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明けましておめでとうございます。今年もPLANETSをよろしくお願いいたします。新年最初の配信は、分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第19回。
ついに最終回となる今回は、1984年に米ラトガース大学で開催されたアメリカ哲学の重要会議「デイヴィドソン会議」の背景をめぐり、そこに流れ着いたドイツやオーストリアの知のバトンがどのように受け継がれてきたのかを辿ります。なぜアメリカが今日のコンピューター技術の隆盛をもたらす地となったのか、1枚の写真から始まった道のりを振り返りながら、連載を締めくくります。

小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ
第19回 ウィーンからニュージャージーへ〜分析哲学へと向かうアメリカ哲学の道のり

1984年、アメリカ・ニュージャージー州

 一枚の写真がある。1984年4月にアメリカ・ニュージャージー州のラトガースという大学で開催された「デイヴィドソン会議(The Davidson Conference)」という哲学の会議での、参加者たちの記念撮影だ。
 この会議は当時の哲学の会議としてはかなりの規模のものであり、4日間にわたって開催され、参加者500名以上にもおよんだ。また、参加者の中には、ソ連など共産圏から参加した姿もあった──共産圏の国々は1984年7月、つまり、デイヴィドソン会議の3ヶ月後に開催されたロサンゼルス・オリンピックをボイコットしていることを思えば、なんとも奇妙な光景のように思える。
 会議名の「デイヴィドソン」とは、本連載第17回の最後で登場した哲学者ドナルド・デイヴィドソンのことだ。スタンフォード大学哲学科が1953年に実施したスタンフォード価値理論プロジェクトに、当時はまだ無名だったデイヴィドソンが参加していた。それから30年後、デイヴィドソンの名前は全米どころか海外にまで知られるようになり、彼の名が冠された会議にこれだけの人が集まるようになったのだ。
 この「デイヴィドソン会議」は、その規模もあいまって、分析哲学がアメリカ哲学の中心となったことの象徴とも言われている。本連載の締めくくりとして、デイヴィドソン会議の背景を、これまでの連載を踏まえて語りたいと思う。

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▲ラトガース大学に飾られているデイヴィドソン会議の参加者記念撮影(著者撮影)。詳しくは、ラトガース大学のウェブサイト参照

 19世紀のアメリカ哲学を支配していたのは、ドイツ移民たちがもたらしたヘーゲル主義の観念論あるいは理想主義──すなわち、アイデアリズム(idealism)だった。アメリカを代表する思想であるプラグマティズムもまた、出自はアイデアリズムにあり、それを根本から否定するものではなかったのだ(本連載第8回)。
 しかし、20世紀に入ると、それに真っ向から対立する哲学が台頭してくる。実在論あるいは現実主義──すなわち、リアリズム(realism)だ。そしてその背景にあったのは、アメリカの大学のドイツ化であり、それに伴う科学の急速な発展だ。もはや哲学ですら、科学という巨大な現実を無視することはできない。いや、むしろ積極的に取り込んでいかねばならない。プラグマティズムを代表する哲学者の一人ジョン・デューイは、かくして「科学的哲学」、すなわち哲学の科学化を訴えた。
 このようなリアリズム哲学の中心地となったのが、ニューヨークだった。もともとオランダ領だったニューヨークは宗教的にも寛容で、ユダヤ人も多く住んでいた。また、貧しい移民でも入学できるニューヨーク市立大学が設立されたこともあり、1930年代に入る頃には、ニューヨークはアメリカ科学哲学の中心地となっていたのだ。その中心となっていたのは、コーエンやネーゲル、フックといった、オーストリアや東欧からのユダヤ系移民だった(第11回)。
 しかし、こうしたリアリズム哲学がアメリカ全土に広まったというわけではなかった。ハーバード大学はプラグマティズムの牙城であり続けていたし、イェール大学やカリフォルニア大学バークレー校では、アメリカン・アイデアリズムの伝統が守り続けられていた。そもそも、MITやスタンフォード大学のような現在では世界をリードしている大学は、当時はまだ、ようやく大学院を設置したばかりという状況だった(第16回、第17回)。アメリカ全土を見てみれば、聖職者育成のために設立された「カレッジ」の雰囲気を残したままの大学が数多く残っており、そのような大学に所属する哲学者に期待されていたのは、同時代のヨーロッパで行われていたような最先端の研究ではなく、昔ながらの教育をすることだった。
 フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの3名、そして彼らと深く関わっていたウィーンの科学哲学者たちがオーストリアからアメリカへと渡ってきた時のアメリカ哲学は、このような状況だったのだ。

