アニメでありながら「現実よりも乖離した世界」を描こうとした『Gレコ』。この意欲作に富野監督が込めた思いとは何だったのか――アニメ史的観点から石岡良治さんと宇野常寛が対談形式で読み解いています。(本記事は2015年7月21日に配信した記事の再配信です/「サイゾー」2015年7月号)
(画像出典)
▼作品紹介『Gのレコンギスタ』監督・脚本/富野由悠季 制作/サンライズ 放送/2014年10月~15年3月(MBSほか)宇宙世紀が終わって1000年が経ったとき、人類は技術進歩に制限をかけることで新たな繁栄を作り出していた。 地球上のエネルギー源として宇宙からフォトン・バッテリーがもたらされ、その輸送経路である軌道エレベーター「キャピタル・タワー」と周辺地域は神聖視されている。そのエリアを守護する組織キャピタル・ガードの候補生であるベルリ・ゼナムは、初の実習で未知の高性能モビルスーツ「G-セルフ」の襲撃を受ける。それがすべての始まりだった──。
アニメなのに「現実よりも乖離した世界」を描いた『Gレコ』
石岡 近年、宮﨑駿の『風立ちぬ』、高畑勲『かぐや姫の物語』と、アニメ界の巨匠の引退作らしき作品が続きましたが、正直どれも「これで引退は許されないんじゃないか」と思うところがありました。その中にあって、『Gのレコンギスタ』(以下、『Gレコ』)は意欲作だった。73歳の富野由悠季が、枯れることなく変なことをやっている。ただ、いきなり新しいことを始めてしまってそれをモノにしきれなかった。例えば、5つの勢力を同時展開させることがそう。基本的には、これはすごくいいんです。『機動戦士Zガンダム』(85年)以来、富野ガンダムの基本は「三つ巴」だった。二大勢力が争っていて、そこに3番目の新興勢力が現れる構図。それが『Gレコ』では中盤で勢力が増えていって、最終的に「五つ巴」になる。普通なら作家として脂が乗っている若手~中堅のときに持ち込むような新しい試みを73歳がやっていること自体は買いたいんだけど、そのせいで難解になってしまっていた。そもそも尺が短すぎた。1年間かけないと語りきれない話を2クールでやったことによる混乱があって、それを解きほぐす作業をまだ誰もできていないんじゃないか。僕も3周しましたが、まだよくわかっていないところがあります。
宇野 僕は本当に最初は話がまったく理解できなくて8話あたりで一度挫折して、しばらくして15~16話まで観てまた挫折して、その後ようやく最終話まで観終えました。まあ、内容がまったく理解できない、説明不足で情報量を詰め込み過ぎだという批判は正しいと思うけれど、ラスト数話はそれでも流れで見せてしまう演出の力技のほうが勝っていたと思うんですよね。全話このクオリティが維持できれば、普通に傑作扱いだったんじゃないかとすら思う。逆にいえば、ラスト数話まで「これはなんだろう」と思って観ていた。ただそれは必ずしも批判じゃなくて、富野由悠季がすさまじいことをやっているから。もともと彼の演出テクニックとして、物語的に整理されていないところを意図的に残すことによってリアリティを出すというのは80年代以前からよくあった。けれど、なんと『Gレコ』は全部それで作られている。
これは結構恐ろしいことで、そもそもこんなに映像というものが20世紀に発達したのは、三次元の体験は特定の狭い共同体の中のコンテクストをわかっていないと共有できないけれど、一度それを二次元に焼き直して映像にして、虚構にしてしまうとわかりやすく整理できるから。だから映像メディアというものが生まれたことによって初めてグローバルコンテンツが生まれたし、今までにない規模で社会というものを運営することができるようになっていった。
その意味では、作家の意図したもの以外配置できないアニメは、究極に統合された、現実の解離性を全く孕まない映像を生むことができる究極の映像装置なわけです。だからグローバル化の進行と並行して、世界的にメガヒットする映画がアニメ中心になっていったわけだけど、その状況下において『Gレコ』は、わざわざアニメで現実以上に乖離した状態を執拗に描いている。これは要するに富野由悠季の反時代的なメッセージだと思う。誰もが映像=統合されたリアリティにカジュアルに接することができる時代にあって、もはや作家が100%コントロールできる映像でしか、バラバラに乖離した現実に人々が向き合うことはできないってことだと思うんですよね。
例えばベルリ[1]がカーヒル[2]をなぜ殺したのかはよくわからないけれど、そのよくわからないところも含めて、うまく説明できない、腑に落ちない「現実」をわざわざアニメでシミュレーションしている。話が終始噛み合っていたり、人物の行動がいちいち腑に落ちるのは物語の中だけ。というか、そもそも我々が物語に求めるのは説明可能な、統合された世界という虚構なんですよね。でも『Gレコ』はほとんど嫌がらせのようにそれを拒否していて、アニメでわざわざ、それも執拗に現実並みに乖離した世界をシミュレーションしている。
石岡 そう、全員の思惑がどうもフワフワしてるんですよね。公式サイトのあらすじを読み返しても、いまいち掴めない(笑)。確かに、“非統合”の可能性がここにはあるのかもしれない、と思わされますね。
主人公に恋人ができなかったのはなぜか
宇野 メカ演出は普通に素晴らしかった。あれだけバラバラのデザインワーク[3]で作られたものを同じ絵に収めて、あの尺でまとめあげるということをやれる演出家は世界中で富野由悠季だけだと思う。これは押井守がよく言うことだけど、通常はアクションを入れると物語は停滞するもの。それが、モビルスーツ戦闘自体が登場人物たちの思想のパワーバランスとリンクされていて、物語的な緊張感を演出することができていた。
ここから先は有料になります
チャンネルに入会して購読する
月額:¥880 (税込)
- チャンネルに入会すると、チャンネル内の全ての記事が購読できます。
- 入会者特典:月額会員のみが当月に発行された記事を先行して読めます。
ニコニコポイントで購入する
-
【特別再配信】稲見昌彦「ヒトと超人の境界面――身体拡張のアクチュアリティ」
-
一覧へ
-
福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第三章 文化史における円谷英二 3 プロパガンダと新しい知覚(2)【毎月配信】