本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。現代の私たちの目には平面にしか見えない伝統的な日本美術の表現は、独自の論理構造で空間を平面に置き換えていたのではないか、と猪子寿之さんは考えます。チームラボが『超主観空間』と呼ぶこの日本の空間認識こそが「境界のない世界」の表現で重要な役割を担うことになった、その理由を宇野常寛が分析します。(初出:『小説トリッパー』 秋号 2017年 9/30 号)
3 超主観空間と主体の問題
〈しばしば、伝統的な日本美術については、日本には西洋の遠近法(パースペクティブ)がなかったので、平面的に描いていたのではないか、といわれます。しかし、当時の人々には、世界は、日本美術のように見えていて、だから、そのように描いていたのではないだろうか?と、チームラボは、考えています。そして、現代人がパースペクティブな絵や写真を見て、空間だと感じるように、昔の日本の人々は、日本美術を見て空間だと感じていたのではないか?つまり、日本美術の平面は、西洋のパースペクティブとは違う論理が発達した空間認識だったのではないだろうか?と、考えています。そして、この日本の空間認識を、チームラボは、『超主観空間』と名付けています。〉(7)
一般的に私たちは日本の古典的な絵画を平面的だと解釈している。それは、西洋の絵画が開発したパースペクティブと呼ばれる論理構造によって、空間を平面に、三次元のものを二次元に整理して置き直す表現に私たちは慣れきっているからに過ぎない、と猪子は問題提起する。もちろん、すべての技法がそうであるように、パースペクティブもまた人間の脳の機能を利用した錯覚にすぎない。一定の論理に基づいて近くのものを大きく、遠くのものを小さく描くことによって、脳は無意識にこれまで蓄積した情報を呼び出してその平面を空間であるかのように錯覚する。そこで猪子はこう考える。日本の古典的な絵画は平面的なのではなく、パースペクティブとは異なる論理構造で空間を平面に置き換えていたのではないか。そこには独自の論理構造があるのではないか、と。ひょっとしたら、近代以前の日本人には、空間は大和絵のように見えていたのではないか、と。
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