編集者・ライターの小池真幸さんが、「界隈」や「業界」にとらわれず、領域を横断して活動する人びとを紹介する連載「横断者たち」。今回は、和の香りの専門店「麻布 香雅堂」代表取締役社長の山田悠介さんに話を伺いました。江戸寛政年間より200年以上続くお香一家に生まれながら、実は「お香そのもの、めっちゃ好き」ではないという山田さん。後編では、そんな山田さんが、現代のライフスタイルにフィットした「和の香り」のあり方を探求するようになった軌跡をたどります。
(前編はこちら)
小池真幸 横断者たち
第8回 お香の伝統と現代のくらしの「交差点」でありたい
実は「お香そのもの、めっちゃ好き」ではない
覚醒作用と鎮静作用を併せ持ち、日常と非日常のあいだを行き来させてくれる、和の香り。山田さんはその魅力を、さまざまな他業界とのコラボレーションや、サブスクリプションサービスなどを通じて、お香にこれまで馴染みのなかった都市部の現役世代にまで届けようとしている。どうすれば多忙な若い人にもお香を楽しんでもらえるのか、試行錯誤を重ねる日々だという。
「サブスクリプションサービス『OKO LIFE』の会員の方々に答えていただいたアンケートの結果を見ると、気分の切り替えのために使っていただいている人が多いようです。コロナ禍になってリモートワークやお家にいる時間が増え、仕事とプライベートの境目がよくわからなくなる。そんな中でコーヒーなどいろいろな気分転換を試した中で、お香がとてもしっくりきたと。ただ、その気分転換の中身がどんなものなのかは、今探っているところです。朝昼夜それぞれで意味合いが違うと思いますし、先程お話ししたような神聖さを求めているときもあれば、そうでないときもあると思うんです。そもそも、本当に疲れていたり忙しかったりすると、いくら手軽にパッケージングしているとはいえ、『お皿に乗せて、火を付けて、片付ける』というプロセスを経る余裕すらない。そうした人にどうやって癒やしや気分転換を提供できるのかは、今後の課題ですね」和の香りの魅力やその探求の軌跡について、ふんだんに語ってくれる山田さん。約200年続くお香一家に生まれ育ったという経歴もあわせると、彼に対して、“お香一筋”の人だというイメージを抱くのは自然だろう。しかし、意外にそうでもないらしい。誤解を恐れずに言えば、山田さんの中に明確な「やりたいこと」があるわけではないのだという。
「他業界・他業種の人とのコラボは、100%、向こうからお声がけいただいて始まります。僕はそっちのほうが断然得意で、『どんな人が』『どんな理由で』『どのくらいの量を求めている』という制限があるほうが頭が働きやすく、結果的にいいものが作れる。逆に、『●●万円予算があるので、とにかく好きな香りを作ってください!』と言われたら、困ってしまうでしょうね。お香の好き度合いって、人によっていろいろあると思います。めっちゃ好きな人もいれば、『そこまで興味ない』という人もいる。僕はもともと、その度合いは平均かむしろちょっと下で、そこまで興味がなかったんですよ。『絶対にこんな香りが作りたいんだ』と感情が溢れ、やりたいことが先行しているアーティスト気質ではなく、むしろ一歩引いて見ている。でも、『お香そのもの、めっちゃ好き』ではないからこそ、どんな人とでも、とにかく面白そうだったら先入観なく付き合ってみることができるのだと思います。僕が『一生ずっとお香一筋』だったら、『お酒や化粧品とのコラボなんて、香りに対して失礼だ』という考えになっているかもしれません」意外な返答ではあったが、「お香そのものに強いこだわりがないからこそ、掛け合わせを探求できる」というロジックにはたしかに納得感がある。一体、彼は「お香大好き」ではないにもかかわらず、どういった経緯で現在のような精力的な活動に至ったのだろうか?
「近いけど、遠い」存在だったお香
山田さんが香雅堂の仕事を本格的に手伝うようになったのは、25歳の時。大学生の頃、興味本位でアルバイトとして少し手伝ったことはあるものの、社会人になって仕事として携わるつもりは「その瞬間までなかった」。幼少期に香道を習ったこともなく、お香はすぐ側にありながらも、まったくもって近しい存在ではなかったという。
「私には兄もいるのですが、兄も私も、父母に『香りを聞け』『香木の見方を覚えておけ』『香道のお稽古をしろ』とは、一回も言われた記憶がなくて。この店舗の上の階が実家なので、お香は物理的には近いものではあったのですが、意識としては本当に遠いものでした。家で父が香木を整理していたときの香りなどが記憶に染み付いているので、反抗期のときの複雑な感情を含め、『お香イコール父』という印象はあったかもしれませんが。ただ、職業や生き方として意識したことは、まったくありませんでしたね」
そうして山田さんは、慶應義塾大学経済学部を卒業した後、お香とはまったく関係のないIT系企業に就職。働く中で教育領域への関心が強まり、会社自体は1年半で退職した。次の動き方を決めるまで、しばしモラトリアム状況に置かれることになったが、「そういえば、うちの店、このご時世なのにまだ伝票が手書きだったよな」と思い出したという。そうして、当面のつなぎとして、香雅堂を手伝い始めた。すると、結婚や東日本大震災など公私ともに目まぐるしい変化が起こる中で、気づけばフルタイムで働くようになっていたという。ファミリービジネスや家業といったキーワードから縁遠い筆者としては、「家業を継ぐ」というのは一大決心を伴うものだと想像していたので、山田さんの肩の力の抜け具合が、意外に思えた。
「『人生をお香に捧げるぞ!』と覚悟を決めたような瞬間も、多分なくて。性格的なところが大きいと思うのですが、これからもずっとない気がします。もちろん、今はお香も好きなことの一つではあります。知識や経験が少しずつ増えていく中で、その楽しさもどんどんわかってきましたし、知的好奇心も刺激されている。本能的に感じる、香りの良さにも純粋に惹かれますしね。ですから、これからもお香とは長く付き合っていきたいと思っています。ただ、あるタイミングで気合を入れて、『すべてを懸けるぞ!』みたいな気持ちにはなっていなくて。両親も未だにお店や香道に関わり続けていますし、細く長く、ゆるーく好きなことを続けていきたいんです。教育領域への興味も、今も変わらず続いているので、何か香雅堂の事業の中で位置付けができないかと考えていますしね」
30年で約10倍の価格に。立ちはだかる「香木バブル」
最初は「つなぎ」として、山田さんが香雅堂を手伝い始めたのが2011年。それから10年以上が経った。さまざまな壁を乗り越えてきたであろうことは想像に難くないが、その中でも特に大きかった出来事が、ここ10年ほどで一気に加速した「香木バブル」だという。
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