文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。大伴昌司と佐々木守が切り拓いた、子供に居直るのでもなければ、親として生きるのでもない、むしろ「子供がそのまま主体であり得る世界」に向けて文化を整理し製作し伝承しようとしたコミュニケーションのあり方の中に、「オルタナティヴなオタク」の像を見出します。
文化の統合装置としての少年
一八九六年生まれの加藤謙一編集長のもと、『少年倶楽部』は一九二〇年代以降、佐藤紅緑、江戸川乱歩、吉川英治、南洋一郎、大佛次郎、山中峯太郎、高垣眸、海野十三、平田晋策ら大衆作家による幅広いテーマの小説群を展開するとともに、川端康成、横光利一ら新感覚派の少年小説も掲載した。ヴィジュアルな方面でも、三〇年代以降の『少年倶楽部』では加藤や円谷英二と同世代の田河水泡の『のらくろ』や島田啓三の『冒険ダン吉』のような戦前を代表する漫画が連載された。紙芝居作家として出発し、そのデッサン力を活かして「絵物語」の分野を切り拓いた山川惣治も、この雑誌から台頭した。戦後に大ヒットした山川の絵物語『少年王者』や『少年ケニヤ』は『少年倶楽部』の仕事の延長線上に位置する。
少年の友情や成長を大きなテーマとする一方、小説と漫画を横断しつつ、ジャンルで言えば冒険小説、探偵小説、SF、時代小説まで、地理で言えばヨーロッパからアフリカ、戦国時代の日本までを含む『少年倶楽部』は、驚くほど雑多で「教育的」な雑誌であった。加藤謙一は「課外の読み物である子どもの雑誌は、一種の教科書であるのは当然のことだろう」という信念を抱いており[39]、その編集方針が『少年倶楽部』を教育的かつ娯楽的なエンサイクロペディアに近づけた(ちなみに、下中弥三郎率いる平凡社が看板事業となる『大百科事典』の刊行を開始したのは、『のらくろ』の連載が始まった一九三一年である)。明治以降の文学が「青年」を近代的な自意識(孤独や煩悶)と紐づけたとすれば、昭和のサブカルチャーは「少年」を文化の統合装置として利用したのだ。戦後の大伴昌司による雑誌の情報化=百科事典化は、まさにこの戦前の統合装置を再起動するような試みである。
もとより、『少年倶楽部』の作品群も、戦時下の愛国主義と無縁であったわけはない(加藤謙一は敗戦後にGHQの指令で公職追放にあった)。にもかかわらず、小川未明らの童話とは違って、戦前・戦中の『少年倶楽部』の企ては戦後サブカルチャーのさまざまな分野で継承された。この大胆な「遺産相続」は、戦後の精神史において異彩を放っている。例えば、加藤典洋は九〇年代後半の論考で「日本の戦前と戦後はつながらないことが本質である」と述べて、戦前と戦後を調和させる論理がないことを強調したが[40]、こと少年文化に限っては、むしろそのような断絶を屈託なく乗り越えようとする傾向があった。
現に、第二章で述べたように、高垣眸原作の『豹の眼』や『快傑ハリマオ』のように「帝国の残影」を帯びた宣弘社のドラマは、『少年倶楽部』の冒険小説的な海外雄飛のモチーフを再来させ、かつての大東亜共栄圏のヒーローをテレビにおいて蘇らせた。あるいは、内田勝も『少年マガジン』を『少年倶楽部』の伝統を引き継ぐ雑誌として位置づけており、同世代の梶原一騎に協力を依頼するときにも「『マガジン』の佐藤紅緑になって下さい」という口説き文句を使った[41]。
この内田の誘いに乗って『あしたのジョー』や『巨人の星』等のいわゆる「劇画」の原作者となった梶原もまた、『少年倶楽部』以降の少年小説の嫡子である。彼は自伝のなかで、劇画のルーツとして敗戦直後の少年誌ブームに言及しつつ、山川惣治に加えて『大平原児』『地球SOS』の小松崎茂、『黄金バット』の永松健夫、『砂漠の魔王』の福島鉄二ら「絵物語」の作家たちを挙げた[42]。同じように、大伴昌司も『少年マガジン』の一九七一年の特集「現代まんがの源流」で手塚治虫を「映画的表現法」の導入者として位置づける一方、山川や小松崎らの絵物語についても「後の少年誌が、まんがを中心とした視覚雑誌として発展していくための素地となった」と適切に位置づけている(山川の代表作『少年王者』を「七〇ミリ映画のような画面構成」と評するのも面白い)。この簡明な漫画史は『少年マガジン』の劇画、さらには大伴自身のヴィジュアル・ジャーナリズムの歴史的な「起源」を探索する試みでもあっただろう。
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