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中小企業の海外進出が専門の明治大学・奥山雅之教授とNPO法人ZESDAによるシリーズ連載「グローカルビジネスのすすめ」。地方が海外と直接ビジネスを展開していくための方法論を、さまざまな分野での実践から学ぶ研究会の成果を共有してゆきます。
今回は、国際経済のプレイヤーとしての台湾と東アジア各国の架け橋として長きにわたり尽力してきた周立さんに、グローカルビジネスの「テスト市場」としての台湾が持つポテンシャルと課題について、日台関係の歴史的経緯に遡りながら概説していただきました。

グローカルビジネスのすすめ
#03  台湾概況と日台経済関係──グローカル・パートナーシップの視点から

 近年、新たな市場を求めて地方の企業が国外市場へ事業展開する動きが活発になっています。日本経済の成熟化もあり、各地域がグローバルな視点で「外から」稼いでいくことは地方創生を果たしていくうえでも重要です。しかし、地方の中小企業が国外市場を正確に捉えて持続可能な事業展開を行うことは、人材の制約、ITスキル、カントリーリスク等一般的にはまだまだハードルが高いのが現実です。
 本連載では、「地域資源を活用した製品・サービスによってグローバル市場へ展開するビジネス」を「グローカルビジネス」と呼び、地方が海外と直接ビジネスを展開していくための方法論を、さまざまな分野での実践の事例を通じて学ぶ研究会の成果を共有します。
(詳しくは第1回「序論:地方創生の鍵を握るグローカルビジネス」をご参照ください。)

 今回は、長年にわたって台湾と東アジア各国との関係構築に尽力してきた台北駐日経済文化代表処の周立氏が、台湾の概況と日台経済関係について説明します。近年では旅行先としても人気を誇る台湾は、AcerやASUS、Giant、htcなどの有名企業を抱える経済立国のモデルケースでもあります。進出先の市場として、あるいはビジネスパートナーとして、日本企業は台湾をどのように捉えるべきなのか。台湾市場におけるグローカルビジネスや、世界市場に向けた日台協力によるグローカルビジネスの可能性を考えます。
(明治大学 奥山雅之)

台湾概況

 台北駐日経済文化代表処の周です。ほとんどの方にとっては見たことのない肩書きかと思います。『処』はお互いが会う「ところ」というイメージでしょうか。公には民間の機関とされていますが、実質的には台湾と日本との間の外交や経済交渉などの窓口として、大使館や領事館と同じような機能を果たしています。
 本稿では台湾事情の入門ということをテーマに、台湾経済の概況と日本国との関係について説明し、グローカルビジネスについて考えるための機会につなげたいと思います。
 まずは台湾の歴史を簡単におさらいしておきましょう。台湾と日本との関係の発端は、今から200年ほど前にさかのぼります。当時、中国本土では明という国がその歴史に幕を閉じようとする中、明の一員として国土の復興を目指し、革命勢力に抵抗を続けているという人物がいました。彼は当時台湾を統治していたオランダ東インド会社の軍事勢力を追い出し、台湾に独立した政権を打ち立てました。このことから鄭成功は、「開発始祖」として台湾で尊敬を集める存在となりました。その鄭成功の父は中国系、そして母が日本人、長崎県平戸出身であったことが、現在歴史に残る日台交流のはじまりだと言えるでしょう。
 明が滅亡すると、残された政府の人材は台湾に渡りました。その後、清が治めていた時代の台湾には積極的な投資が行われず、あまり開発が進みませんでした。対して日本は鎖国を解き、富国強兵・殖産興業をかかげて急速に力をつけていました。それ以外のアジアの国々に目を向けると、例えばフィリピンはスペインの植民地に、ベトナムはフランスの植民地になっていました。その中で台湾だけが取り残されたのです。そして1894年に勃発した日清戦争を経て、50年間にわたって日本が台湾を統治する時代に突入します。日本領になってからは、大統領府や官邸などをはじめとするさまざまな近代建築、ダムや鉄道などのインフラなどが開発され、当時のものは今でも多く残っています(図1)。

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図1. 現存する日本統治時代の建物やインフラ:嘉南大圳(左)と台湾総統府(旧台湾総督府:右)
出所:筆者撮影

