分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第10回。前回までに辿ったアメリカにおけるドイツ的な知の風土の移植に対し、いよいよオーストリア的な知の流転にスポットを当てます。故国の動乱を追われたオーストリア帝国諸邦の移民たち、とりわけ最も「オーストリア的」な民としてのユダヤ系移民は、新世界に何を求めたのか?
小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ
第10回 新世界より〜オーストリアからアメリカへと渡った移民たち
アメリカへの移民供給元となっていた19世紀後半のオーストリア
本連載第8回でも言及したが、ドイツからアメリカへという知の流入は、19世紀半ばに始まる。特に、1848年のドイツ三月革命の失敗後、弾圧の対象となったリベラル派のドイツ人知識層がアメリカにやってくる。アメリカ建国期からの支配層に牛耳られていた東海岸に安住の地を見つけられなかった彼らが向かったのは中西部であり、その中心地となったのが、オハイオ州シンシナティ、そして「セントルイスのヘーゲル主義者たち」がいたミズーリ州セントルイスだった。だが、こうした知識層のアメリカ移動は、ドイツだけではなく、オーストリアでも起こっていたのだ。いや、それどころか、オーストリアはドイツよりもずっと多く、アメリカへの移民を生み出していたのだ。
ドイツ三月革命では、ウィーンでも民衆蜂起が起きており、ウィーン会議を取り仕切った帝国宰相メッテルニヒが失脚していた。同時期に、当時はオーストリア帝国に属していたチェコのプラハでも民衆が蜂起した。時の皇帝フェルディナンド一世は、ウィーンの暴動を鎮圧するのを優先すべく、民衆の声をいったん聞きいれ、彼らが要求するチェコ人とドイツ人(ドイツ語を母語とするオーストリア人)の平等を実現するために仮政府が樹立される。
だが、これを良しとしなかったものもいた。チェコ国内に住むドイツ人だ。チェコはドイツと隣接しているだけでなく、チェコ(厳密にはチェコ西部であるボヘミア)自体はチェコ語を話すチェコ人の国でありながら、古くから神聖ローマ皇帝の支配下にあり、有力な帝国諸侯の一つとしてドイツとの往来も頻繁で、多くのドイツ人がチェコに住んでいた。
加えて、当時のオーストリア帝国は広大な多民族国家であり(第2回)、帝国内での移動は日常的におこなわれていた。外国人と区別するために、オーストリア国籍とは別に、国内のどこの地域が出身地かを示す「本籍(Heimatrecht)」を定める法律があったほどだった。このようにオーストリアは、帝国本体が多民族国家であるだけでなく、帝国を構成する諸国もその内部では様々な少数民族を抱えていたのだ。特にドイツ人は帝国の支配階級であり、各国に散らばっていた。彼らにとって、当時盛んになっていた民族自決主義は、自らの立場を危うくするものでしかなかったのだ。
チェコで民族対立が広がりつつあった1848年5月、ドイツ統一と憲法制定を目指すフランクフルト国民議会が開催される(第8回)。この「ドイツ統一」の対象となったのは神聖ローマ帝国を構成した諸邦だったのだが(第2回)、オーストリアの一地方ながら旧帝国諸邦の一つでもあったチェコにも議員を派遣するよう、要請が来る。チェコ人主体の仮政府は当然のように、フランクフルト国民議会への議員派遣を拒否する。このことはチェコ国内のチェコ人とドイツ人の対立をさらに激化させ、やがて首都プラハで暴動が発生する。それを見たオーストリア政府はすかさず方針を転換し、プラハを軍事制圧するのである。仮政府も解散させられ、プラハの革命はかくして失敗に終わるのである。
チェコと同じくオーストリア帝国の版図に含まれていたハンガリーのブダペストでも、革命が起きようとしていた。ここでもまたオーストリア皇帝は、いったんハンガリーの立憲君主制への移行を約束し、ハンガリー人を中心とする新政府が発足する。しかし、こうした恩恵を得ることはできたのはハンガリー人だけだった。ハンガリー国内にはドイツ人のみならず、クロアチア人やルーマニア人などが様々な民族が住んでいたのだ。ハンガリー新政府に対する彼ら非ハンガリー人の反感は、チェコと同様、大きいものだった。
1848年11月、プラハをはじめとする帝国内部での暴動を次々と鎮圧していたオーストリアは、最後の反乱分子となっていたハンガリーに宣戦布告する。ハンガリー新政府に批判的な非ハンガリー人を中心とした部隊を組織するというオーストリアの戦略は功を奏し、翌1849年1月にはブダペストを占領する。
このように、19世紀の後半には、ドイツ人だけでなく、チェコやハンガリーをはじめとするオーストリア帝国を構成する諸国からも、政治的対立や圧政を受けてアメリカへと移民するものが相次いでいたのである。
じつのところ、1848年の革命失敗によってアメリカ移民が増えたという点では、ドイツとオーストリアは変わらない。だがその後、両者の立ち位置は対照的なものとなっていく。当時のドイツ諸邦で主導権争いをしていたのは、プロイセンとオーストリアだった(第2回)。しかし、大学改革に成功したプロイセンは、産学協同を軸に重工業化を進め、オーストリアとの主導権争いに勝利。1871年にはプロイセン中心のドイツ帝国が成立する。アメリカは、こうして国力でも学問でも世界をリードする国家となったドイツを手本とするようになるのである(第9回)。
一方、カトリック国家であったオーストリアの大学は、相変わらず教会の強い影響下にあり、旧態依然としたままだった。工業化も一部の地域でしか進まず、取り残された地域では、より強まったオーストリア帝国の圧政のもとで農民たちが貧困に喘いでいた。彼らの中には、職を求めてドイツやフランスといった国外へと出稼ぎに行くものがいた。広大な多民族国家だったオーストリア帝国では、国内での出稼ぎは当たり前のようにおこなわれていたからだ。そして発展を続けるアメリカもまた、やがて主要な出稼ぎ先の一つとなっていた。19世紀終わり頃のオーストリアは、ドイツとは対照的に、アメリカへの移民の主要な供給元になっていたのである。
彼らオーストリア移民が目指したのは、ドイツ移民と同じく中西部のオハイオ州やイリノイ州、さらには、その西にあるウィスコンシン州やミネソタ州にまで及んだという。ミネソタ州には、その名も「ニュー・プラーグ(New Prague)」という街がある。もちろん「プラーグ」とは、チェコの首都プラハ(Praha/Prague)の英語表記である。
チェコの国民的作曲家のアントニン・ドヴォルザークは、1892年から約3年アメリカに滞在している。代表作「新世界より」を作曲したのはこの時期だ。ドヴォルザークは主にニューヨークで暮らしていたが、「新世界より」の作曲後、知人に招かれて中西部のイリノイ州スピルヴィルという街で休暇を過ごす。スピルヴィルには多くのチェコ人が住んでおり、そこにいる時は故郷にいるように感じられたとドヴォルザークは回想している。結局ドヴォルザークはホームシックのために帰国するのだが、ヨーロッパとは大きく異なる東海岸とは違い、中西部には故郷を思わせるものが数多くあったのだろう。
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