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アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第7回。昨年7月の京アニ放火事件の惨劇は、何によって引き起こされたのか。その悪意の根源に、自身が手がけた『涼宮ハルヒの憂鬱』が解き放った「闇」があることが、深い自戒のもとに告発されてゆきます。

この連載でも繰り返し取り上げているが、僕の2016年7月の講演「アニメ・イズ・デッド」で、いろんな作品のタイトルを槍玉に挙げ、アニメの「ポストモダン化」(連載第5回参照)を分析したのだが、その中に敢えて入れなかった作品がある。
『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006)である。

「俺のこの仕事だけは、時代の波に飲まれない、むしろそれに立ち向かうものだったんだ!」と、当時の僕は言いたかったのだろう。信じたかったのだろう。

しかし、それは惨めな欺瞞に過ぎなかった。

「京アニ事件」の直後、下の記事が出た時、僕は茫然となった。

「”アニメオタク差別”を変えた京都アニメーションの偉業と追悼と。」
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190720-00134932/

京都アニメーションは、私たちアニメオタク(―あえて私たちと複数形で記するのは、筆者である私自身がアニメオタクのひとりであるからに他ならない)にとって、”アニメオタク差別”を変えた、つまり”アニメオタク差別”を超克する分水嶺を作った社として歴史に名を刻まれることになったアニメ製作会社である。その分水嶺とは、間違いなく2006年に京都アニメーションが製作した『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズである。
 京都アニメーションは、端的に言えばこの『涼宮ハルヒの憂鬱』で大ブレイクし、日本はおろか世界に冠たるアニメ制作会社としての地位を築いた。そして『涼宮ハルヒの憂鬱』を基準として、「それ以前」「それ以後」で、アニメオタク全般に対する社会の許容度は劇的に変革されたのである。

僕はこの記事を読んだ時、今までの持論が明らかに間違っていたのだと確信した。
そう、僕は間違いなく「共犯者」、いや、「主犯」に近いのだと。

この連載の過去2回(第5回第6回)を読んでいただいた方々には、もうお解りだろう。
「アニメオタク差別」を克服したオタクたちが、その後どうなったのか?

アニメを攻撃し始めたのだ。

この文章をしれっと書いた古谷経衡氏のような盲目的なオタク(同様のことを日野百草氏も著書『ルポ・京アニを燃やした男』で書いている)を世に放ち、京アニ事件が起きてもただひたすら被害者面して自己憐憫に勤しむような連中を増産したのは、彼らの言うところによると、『ハルヒ』だったのだ。

では『ハルヒ』で何が起こったのか?
何を起こしたのか?


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