今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、2012年のクリストファー・ノーラン監督の映画『ダークナイト ライジング』です。前作において、行為それ自体の自己目的化により、超越的「悪」の体現に成功していたジョーカー。しかしその続編で描かれたのは、左翼的な物語に回帰し原子爆弾を炸裂させようとする「小さな父たち」の姿でした。
※本記事は「原子爆弾とジョーカーなき世界」(メディアファクトリー)に収録された内容の再録です。
勘弁してほしいと、心の底から思った。別に彼女に悪意があったわけじゃないだろう。それはむしろ、善意からの行為のはずだった。映画に与えられたモヤモヤとした気持ちを、僕に共有して欲しいという感情の表れのはずだった。それだけに、怒ることもできなかった。それでも、僕はあのとき「○○さんからあなたのウォールに書き込みがありました」と携帯電話に通知を受けて、何事だろうと確認した瞬間に目の前が真っ暗になった。あわててブラウザを閉じたけれど「原子爆弾」という文字と「前作ほど感銘は受けなかった」というフレーズだけはしっかりとこの目に焼きついていた。
それはアメリカ在住の友人がFacebookの僕のウォールに書き込んだ、『ダークナイト ライジング』の長文感想だった。しかも、結末までが詳細に記されたいわゆる「ネタバレ」全開の文章だった。そして、同作は日本公開までまだ一週間以上の時間を必要としていた。
僕は事務所のデスクに前作『ダークナイト』に登場したヴィランであるジョーカーのフィギュアを飾っている。四年前に出会ったあの衝撃を、僕はまだ忘れられてはいない。あれは出口のない物語だった。この十年のアメコミ・ヒーロー映画が隆盛する中で、9・11という存在は大きくその物語たちに影を落としていたはずだ。あの日国際貿易センターと一緒に、古き良きアメリカの正義は何度目かの、そして決定的な崩壊に直面した。たとえばあの精神的外傷(トラウマ)がなければ『スーパーマン リターンズ』は間接的な家族回復の物語として「帰って」くることはなかっただろうし、『Mr.インクレディブル』がパロディであるがゆえにむしろ批評的に古き良きアメリカの正義=父性の回復を中心的な主題として据えざるを得なかったのもそのせいのはずだ。それはクリストファー・ノーランの手によって何度目かの復活を遂げた映画『バットマン』シリーズも例外ではない。『バットマン ビギンズ』は原作群の複数のエピソードを巧みに下敷きにしながらも、その中核には幼き日に父親を亡くしたブルース・ウェインが、自らコウモリの仮面をかぶることで父を仮構する(ことで疑似的に回復する)エピソードが据えられた。もはや誰も失われた父=古き良きアメリカの正義を回復することはできない。ではいかにして、回復したふりをするのか、という問いがこれらのヒーロー映画ではただひたすら反復されている。そもそも近代社会とは、宗教の代わりに超越的なものが存在するかのように振る舞うこと=物語(たとえばナショナリズムやマルクス主義)を語ることではじめて社会が保たれるものだ……なんて講釈が聞こえて来そうだが、ここで大事なのはそんな常識の確認ではない。ヒーロー映画という、商業的な要請として「正義」や「暴力」を描かされてしまう物語群は、作者たちの意図や原作のモチーフを超えてこの社会へのメタ的な視線が半ばメタ的に入り込んで「しまう」ということだ。原理的には存在できない無謬の正義のヒーローを描くことは、社会というフィクションを描くことと同義なのだ。
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