ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第21回「桑田真澄の「野球道」に欠けているものは何か? 一高・東大的「ガリ勉のエートス」と「不良性」」(後編)をお届けします。
現代野球界の「スポーツマンシップ」の欠如を批判する桑田真澄が見落としている点を検証し、日本野球草創メンバーの「バンカラ」的性格から、新たな野球史観を確立するための論点を絞り出します。
前編はこちらから。
中野慧 文化系のための野球入門
第21回 桑田真澄の「野球道」に欠けているものは何か? 一高・東大的「ガリ勉のエートス」と「不良性」(後編)
「武士道をスポーツマンシップに入れ換える」ことの問題(承前)
桑田は元プロ野球選手であるがゆえに、「野球界」のみを視野に入れた議論を無意識に展開しているように見える。だが、特に2021年の東京五輪強行開催以降に強まった日本社会のスポーツへの風当たりの強さを念頭に置いたとき、社会のなかでスポーツがいかにあるべきかを根本的に捉え返すような議論が必要になるはずだ。スポーツへのネガティブな感情をどう受け止め、そこからいかに新たな野球観・スポーツ観を紡いでいくのか──社会的な総合性のなかにスポーツの営みを位置づけ直す試みが重要だと考えられる。
さらに桑田は、「野球道」という言葉から武士道のエートスを取り除き、代わりに「スポーツマンシップ」を中核に据えるべきだと主張している。だが、戦前日本の野球文化創生に関わった人々が「武士道」という言葉にこだわったのは、前近代=江戸以前と近代=明治以降の価値観を何とか繋ごうとするバトンリレーの意識があったからである。桑田の議論には武士道=時代遅れのものである、という単純な認識が見え隠れする。武士=階級的なもの、男性的なものであり、したがって前時代的だ、というふうに考えられているように思える。
桑田は自身の議論のなかで、飛田の野球道の要素の3つの柱のうち、「絶対服従」に代わって「リスペクト」という概念を尊重すべきだと述べている。
桑田 まずは指導者と選手が互いにリスペクトし合うこと。そして先輩は後輩を思いやり、後輩は先輩を敬う。審判に文句を言ったり野次を飛ばしたり、今はそれが当たり前ですが、審判や対戦相手もリスペクトしなければいけないと思います。(桑田真澄・平田竹男『新・野球を学問する』106ページ)
たしかにスポーツに参加する上で「リスペクト」の概念を理解し実践することは、今は疎かにされがちだが、非常に重要なものだ。スポーツの場は、選手以外のさまざまな「ささえる」人々の存在がなければ成立できない。また、相手チームへの非礼な野次は多くの野球の試合の現場で実際に行われていることだが、その行いは「試合は対戦相手がいなければできない」という基本的な認識を欠いている。スポーツの場を実現するという「当たり前でないこと」が実現されていることを「当たり前のこと」かのように認識してしまっている点は、当然改めなければならない。
しかし桑田の「武士道をスポーツマンシップに入れ換えるべきだ」という主張は、それこそ先人たちの苦闘に対するリスペクトの念を欠いてしまっている。単純に「武士道」という観念を切って捨てるのではなく、一見古く見えるものをよく観察し問い直すことで、未来に活かすという発想があってもいいはずだ。
また、もう一つ桑田が見落としている点がある。
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