今朝のPLANETSアーカイブスは、先週に続き、テクノロジーによってお笑いを拡張した舞台『テクノコント』を企画した、AR三兄弟の川田十夢さんへのインタビューをお届けします。後編では、初めて「死」というテーマを扱った意図や、舞台からのシングルカットとしての社会実装の可能性、他ジャンルの作家とのコラボから得ているものについて、お話を聞きました。(構成:米澤直史/菊池俊輔)
※前編はこちら
※この記事は2018年7月25日に配信した記事の再配信です。
捨てられた技術によって「死」を描く―『捨てスマートスピーカー』
――いまのお笑いは、テクノロジーの領域をネタとして上手く扱えていないと感じるのですが、『捨てスマートスピーカー』では、テクノロジーと人間との新しい距離感が描かれています。
『捨てスマートスピーカー』:スマートスピーカーをペットのように可愛がっていた少年だが、機種が古く勉強の邪魔になるという理由で、母親から捨てるように命じられる。道端に捨てられたスマートスピーカーは大人たちに改造されそうになるが、その状況を知った少年は、大人たちに立ち向かうことを決意する。スマートスピーカーが固有の人格を持つかのように描かれる独特の世界観が魅力的なコント。
川田 時代が進んでも、コントで使われる音の演出はあまり変わっていません。たとえば、どこかに入るときの効果音は、今でも「ウィーン」とか「カランコロンカラン」ですよね。だから全く新しい音の環境としてスマートスピーカーがある状況をやっておきたかったんです。
筒井康隆の短編で、オリンピックが廃れた後の世界でマラソンを走る選手を描いた『走る男』という作品があります(『佇むひとーリリカル短編集』収録)。その世界では、オリンピックでマラソン選手が走っていても、誰も気に留めない。そういった、すでにある価値が失われることによっても、ギャップは生まれる。
スマートスピーカーは、現時点で既に定価の半額以下の値段で売られていいます。最初は期待されていたのに、安売りされて、最後には捨てられる。この一連の消費行動には物語が潜んでいて、それを明確に出せた作品だと思います。日本人は、姥捨山や犬を捨てるといった、何かを捨てるときの感情をよく物語にします。また、八百万の神をはじめ、モノに何かが宿るというのも、神話や小説などでよく描かれる、日本人とは切っても切り離せない表現としてありますよね。
今回の『テクノコント』の公演は『Mellow Yellow Magic Orchestra』と題していますが、これはYMOのデビューアルバム『Yellow Magic Orchestra』になぞらえています。
▲YMO『Yellow Magic Orchestra』
このアルバムでは、最初と最後にゲームオーバーをモチーフにした曲(『COMPUTER GAME』)が収録されていて、それによって「死」と「テクノロジー」が結びつけられている。それと同じように、今回の公演でも最初と最後を「死」にまつわる作品にしたいと考えていました。
今はみんな新しいテクノロジーに簡単に飛びつきますが、新品を使うときは、誰も「死」のことを考えませんよね。キラキラしたものだけでなく、捨てられるものにも望みを託せるように、「老い」や「死」を作品にしたかった。
これまでAR三兄弟は「死」というテーマを扱ってこなかったんです。どちらかといえば80年代的なノリで「できたよ!」「面白いでしょ!」みたいなことをやってきたけど、物語として立体的な表現をするにあたって「死」を扱いたいと考えた。そして、「死」を扱いながらウケるのは実はすごく難しい。だからこそチャレンジしたかったんです。
いいSFには人間が描かれています。『テクノコント』でも、やはり人間を描かねば、というのはあって。だから『捨てスマートスピーカー』はスマートスピーカーを巡る人間の物語なんです。人生を共にしたスマートスピーカーに「カンタロウ」って名前をつけたりね。なんで「カンタロウ」なのかはわからないけど。これはラブレターズ塚本くんのセンスです(笑)。
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