(ほぼ)毎週月曜日は、ドラマ評論家の成馬零一さんが、時代を象徴する3人のドラマ脚本家の作品たちを通じて、1990年代から現在までの日本社会の精神史を浮き彫りにしていく人気連載『テレビドラマクロニクル(1995→2010)』を改訂・リニューアル配信しています。
今回は堤幸彦論の最終回です。「超能力(スペック)を使う犯罪者」という設定を取り入れながら、当初は『ケイゾク』の作風を反復していた『SPEC』ですが、主人公がスペックに覚醒したことで、物語は新しい展開を迎えます。
成馬零一 テレビドラマクロニクル(1995→2010)〈リニューアル配信〉
堤幸彦とキャラクタードラマの美学(6)──『SPEC』(後編) 超能力から〈病い〉へ
『起』組織と個人
『SPEC』は2010年にテレビシリーズ(起)が放送され、2012年にSPドラマ『SPEC~翔~』と映画『劇場版SPEC ~天~』、2013年に当麻と瀬文が出会う前の前日譚を描いたSPドラマ『SPEC~零~』、そして完結編となる映画『劇場版 SPEC~結~』の前編『漸ノ篇』と後編『爻ノ篇』が公開された。「ミステリーから超能力へ」というジャンルの変化を通して1990年代から2000年代への変化を描いた『SPEC』だったが、では、ストーリーと演出はどのようなものだったのか?
▲『SPEC~翔~』『劇場版SPEC~天~』(2012)
▲『SPEC~零~』(2013)
テレビシリーズが始まった当初、『SPEC』が描こうとしたのは「人間 対 超能力者」の戦いだった。第1~4話では、スペックホルダーと当麻たちミショウの刑事たちとの戦いが描かれる。スペックを表現するためにドラマでは異例の量のCGが用いられたが、漫画やアニメでは定番化している超能力をいかに可視化するか。というのが演出面での一番の課題だったと言えるだろう。これに関しては「時間が止まった世界」の描写も含めて、本作ならではの映像が展開できていたと言えるだろう。その意味でも、当初の課題はクリアされていた。
やがて第5話以降になると、スペックホルダーの存在を追って研究・捕獲・監視していた警察内組織・公安零課(アグレッサー)が物語に絡んでくる。物語はより複雑化し、誰が敵で誰が味方なのかわからない混乱状態になっていく。この展開は、『ケイゾク』後半の反復だが、スペックホルダーをヒューマンリソース(人的資源)として利用しようとする謎の秘密組織・御前会議が登場する陰謀論的展開は類型的で、あまり魅力が感じられない。やはり印象に残るのは、国家や御前会議の思惑を超えて暴走するスペックホルダーたち、中でも自由気ままに振る舞う、時間を止めるスペックホルダー・ニノマエの圧倒的な存在感だ。物語も、暴走するニノマエをいかに止めるのか? というクライマックスへと向かう展開が一番見応えがある。ニノマエのSPECが「時を止める」能力ではなく、実は「超高速で動く」能力で、その代償として、体感速度が常人の数万倍だと気づいた当麻が、毒を混ぜた雪を浴びせることでニノマエを倒すという展開も「人間 対 超能力者」という構図にこだわった本作ならではの展開だったと言えるだろう。
心配だったのは、この対立軸を作り手が放棄して、当麻や瀬文がスペックホルダーに目覚めて超能力者同士のバトルになってしまうのではないか? ということ。特に「時間を止める」という圧倒的な力を持ったニノマエを冒頭で出してしまったため、彼に対抗するには『ジョジョの奇妙な冒険』第三部における空条承太郎とディオ・ブランドーの対決のように、主人公サイドも敵と同じ(時間を止める)能力に目覚めさせるしかないのではないか? と心配だった。『ジョジョ』の映像化なら、それでも構わないのだが、本作の斬新さは、人間が超能力者に立ち向かうという構図にあり、これを放棄してしまえば、作品自体のアイデンティティが瓦解すると思っていた。その意味でも、対ニノマエ戦までは見事だったと言えよう。
