続けるのだ。
[了]
▼プロフィール
宇野常寛(うの・つねひろ)
1978年生まれ。評論家として活動する傍ら、文化批評誌『PLANETS』を発行。主な著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)ほか多数。
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