ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。前編に引き続き、役割を与えられた人工知能・エージェントについての議論です。人工知能に欠落している社会的自我と実存的自我の統合による「主体性」の獲得、そしてその先にある、人間の代わりに人工知能によって構成された社会のあり方について構想します。
(5) 社会的自我(me)と実存的自我(I)を持つ人工知能エージェント
マルチエージェントとして外側から役割を与えられたエージェントと、自律した世界に根付く人工知能には乖離があります。これは、社会の側から要請する知能と、存在としての根を持つ知能には乖離があるからです。人間誰しも、外側から期待される自分と、個として内側から実存する自分の間のギャップに苦しんだことがあるかと思います。
ジョージ・ハーバード・ミード(1863-1931)はその論文「社会的自我」(1913年)の中で、社会に対して持つ自我を社会的自我、それを meと名付けました。また、個として深く世界に根ざす自我をIと言いました。
社会的自我(me)と実存的自我(I)は常に緊張関係にあり、混じり合わず、その間に溝があります。知能の持つ自我には、この二つの極があり、その極の緊張関係によって、我々の知能は巧みなバランスの中で成立しています。
社会的自我と実存的自我は知能に二面性をもたらします。しかし、どちらも自分の真実の姿なのです。二つの自我は衝突しながらも、緊張関係を生み出します。一つは存在の根源から、一つは社会的・対人的な場から生成されます。我々は時と場合により、どちらかを主にしながら、さまざまな局面を乗りきります。そのような二つの自我はお互いを回る二重惑星のように回転し、とはいえ、外から見れば一つのシステムとして機能します。
▲図8 社会的自我(me)と実存的自我(I)
人工知能の開発においては、自律型知能としては「実存的自我」(I)を、マルチエージェントの研究としては「社会的自我」(me)を探求して来ました。人工知能の研究はこの二つを無意識のうちに別々に研究して来ました。歴史的にはこれはある程度は計算パワーやメモリの制限によるものでしたが、現在ではそれを言い訳にすることはできません。この乖離は実際の知能の像とは遠いものです。人の知能はある程度自律的に育ちつつ、社会や他者から影響を受けながら形成されるものだからです。そして、まさにそのことこそが、人工知能の研究の進捗を阻害している一因でもあります。乖離している二つの自我を統合しつつ、総合的な知能を作ることが、これからの人工知能を導くことになります(図8)。
自律型エージェントが自律型知性に至るということは、単に外側から与えられた役割を遂行する人工知能ではなく、内面からの人工知能と外面からの人工知能をつなぐことになります。
エージェントの役割は外から与えられます。まさにそのことによって、エージェントは最初から社会的な存在です。エージェントを社会に、そして世界にどれだけ食い込ませることができるかが、マルチエージェントとしての知的機能の高さということになります。そのような社会的自我を持つエージェントに、実存的自我を融合させるということは、与えられた役割による人工知能を脱することではありますが、それを放棄する訳ではありません。また単に独立した存在となることでもありません。社会に連携した存在であると同時に、世界に自律した根を持つ存在となることでもあります。無意識から立ち上がる実存的意識と、社会的自我の意識から押さえ付けられる社会的自己の意識の相克を人工知能に持ち込むことが、新しいステップへ人工知能を導くことになります。
(6)人工生命とエージェント
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