今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第6回の前編をお届けします。90年代末に進行した「言語」の退潮と「身体」の前景化。それは精神分析的な思想の凋落を促すと同時に、石原慎太郎や小林よしのりに象徴される、身体と国家が直接的に結びついた「平成の右傾化」の始まりでもありました。
自殺した分析医
絶対的な価値観が失われたいま、言葉で議論を尽くしても結論は出ない。だったら結局のところ、圧倒的なカリスマが体現する説得力に頼るしかない――。1999(平成11)年は、こうした「言語から身体へ」の巨大な転換が動き出した年でした。それを象徴するのが、旧制中学で同窓だった二人の「保守派の文学者」が刻んだ明暗でしょう。すなわち、同年4月に東京都知事に初当選した石原慎太郎(のち連続4選)と、逆に7月に自殺する江藤淳です。
忘れられて久しいことですが都知事選以前、石原さんは昭和の政治家として一度「オワコン」になっています。小沢一郎との確執から、1993年の解散時には(小沢ら改革派の新党ではなく)社会党との連立を唱え[1]、じっさいに村山富市を口説いて94年の自社さ連立実現に協力するも、自身の書いた政策ビジョンは自民党内で店晒しに。翌年4月、国会議員在職25年の表彰を受け演説した際、「日本は、いまだに国家としての明確な意思表示さえ出来ぬ、男の姿をしながら、実は男としての能力を欠いた、さながら去勢された宦官のような国家になり果てています」[2]と慚愧の念を述べ突如辞任。その姿に三島由紀夫の最期を感じたとは、ハト・タカの別はあれど妙に馬の合った野中広務の回想です[3]。
その老政治家が「どうも。石原裕次郎(俳優、1987年死去)の兄です」という自虐ジョークで出馬会見を開き、鳩山邦夫(民主党が推薦。のち自民党入りして総務相)・舛添要一(このときは無党派)・明石康(自民・公明が推薦。元・国連事務次長)らの有力候補に無所属のまま圧勝。いっぽうで竹馬の友の江藤は、98年11月の妻の死もあり情緒不安定で、見かねた石原さんは都知事就任後に東京都現代美術館――2012年の「館長庵野秀明 特撮博物館」などで知られる――の館長就任を打診しています[4]。しかし快諾の電話を返してから数日後の1999年7月21日、江藤は自宅の浴室で手首を切り、帰らぬ人となりました。
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