今朝のメルマガは、書評家の三宅香帆さんによる連載「母と娘の物語」をお届けします。今回取り上げる作家は小説家・吉本ばななです。数々の印象的な「食」を描いてきた吉本ばななの諸作品を、現在連載中のエッセイと重ね合わせ、「母」と「食」をめぐる関係性を論じます。
三宅香帆 母と娘の物語
第三章 よしもとばなな──無自覚な娘
「どうして君とものを食うと、こんなにおいしいのかな。」
私は笑って、
「食欲と性欲が同時に満たされるからじゃない?」
と言った。
「違う、違う、違う。」
大笑いしながら雄一が言った。
「きっと、家族だからだよ。」
(「満月―キッチン2」(よしもとばなな『キッチン』新潮文庫p135)
吉本ばなな[1]は、食欲旺盛な作家である。
それは単なる食いしん坊という意味でなく、小説やエッセイを含めた吉本ばなな作品において食事の場面が多いことを指す。たとえばデビュー作『キッチン』の最初の一文は「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う」だった。あるいは『ハゴロモ』のほたるはインスタントラーメンを、『TSUGUMI』のまりあは父のくれたせんべいを、『哀しい予感』の弥生はカレーを食べていた。
吉本ばなな作品は、過剰なまでに食事の場面を反復する。
吉本ばななの小説とエッセイを交互に眺めると、そこには彼女の作品でなぜ食事が繰り返されるのか、その理由が浮かび上がってくる。そこにはある意味、無自覚に描かれた、母と娘の物語が背後に存在していた。
1.ごはんをつくらない母──『High and dry (はつ恋)』
現在吉本は、WEBサービスnoteで、エッセイ〈どくだみちゃん と ふしばな〉シリーズ[2]を連載している。インターネットで発表される吉本ばななの文章は──ある意味、無防備に──食事への執着を語る。しかしそれを読み解くと、吉本作品はなぜ食欲旺盛なのか、そのヒントとなる描写がひそかに綴られていた。そこには彼女の母をめぐる葛藤が潜んでいたのである。
私には(そういう意味では)お母さんはいなかった。
私の具合が悪いときに、何が食べたい? と聞いてくれる人はいなかった。
(吉本ばなな『お別れの色 どくだみちゃんとふじばな3』p33、幻冬舎、2018年)
「何を食べたい?」と聞く人。これが母の定義である、とエッセイの中で吉本ばななは言う。
彼女の父母の没した4年後に始まるnoteで、自分の母はごはんを作らない人だった、と吉本は語る。ここで思い出されるのは、2004年に刊行された吉本の小説『High and dry (はつ恋)』(以下『はつ恋』)[3]だ。
『はつ恋』の主人公・夕子の母は、たまに「上の空モード」になる。注目したいのは、その症状を夕子が挙げる際、必ず最初に「ごはんを作らない」点を挙げることだ。
たとえばうちのお母さんは、本に熱中したり、何かですごく落ち込んだりすると、ごはんを作るのも電気をつけるのもそうじをするのもみんな忘れてしまう。(『はつ恋』p68)もう私はかなり大人になってきたので、自分で何か作って食べたり、勝手に風呂をわかして入ったり、自分の選んだ時間に寝たり起きたりできるから全然かまわなかったのだが、幼い頃にそれが起こると、かなりきついことだった。(p69)多分、村上さんのお母さんはうちのお母さんと違って、人であるまえにまず、プロのお母さんだろう。
だから、晩御飯作り忘れたり、十四時間も寝っぱなしだったり、子供の送り迎えをすっかり忘れてしまっていたりすることは絶対にない。(p70)
そして夕子が語る理想の母親像は、2017年のnoteで吉本自身が語った「私の具合が悪いときに、何が食べたい? と聞いてくれる人」という理想の母親像とほぼ一致する。
いつでも同じ時間にごはんを作ってくれる人がいたら、どんなにいいだろう。「時差ぼけのお父さんが起きてきたときにみんなでいっせいに夜中の二時にファミリーレストランに行く」そういう種類の楽しさは大好きだけれど、でも、いつでも振り向いたら私を見てくれている、いつでも家に、私のためにいてくれて世話をすることがいちばん大事だというお母さんがいたらどんなにいいだろう。
(『はつ恋』p70-71。下線部は筆者による)
そもそも『はつ恋』は、思春期の女の子の初恋を主題とした小説である。そのような青春小説において、ふいに作者自身の葛藤の対象である「ごはんをつくらない母」の影が登場することは注目に値するだろう。もちろん『はつ恋』が作家の私小説などと言いたいわけではない。むしろここには作家自身が意識しているかどうか分からない、もしかすると無意識の範疇で描かれる、「ごはんをつくらない母」の反復を見ることができるということだ。
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