ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第14回「PL学園野球部の淵源? 明治期のトップエリートを育んだ「籠城主義」「校友会」というキャンパスカルチャー」をお届けします。
東京大学教養学部の前身とされる一高のキャンパスカルチャーから、現代の「野球エリート」たちを育む環境の淵源について考察します。
中野慧 文化系のための野球入門
第14回 PL学園野球部の淵源? 明治期のトップエリートを育んだ「籠城主義」「校友会」というキャンパスカルチャー
〈文明化〉とはなにか
本連載の第12回で少し触れたが、20世紀にドイツとイギリスで活躍した社会学者ノルベルト・エリアスは『スポーツと文明化』のなかで、「近代におけるスポーツの発展は暴力が抑制されていく過程である」と論じている。
そもそも私たちは、〈闘争〉〈暴力〉をエンターテインメント(娯楽)として消費する性向がある。戦後日本では高倉健や菅原文太の任侠映画が人気を博してきたし、現在もたとえば暴力に明け暮れる不良少年たちの抗争を描いた『HiGH&LOW』シリーズや、『東京リベンジャーズ』などの作品が高い人気を得ている。
▲『東京リベンジャーズ』(2021)(出典)
人類史を遡ると、古代ローマでは奴隷どうしを「剣闘士」として戦わせたり、または剣闘士と猛獣を円形闘技場(コロッセオ)で戦わせたりしていた。中世ヨーロッパでは街の中心部で行われる犯罪人の処刑が、市民の日常の楽しみとして行われた。
古代ローマでは「ハルパストゥム」という、サッカーやラグビーなどのフットボールの原型となったゲームが行われていたが、殴る蹴るもOKで敵陣にボールを運ぶことを競うという、暴力的な色彩の非常に濃いゲームであった。このゲームはルネサンスの時期にイタリアで復活し、「カルチョ・ストーリコ(カルチョ・フィオレンティノ)」という名で現代も残っている。
▲現代も行われているカルチョ・ストーリコ。動画を見るとわかるが、ほとんど素手で戦う戦争のようである。
この民衆で行うフットボール(マス・フットボール)は、中世にフランス、イギリスへと北上し、村同士の戦いという形式を取り、あまりに過激化するので国王から禁止令も出された……というのはすでに述べたとおりである。
マス・フットボールは民衆娯楽としては優れていたが、暴力的すぎるという欠点があった。そこでルールを整備することにより暴力性を逓減させ、〈楽しみ〉=つまりスポーツへと純化させていったのがサッカーやラグビーである。
エリアス曰く、スポーツは民主主義社会でしか生まれないという。
人類史上最初に、現代のスポーツに通じる文化が生まれたのは古代ギリシアで行われた古代オリンピックだ。古代ギリシアでは、市民権を持つ男性たちが共同で政治に参加する「民主主義」に基づいた統治が行われていた(もっとも、民主政とはいっても基本的に女性や奴隷が排除されていたという点が、現代と大きく違うが)。普段は抗争に明け暮れるギリシア都市国家どうしが4年に一度、一時休戦をし、市民たちによる徒競走や円盤投げ、レスリングや戦車競走などで勝ち負けを競い合い、それを通じてゼウスをはじめとしたギリシアの神々を祀る宗教行事が古代オリンピックだった[1]。だが2世紀以降、地中海世界でキリスト教が普及したことにより、古代オリンピックは「異教の祭典」ということで白眼視されるようになり、やがて終焉を迎えた。
それから1500年ほど下って19世紀後半、普仏戦争でプロイセン(のちのドイツ)によって蹂躙されたフランスでは、「ドイツに復讐すべき」という世論が盛り上がっていた。そのときに「やられたやりかえせ、では真の平和は訪れない」という危機感を持ったフランス貴族のピエール・ド・クーベルタンが、かつてギリシアで行われていたという古代オリンピックにヒントを得て、「スポーツという平等なルールのもとで競い合う国際イベントを開催してはどうか」と考え、近代オリンピックを創始したのであった。古代オリンピックはゼウスらギリシアの神々を祀る祭典だったが、クーベルタンはその代わりに「世界平和」という理念を込め、近代オリンピックは現在にまで続いている。
こうしたフットボールやオリンピックの歴史を見ていくと、人間が持つ〈闘争〉〈暴力〉への渇望を、統一的なルールを定めるなどして暴力的な要素を取り除き、純粋な楽しみへと昇華させていく努力こそが、近代スポーツの歩みの本質であると言える。暴力性や乱雑さが濾過され、民主的な近代社会へと向かうプロセスこそがエリアスの言う〈文明化〉であり、スポーツはその重要な要素のひとつだった。近代スポーツの発生は、そうした大きな流れのなかに位置づけられるのである。
明治期、なぜサッカーやラグビーではなく「野球」が人気になったのか
野球が日本に入ってきた時期は、すでに述べたように近代化の波が押し寄せていた明治時代である。だが野球とほぼ同時期に、現代では野球よりも人気スポーツになりつつあるサッカーやラグビーなども入ってきていた。近代化以降に流入した舶来のスポーツのなかで、なぜ野球の人気だけが高まったのだろうか?
この点に関しては「バットが刀に似ているので日本人に理解しやすかった」などさまざまな俗説があるが、日本のスポーツライターの草分け的存在である玉木正之(1952年〜)が、著書『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう! 』(春陽堂書店、2020年)のなかで興味深い説を述べていたので紹介したい。
玉木曰く、日本の武家社会では、平安時代に行われた源平合戦の時期から、最終的に「一騎打ち」で雌雄を決するという形式が好まれるようになっていった。
しかし当然ながら、人々どうしの紛争を解決する手段として暴力を用いる際に、雌雄を決するのは一騎打ちではない。相手をいかにして欺き、味方どうしでいかに連携して戦うか、つまり権謀術数と組織戦こそが勝利のためには必要であり、それが戦争のリアリズムである。
ところが血で血を洗う戦国時代を経て、江戸時代という平和な時代(パクス・トクガワーナ)になり、剥き出しの荒々しい暴力、勝つための組織戦=チームプレーが必要であるというリアリズムが鳴りを潜め、日本人たちの「戦い」そのものへの観念がフィクショナルなものへと変化していった。特に、戦国時代に行われたという上杉謙信・武田信玄の一騎打ちなどが文学や浄瑠璃で盛んに語られることで、庶民のあいだでも「戦い=一騎打ち」という観念が浸透していった。江戸時代という長い平和の時代を経て、日本人は「チームプレー」というものを理解するフレームワークを長らく失ってしまっていたのだ。
明治期に入ってきた舶来のスポーツのなかでも、サッカーやラグビーは前述のとおり、より本来の「戦い」のリアリズムに近いものだった。サッカー、ラグビーは「流れ」があり、チームプレーの側面もかなり強くある。このチームプレーというものの面白さが、当時の日本人には理解されなかった。しかし野球には投手と打者がいて、「一騎打ち」の性格が強く見られる。だから当時の日本人が持っていた戦い=一騎打ちというフレームで理解しやすかった、というのである。
逆に言えば野球は、そうした本当の戦いのリアリズムから離れたフィクショナルな部分が、ある意味で「平和ボケ」していた当時の日本人たちの心を捉えることができた、と見ることができる。こうして「平和ボケした日本人」の観念に合致し、人々の心をいったんは掴んだ野球はしかし、ここから「近代化」の荒波のなかに否応なく放り出されることになっていったのだ。
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