本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。一貫して「境界のない世界」を擁護してきた猪子寿之さん率いるチームラボの作品コンセプトに、宇野常寛はある時期まで批判的な目を向けていました。しかし、鑑賞者の身体そのものを没入させる作品を目の当たりにし、その考えを改めることになります。(初出:『小説トリッパー』 秋号 2017年 9/30 号)
4 マリオはどこにいるのか?
では、ここから先は猪子寿之とチームラボが、この「境界のない世界」をいかにその作品において実現してきたかを論じていこう。人間と事物(鑑賞者と作品)、事物と事物(作品と作品)、人間と人間(鑑賞者と鑑賞者)の境界線を、いかにして消去させてきたかについて考えてみようと思う。
ただし、その前にクリアしておかなければならない問題がある。
私と猪子は十年来の友人関係にあるが、それとは別個の問題として、私は数年前までこうした猪子のコンセプトに極めて懐疑的、もっと言ってしまえば批判的ですらあった。
それはチームラボによる一連の作品群の背景にある、猪子の日本的な空間認識=超主観空間に対する解釈にある。猪子が「超主観空間」について、国産コンピューターゲームのスクロール画面を例に説明していることは既に述べた。猪子の説明に従うのなら大和絵から〈スーパーマリオブラザーズ〉まで、「超主観空間」を用いた日本的な平面表現の本質は全体に焦点が合わさり中心を持たない脱中心性(横スクロール画面)と、鑑賞者/プレイヤーの感情移入装置となるインターフェイス(マリオという操作可能なキャラクター)によって構成されていることになる。私たちが〈スーパーマリオブラザーズ〉の世界に没入するためには、マリオが走り、飛びはねる世界を俯瞰して見ていられることと、マリオというその世界の中に存在するプレイヤーの分身が必要なのだ。私たちは自身の世界における位置を俯瞰して把握することはできない。しかし、私たちは自分が操作するマリオの位置とその世界の全体像を俯瞰的な位置から把握することができる。そう、私たちがこのゲームに没入するためには、横スクロール画面の描画だけでは不十分で、マリオという分身がその画面中に存在しなければならないのだ。マリオがいてはじめて、超主観空間は成立する。マリオの存在が、鑑賞者と絵画、プレイヤーとゲーム画面との境界線を消失させるためには必要なはずなのだ。
だが、私の知る限りチームラボの作品に鑑賞者の分身が出現したことは一度もない。そう、チームラボの作品には「マリオがいない」のだ。
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