文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。政治性と距離を置き、徹底的に技術を志向した円谷英二はそれゆえに「あどけなさ」や「子供」の目線を持っていました。それらはやがてウルトラシリーズへと繋がっていくこととなります。
主体なき技術者のあどけなさ
今日の私たちは国策映画に対して強い警戒心を抱くし、それは当然である。ただ、国策映画を愛国的イデオロギーの権化としてむやみに悪魔化するのは、認識を曇らせるだけだろう。戦時下において、国家は映画や写真のテクノロジーを収奪したが、技術者も国家を表現の場として利用した。そして、この国家と技術者の共犯関係のなかでときにジャンルの越境も生み出される。国策映画はジャンル間のコミュニケーションの場でもあった。
現に、戦争と美術と言えば必ず名前のあがる一八八六年生まれの画家・藤田嗣治も、円谷の特撮と無関係ではなかった。藤田は戦時下に多数の戦争画を手掛けたが、真珠湾攻撃の場面を描くにあたって『ハワイ・マレー沖海戦』の巨大なオープンセットを頻繁に見学に訪れていた。監督の山本嘉次郎は「秋の陽の、カッカと燃えるようなオープンで、藤田画伯は例のオカッパ頭に大きな経木製の海水帽子をかぶり、毎日毎日、作りものの真珠湾の写生をしていた」と述懐し、こう続けている。
水深は、人間の腰の上くらいまである。満々とたたえられたプールの水面に、赤トンボが沢山飛んで来て、卵を産みつけていた。その赤トンボを食おうとして、ツバメが襲って来る。このミニチュア(模型)の比率からすると、赤トンボが丁度戦闘機の大きさになる。その戦闘機が爆撃機に食われまいとして、壮絶快絶の一大空中戦が、ニセ真珠湾の上で演じられていた。
それをオカッパの藤田さんが、無心に描いている後姿はまことにアドケないものがあった。[13]
国策映画であったにもかかわらず、海軍が『ハワイ・マレー沖海戦』の製作への協力を渋ったため、円谷たちはやむなくアメリカのグラフ誌に載った情報をもとにオープンセットを作った。敵国の雑誌のイメージを複製したこの「作りものの真珠湾」をさらに「写生」して描かれた藤田の《十二月八日の真珠湾》(一九四二年)はまさに複製の複製、シミュレーションのシミュレーションに他ならない。しかも、この絵画作品では敵も味方も姿が見えず、ただ真珠湾中央に白い水柱が爆撃の結果として屹立し、その周辺に煙が立ち上るだけである(この構図は海軍省報道部提供の真珠湾写真の「視覚的追体験」でもある[14])。藤田は文字通り「人間不在」の特撮のオープンセットを忠実に写生したのだ。そのせいで、本来最もドラマティックであるはずの太平洋戦争開戦の場面は、人間を介さない静かな自然現象のようにも見えてくる。
そして、この何重にもメディア化・仮想化された複製芸術家・藤田嗣治の根底に「あどけなさ」があったという山本嘉次郎の観察は、彼の戦争画の特性を図らずも鋭く言い当てていた。例えば、美術評論家の針生一郎は、戦争画を量産した藤田のことを辛辣に批判している。
おそらく、戦争はこの精神不在、技術至上の画家にとって、第一に、題材と技法の拡大をもたらす点で、第二に、権勢欲と弥次馬根性を満足させてくれる点で、わくわくするような昂奮の的だったのだろう。藤田の仕事はすでにレディ・メイドだから、どんなオーダー・メイドでも利くのだ、と当時語った木村荘八の言ほど、適切な批評はないだろう。[15]
メディアの寵児であった藤田は、すでに川端の『浅草紅団』にも「パリジェンヌのユキ子夫人」同伴でカジノ・フォーリーのレビューを見学に訪れる「パリイ帰りの藤田嗣治画伯」として登場しており、新感覚派のメカニズムの文学とも早い段階で交差していた。岡崎乾二郎が指摘するように、藤田は「受動的」なメディウム(霊媒)として「自分自身の身体さえ環境のひとつ」にしてしまった主体なき画家だが[16]、この巫女的アーティストとしての藤田が、メディアと機械の形作る戦時下の「メカニズム」において誰よりも輝いたのはある意味で当然である。
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