ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第22回「草野球サークル、日露戦争中にアメリカへ行く――安部磯雄と早稲田野球部「チアフル倶楽部」の始動」(後編)をお届けします。
早慶戦をはじめとして、今なお伝統を引き継ぎ続ける早稲田大学野球部。初の早慶戦と、日露戦争時のアメリカ遠征が「娯楽スポーツ」に果たした文化史的意義について考察します。
(前編はこちら)
中野慧 文化系のための野球入門
第22回 草野球サークル、日露戦争中にアメリカへ行く――安部磯雄と早稲田野球部「チアフル倶楽部」の始動(後編)
草野球サークル「チアフル倶楽部」の始動
安部が尽力したいと考えた「スポーツを通じた国際交流、相互理解」はしかし、すぐに実行できるものではなかった。留学を終えて帰国し、1899年に東京専門学校(1902年に早稲田大学に改称)に講師としての職を得た安部は、留学中にテニスに熱中していた経験を買われ、1901年に運動部長を兼務することになった。
東京専門学校ではこれより以前に押川春浪によって野球チームが創られていたものの、その後は事実上消滅していた。しかし1901年に安部が運動部長になった当時、学生たちのなかで中学時代に野球経験のある者が比較的多かったという事情もあり、学生たちの間で自然発生的に野球チームが生まれていく。安部もそれを顧問のようなかたちでサポートをすることになった。
現代では「早稲田大学野球部」といえば学生野球界随一の名門であり、何か男らしさに圧倒されるような響きを持っている。しかし明治期には1880年代までに一高、慶應、学習院、明治学院などで野球部ができており、早稲田は創部当初は野球界では新興勢力で、決して上手な選手たちがいるチームではなかったという。が、草創期の早稲田野球部は「チアフル倶楽部」という、ややファンシーな名前であった。結成当初の早稲田野球部は近所の子どもたちにも馬鹿にされるほど弱いチームだったため「腕前はともかく元気だけはどこにも負けない」という意味が込められていた[1]。今とは違ってこのときの早稲田野球部は、牧歌的な草野球サークルのようなものであったと思われる。なお「元気」という言葉は、早稲田野球部に限らずこのあと生まれる天狗倶楽部にも共通したキーワードである。
草野球サークルは当然ながら活動場所が問題となる。チアフル倶楽部は、当初は早稲田のキャンパス内で練習したり、他校に出向いて試合を行ったりしていたが、やがて学生たちは「自前で広いグラウンドを持ちたい」と考えるようになった。そこで安部は大隈重信総長に掛け合って大隈の邸宅そばの田んぼを埋め立て中だった土地(大隈の所有地である)を融通してもらい、さらに部員たちと安部が一緒になって草むしり、整地などの肉体労働を行い、DIYで野球の試合ができるグラウンドへと整備していった。そこで安部自身も学生と寝食をともにし、ユニフォームを着て練習に打ち込んだ。このグラウンドはのちに戸塚球場と呼ばれるようになり、戦前期の学生野球の一大中心地となった[2]。
また、安部は部員の勧誘も熱心におこなった。なかでも、中学時代に名選手として鳴らしていた橋戸信(はしど・しん)を野球部に勧誘したのは後から見ると大きかったと思われる。橋戸は入学当初、知人の怖い先輩が野球部にいるのを恐れてテニス部に入部していたが、同じくテニスを嗜む安部が鎌倉で練習中の橋戸に出会って声をかけたのがきっかけとなり、野球部に入部した。さらにその後、中学で名選手として鳴らした押川清(おしかわ・きよし)、さらにピッチャーの河野安通志(こうの・あつし)も入部してきた。ちなみに押川清は、押川春浪の実弟である。
この時期に早稲田野球部に加入した橋戸、押川清、河野の3名はやがて天狗倶楽部のメンバーともなって、甲子園野球の前身「全国中等学校優勝野球大会」、日本初のプロ野球チーム「日本運動協会」、社会人野球の全国大会「都市対抗野球大会」の創設など、起業家精神に富んだ活動を次々と展開し、3人とも現在では野球殿堂入りしている。
「早慶戦開始」の文化史的意義
早稲田野球部が始動した1900年代初めは、まだ一高が野球界の覇権を握っていた時代だった。これまでも述べてきたように、日本の野球界には今も「一高的なるもの」を神聖視する向きが強い。ところが当時の一高野球部の実際の行状は、明らかにスポーツマンシップに反するものが多かった。「一高野球部は別に見習うべきものでも、伝統として重視すべきものでもない」ということが明確になるエピソードが幾つかあるので、ここで挙げておきたい。
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