オーストリア移民をアメリカでも苦しめたユダヤ人差別

 アメリカに渡る前のフォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキはみな、大学で安定した職に就くのに苦労していた。フォン・ノイマンはベルリン大学で教えていたものの、十分な報酬を得てはおらず、またユダヤ人であるフォン・ノイマンが右傾化するドイツで安定した職に就く見込みは低かった。ゲーデルはユダヤ人ではなかったが、オーストリアがナチス・ドイツに併合されたために、なったばかりの講師の職を失おうとしていた。だが、二人にはプリンストン大学の数学者ヴェブレンという有力な後ろ盾がいた。ヴェブレンのおかげで彼らはアメリカに渡った後、すみやかに安定した職に就くことができたのだ(第13回)。
 タルスキは故郷ポーランド時代からユダヤ人差別に苦しんでいた(第6回)。彼が姓を「タルスキ」に変えたのもそのためだ。それでもタルスキは大学に職を見つけることができず、彼の主な収入源は高校の数学教師の職だった。ナチス・ドイツによるポーランド侵攻という事態を受け、思いがけずにアメリカに滞在することになったタルスキだが、ヴェブレンのような強力な後ろ盾を持たない彼にとって、ナチスから逃れてアメリカに来た知識人で溢れかえっていたアメリカで、大学の安定した職を見つけることは困難だった。結局タルスキは、3年間の流浪生活の後、西海岸のカリフォルニア大学バークレー校で落ち着くことになるのだが、その身分は教授ではなく一介の講師にすぎず、また、ロックフェラー財団の助成金のおかげで初めて可能になったものだった(第12回)。
 彼らと共にオーストリアからアメリカに渡ってきた科学哲学者たち、特に若手のメンバーは多かれ少なかれ似たような境遇だった。最初にウィーンからアメリカに移住したのは、ハーバート・ファイグルという最年少のメンバーだった。
 1902年、オーストリア帝国のボヘミア(現在のチェコ)に生まれたファイグルは、まだウィーン大学の学部生だった19歳の時に相対性理論に関する哲学論文で論文コンテストに入賞するなど、若くしてその才能を知られていた。だが、彼にはオーストリアの大学で教えるには致命的な問題があった。ユダヤ人だったのだ。
 ファイグルが博士号を取得した当時のオーストリアは、第一次世界大戦の敗戦により他民族帝国から小国家へと没落していたが、まだカトリック教会が大学に強い影響を与えていた(第2回)。隣国ドイツではナチスが勢力を伸ばしており、タルスキのポーランド同様、反ユダヤ感情が強まる一方だったオーストリアで、ユダヤ人のファイグルが大学のポストを得ることは極めて困難だったのだ。
 ファイグルはウィーン大学で哲学の博士号を取得した後、さまざまな学校で細々と講師をすることでなんとか糊口をしのいでいたが、引退してウィーンに滞在していたアメリカ人哲学者ディッキンソン・ミラーと出会ったことがきっかけで、アメリカに移住することを決意する。ファイグルのアメリカ留学を可能にしたのは、やはりロックフェラー財団だった。タルスキやフォン・ノイマンと同様、ファイグルもロックフェラー財団の奨学金を得る。向かう先はアメリカ・ハーバード大学だ。ファイグルがウィーンを離れたのは、彼自身も作成に関わった、ウィーン学団がその存在を国際的に知らしめたパンフレット「科学的世界把握:ウィーン学団」(第4回)が発行される1929年9月のことだった。
 ファイグルが得た奨学金は1年間だけのものだったが、彼には帰国する意思はなかった。ハーバードでファイグルは多くの哲学者と知り合う。その中には、当時のハーバードを牽引するプラグマティズム哲学者だったC. I. ルイスや、渋るタルスキをアメリカに招いて結果的に彼の危険から救うことになった哲学者W. V. O. クワインもいた(第6回)。ファイグルは彼らの助けを借りて、アメリカ各地の大学に自らを売り込むのである。
 幸いファイグルの就職活動は成功する。1930年、ファイグルは中西部のアイオワ大学に採用されるのだ。しかし、これは彼の心の中に複雑な思いを残すものとなった。採用が決まる前、アイオワ大学の学部長が、ハーバードのルイスに電話をかけてきた。ルイスはファイグルの推薦人になってくれていたのだ。20分ほどファイグルの人となりについて尋ねた後、最後にアイオワ大学の学部長が尋ねたのは、「彼はユダヤ人か?」という質問だった。
 当時のアメリカの大学では、ユダヤ人学生の割合が制限されており(第11回)、教授陣の中にも、おおっぴらには言わないものの、ユダヤ人と共に働くのを好まないものもいたのだ。アメリカでも祖国オーストリアと同様にユダヤ人差別を目の当たりにしたファイグルだったが、ルイスの答えは彼にとって生涯忘れられないものとなった。それは、「彼がユダヤ人かどうか知らないが、仮にそうだとしても、何か差し障りがあるのかね」というものだったのだ。


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