文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は時代の転換点となった大阪万博的な風景と結びつけながら、鬼才として知られる実相寺昭雄監督の目線に迫ります。
子供のメタフィクション
思えば『ウルトラQ』の第一話では、高速道路というインフラの工事が太古の恐竜を呼び覚ました。「怪獣殿下」のエピソードはこの「工事中の日本」というモチーフを、万博前夜の日本の団地のなかに呼び出しつつ、中流の子供と共犯関係を結んだ。『ウルトラマン』は産業社会の環境を養分とする怪獣たちを浮上させる一方、郊外の未完成のインフラにも目配りしていたという意味で、六〇年代後半の過渡的な「風景」をよく示している。
この共犯関係は、ジェロニモンやレッドキングをはじめ多くの怪獣が登場する『ウルトラマン』の第三七話「小さな英雄」にも認められる。この物語はピグモンが銀座の松屋のおもちゃ売り場に出現し、人間に警告を発する場面で始まるが、面白いことにそこにはウルトラ怪獣のおもちゃが陳列されていた。これは現代ふうに言えば、アニメの主人公が自分の二次創作の売られているコミケを散策するような、ひどく奇妙な演出である。そこでは、作品世界(虚構)と作品を消費する世界(現実)が地続きになっていた。そもそも、この「小さな英雄」というエピソードそのものが、人気怪獣たちを復活させ、いわば巨大な「おもちゃ」のように闘わせるサービス心旺盛な物語であった。
作り手側が『ウルトラマン』の消費される現実世界を作中に取り込んでしまうこと――、これは一見するとメタフィクション的な実験に見えるが、脚本を担当した金城も含めて、作り手は恐らくそこまで凝った考え方はしていなかっただろう。『ウルトラマン』が複製可能な「商品」(ウルトラマンのお面や怪獣の人形)であるということは、彼らにとってごく自然な認識であったのではないか。通常のメタフィクションが現実と虚構の境界線を意識しつつ、虚構の虚構性を暴き立てるものだとすれば、『ウルトラマン』は現実と虚構を気軽に繋げてしまう「子供のメタフィクション」だと言えるかもしれない。
逆に、続く『セブン』では子供の出番そのものが少なくなり、「怪獣殿下」や「小さな英雄」に見られた無防備なメタフィクション的性格も希薄になる。『セブン』は総じて現実(作品外)と虚構(作品内)をきっちりと分けて、物語を自律させようとした。だが、その後のウルトラシリーズは再び、自らが子供のおもちゃとして消費されているという状況に回帰する。なかでも、市川森一脚本の『A』の最終話は、ウルトラマンごっこをして遊ぶ子供の信頼を獲得するために、主人公の北斗星司が兄貴分として自らの正体を明かすという象徴的なエピソードであった。繰り返せば、このメタ的な演出は表現上の実験というよりは、むしろ作品の向こう側にある子供の消費者共同体との絆の再確認と考えるべきだろう。
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