 歴史的な背景もあり、現在の台湾では北京語をはじめとする複数の言葉が使われています。人口の内訳は漢民族が98%、残りの2%は漢民族が渡来する以前からの先住民です。全体の98%を占める漢民族の内、85%は戦前から台湾に住む人々、その他は戦後、蒋介石とともに中国本土から台湾へと渡ってきた人々です。
 時間が経つとともに落ち着いてきましたが、かつてはこれらの人々の間でたびたびトラブルが起きていました。特に我々の一つ上の世代は、非常に苦労をしたと聞いています。戦前に日本本土で教育を受けて、戦後台湾に引き揚げた人々は、厳しい政治的弾圧に見舞われました。歴史にも刻まれている通り、日本人や日本国籍を有する台湾出身者の弾圧・虐殺事件、いわゆる「二・二八事件」などをはじめとする混乱が続き、当時のインテリ層がかなり被害を受けました。いまだに当時の動乱で何万人の人々が亡くなったか分からない状態で、私の一族の人間も何人犠牲になったか定かではありません。
 そのような背景もあって、1948年頃から1987年くらいまでの約40年にわたって戒厳令がしかれた期間がありました。当時は一党支配が続いていたので、言論の自由も認められず、政党を作ることもできませんでした。そうした苦難の時期を経て、やっと勝ち取ったのが現在の自由と民主主義です。今の香港を見ると、昔われわれが民主主義・自由主義を勝ち取るために闘っていたときのことを思い起こします。このような政治的な風土があり、この価値観をみなさんと共有したいと思います。

 さて、これを踏まえて現在の台湾に目を向けてみましょう。沖縄よりもさらに南方、中国や東南アジアにも近い南シナ海に位置する台湾は、東西に大きく分けて考えることができます。東側には(日本統治時代には新高山と呼ばれた)玉山をはじめとする高い山が連なり、住んでいる人も比較的少なめです。対して工業都市などを含み、人口が集中する都市部は、南北にまたがる西半分のベルトに位置しており、首都の台北をはじめとする5つの主要都市は西海岸に走る新幹線が結んでいます。実はこの新幹線、日本が輸出したインフラの唯一の例でもあります。
 GDPでいうと世界21位、1人当たりGDPは世界で37位。2300万人の人口を擁し、およそ九州と同じくらいの面積があり、IT産業を中心に経済に力を入れて頑張っています。主な企業は後ほど紹介いたします。
 ここで一点興味深い事実をご紹介しましょう。アジアを代表する大都市の一つとして、香港という都市の存在はビジネスシーンでも大きな存在感を示していると思います。実はこの香港で活躍する人々には、台湾で教育を受けた方が多いのです。今でこそ香港の大学は数多くありますが、昔は数えるほどしかありませんでした。私が大学にいた時代は、香港だけではなく、海外の華僑の枠というものが別枠でありました。台湾大学や国立政治大学など、台湾を代表する名門大学にはそうした別枠が充実しており、華僑の枠の半分くらいが、香港出身の方であったと言われています。こうした制度が設けられるようになったのは、高校まで中国語の教育を受け、中国語での大学教育を望むエリートを受け入れたためだと言われています。ゆえに、現在の香港で活躍する人々の中には、台湾の教育を受けた人々が多くいるのです。
 1997年、香港が中国に返還されるということが決まると、中国政府のやり方に不安を覚える香港人は多く海外に移住しました。遠くはカナダ、トロントなどの都市にまで移り住んだ方もいたようです。その中で先のような教育制度の歴史もあり、海外に移住する際の第一の選択肢として挙げられたのは台湾でした。ここ最近の香港での政治不安もあってか、2019年にはふたたび香港からの移住者が増えました。
 このように半ば独立しているとも言える関係にある台湾と中国本土の政治システムですが、憲法の問題により、私のような行政官は「中華民国政府の行政官です」と言い切ることが難しい微妙な状況に置かれています。オリンピックなどの国際大会でも、中華民国という名前を使うことができません。図のような旗とともに、チャイニーズタイペイという名前をお聞きになったことがある方も多いかと思います。国花である梅に国章の「青天白日」をあしらったこの旗が、現在の台湾のアイデンティティを表しています(図2)。

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図2. 国際的な場で用いられる「梅花旗」
出所:Wikimedia Commons

本当はすごい! 台湾の経済

 このような背景から、経済に力を入れるということは、台湾の生き残り戦略の一つでもあるということが分かるでしょう。戦後長らくコツコツと築き上げてきた日本との経済関係も、これまで経済に力を入れて頑張ってきた結果であると言えます。まずは、代表的な台湾企業をご紹介します。


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