しかし、最終話で、当麻の恋人・地居聖(城田優)が、実は人の記憶を操作するスペックホルダーで当麻の記憶も地居に操作されたものだったことが唐突に明かされると、雲行きは一気に怪しくなる。
心から身体へ
心の闇を描こうとしたサイコサスペンステイストの『ケイゾク』に対し、『SPEC』では身体性が強調されている。これは堤がチーフ演出を務めた『池袋』や、その後で作られた『ハンドク!!!』、『TRICK』などにも現れていた2000年代的な傾向だろう。
中でも『SPEC』は、当麻が餃子を食べるシーンを筆頭に、食事のシーンが多い。同時に、登場時から包帯を巻いている当麻を筆頭に、身体の損傷や痛みを通して身体性が強調されている。「死」の描き方も重みが増しており、瀬文の部下だった志村が事故で意識不明の重体となって入院する姿が執拗に描かれていた。
そこには「心から身体へ」とでもいうような流れがうかがえる。これは『ヱヴァ破』にも見られた傾向で、漫画ではよしながふみの『西洋骨董洋菓子店』(新書館、1999〜2002年)、テレビドラマでは木皿泉の『すいか』(2003年、日本テレビ系)などの作品でも、食事の場面を繰り返し描くことで、身体性とコミュニティを取り戻そうという意識が現れていた。
これは2000年代のフィクションに現れていた一つの流れだったと言えよう。
当麻たちは地居によって記憶を操作されてしまうのだが、サイコメトリー(触った人間の記憶を読み取る能力)のスペックを持った志村美鈴(福田沙紀)の協力によって真実を思い出す。記憶を取り戻した瀬文は「人間の記憶ってのはなぁ、頭ん中だけにあるわけじゃねぇ、ニンニク臭え人間のことは、この鼻が、この傷の痛みが、身体全部が覚えてんだよ」と、地居に宣言する。
おそらく、「記憶を書き換える」スペックを持ち、真実は存在しないとうそぶく地居は、『ケイゾク』の朝倉のような1990年代的な悪意を象徴する存在なのだろう。地居が当麻と瀬文に倒される姿を通して、90年代から2000年代、『ケイゾク』から『SPEC』へという時代の変化を描いたのであれば、最終話が地居との対決で終わるのは、必然だったのかもしれない。
ここまでは納得できる。しかし最後の最後で本作は「人間 対 超能力者」という対立構造を放棄してしまう。地居に追い詰められた当麻は怪我で動かない左手で拳銃を構えて「左手動けぇ!」と叫び、発砲する。すると、時間が止まり、地居が撃った弾丸は地居に命中する。死んだはずのニノマエが生きていたのか? それとも当麻がスペックを発動したのか? 謎は宙吊りにされたままテレビシリーズは終了する。
『翔』盗用と借用 呪われた力
テレビシリーズの2年後に放送された『SPEC~翔~』では、瞬間移動の力を持ったスペックホルダーとミショウの戦いが描かれる。その戦いの中で当麻が死んだ人間(スペックホルダー)を召喚するスペックの持ち主だったことが明らかになる。つまり、当麻は死んだニノマエを召喚して、地居を倒したのだ。当麻がスペックホルダーだと知った瀬文は、当麻に苛立ちをぶつける。
一方、当麻もスペックを使うことに対して激しい罪悪感を抱いている。物語が始まった時、スペックは人類の中に眠る未知なる可能性として描かれており、当麻もスペックに対し、知的興味を示していた。しかし、当麻は自らの力を呪われたものと捉えており、最終的に左手の力を封印する。
一方、『翔』で印象に残るのは久遠望(谷村美月)というスペックホルダーの存在だ。彼女は、血液のDNAを読み取り、スペックをコピーする能力「コレクション」の持ち主で、スペックホルダーに両親を殺された被害者の女性として当麻たちに接近した。複数のスペックを使えるという意味では当麻と同じ力なのだが、当麻のスペックが死者との「絆」であり、スペックは(死んだスペックホルダーから)“借りる”ものであったのに対し、久遠のスペックは“奪う”ものだった。
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