文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は円谷英二が特技監督として関わった傑作戦争プロパガンダ映画の分析から、「技術」志向の映画が生み出した新しい知覚について語ります。
3 プロパガンダと新しい知覚
技術を志向した世代
私はここまで文化史的な見地から、一九〇〇年前後に生まれた円谷英二、三木清、稲垣足穂、木村専一、村山知義、川端康成、衣笠貞之助、山本嘉次郎、森岩雄らにゆるやかな世代的連続性を見出そうとしてきた。あえて乱暴に要約してしまえば、彼らは文化生産に「技術」の問題を本格的に持ち込んだ最初の世代である。彼らにおいては総じて、文化・芸術は一人の天才の作品ではなく、むしろ主体を超えた技術的な「メカニズム」の産物として捉えられる。言い換えれば、この世代の一部の文学者のあいだで流行した私小説的な自己表現ではなく、新しい技術によって新しい現実を「構成」することが彼らの狙いとなった。
この世代のリストには、文学も芸術も集団化可能な「技術」と見なした一九〇〇年生まれのジャーナリスト大宅壮一、戦時下には『FRONT』の製作に関わり戦後も日本を代表する写真家として名を馳せた一九〇一年生まれの木村伊兵衛、その『FRONT』のアートディレクションを手掛けた後に装丁家として活躍した一九〇三年生まれの原弘、フランス象徴詩と唯物論を交差させて文芸批評を革新した一九〇二年生まれの小林秀雄、その小林の妹と結婚し『MAVO』でグラフィックデザインをやる一方で漫画『のらくろ』で一大ブームを巻き起こした一八九九年生まれの田河水泡、日本アニメーションのパイオニアである一八九八年生まれの政岡憲三、メディアと言葉の相互作用に小説家として鋭敏な感覚を示した一九〇二年生まれの中野重治、日本の美術界にシュルレアリスムを導入した一八九八年生まれの福沢一郎と一九〇三年生まれの瀧口修造、および前章で言及した小津安二郎、成瀬巳喜男、林芙美子らを付け加えることができる[1]。丹精込めて育てた特撮によって世界的名声を獲得した円谷は、この技術を志向した世代のなかでも突出した存在であった。
と同時に、彼らは壮年期に戦争と出会って、仕事の方向性を大きく左右された世代でもある。前章では、この戦争経験のもたらした表象を「帝国の残影」という與那覇潤のモデルによって説明したが、ここからは技術やメディアに関わる観点を導入してみよう。結論から言えば、二〇世紀の世界戦争はたんに高度な軍事技術を用いただけではなく、エンターテインメントも含めた他の領域の技術をも「軍事化」したのであり、円谷の特撮もそこでは無垢なままではいられなかった。
プロパガンダの時代
東宝が国策映画に乗り出していくのは一九三〇年代末のことである。折しもライバルである松竹がメロドラマ的な『愛染かつら』(一九三八年)に代表される「大船調」で一世を風靡していたが、東宝はそれへの対抗として、戦意高揚を目指した国策映画を積極的に手掛けるようになり、特撮の専門家たちもそれに従事した。『海軍爆撃隊』(一九四〇年)以降は円谷英二の特殊技術課の人員も増やされ、円谷の片腕となった撮影技師の川上景司や美術の渡辺明もメンバーに加わり、森岩雄が陣頭指揮をとった『ハワイ・マレー沖海戦』では彼らの技術が存分に発揮された。
このプロパガンダの時代は必ずしも狭隘なナショナリズムに支配されたわけではなく、ときに「普遍」への意志を映画やデザインに植えつけた。円谷の出席した戦時下の座談会では「ビルマ人にも佛印人にもインドネシア人にもわかる映画」を作るべきで「日本人固有の倫理や心理に固執」してはならないことが強調され、円谷自身も技術の底上げに強い意欲を見せた[2]。幸か不幸か、そのような普遍的な広がりをもった国策映画が実際に製作されたとは言い難いものの、日本映画の弱点を克服して作品を「大東亜」内部の他者に届けなければならないという鋭い批評意識が、皮肉なことに戦争によって育まれたのは確かである。それに比べれば、今日のクールジャパン政策は自己批評性を欠いた不出来なプロパガンダにすぎない。
あるいは、国外向けに日本や大東亜共栄圏のPRを担当した東方社刊行のグラフ誌『FRONT』(一九四二年から四五年までに十冊刊行)も、英語・ロシア語・中国語・モンゴル語等の十六カ国語のコメントを記載しつつ、モダニズムの写真技術を生かしたダイナミックな機械美や、満州国における五族協和のヴィジョンを示した。一九〇三年生まれの東方社理事長の岡田桑三やデザイナーの原弘は、ソ連の構成主義的なプロパガンダの技術を深く研究し、陸海空の軍備や工場の大規模生産を題材とした驚くほど鮮烈な誌面を作り出した。先述したジョン・ハートフィールドがフォトモンタージュを反ナチスのプロパガンダとして用いたように、本来は存在しない場面を一つの目的に向けて「構成」するモンタージュは、しばしば「前衛」と「プロパガンダ」を結びつけた。しかも、原弘の弟子の多川精一によれば、写真は事実を映すという「信仰」が強かった時代ゆえに、モンタージュ写真による演出も真実性の錯覚を喚起し得たのであった[3]。
もとより、『FRONT』の作り手たちはその思想信条からすれば、戦争を肯定するタイプではない[4]。多川が言うように、東方社はあくまで「技術者集団」であり、原弘も木村伊兵衛も岡田桑三も「ものを創ることの好きな、いわば第一級の職人」であった。だが、オリンピックや万国博覧会が中止されたため、先鋭な写真家やデザイナーの向かう先は国家宣伝しか残されていなかったのだ[5]。これと似たことは円谷にも言える。彼は決して狂信的な愛国者ではなかったが、当時の世情のなかで映画や飛行機への芸術的欲望を満たすには、プロパガンダに乗りかかる以外の道はほぼなかっただろう。円谷や原は生粋の「工作人」(ホモ・ファーベル)であるがゆえに戦争遂行のメカニズムに拘束されたが、だからこそ、戦後の高度経済成長時代の「ものづくり」の要請にも柔軟に対応することができた。
いずれにせよ、現実のイメージ素材を組み合わせ、新たな意味を発生させる映画や写真のモンタージュは、いつでも宣伝の技術に転化し得る。加えて、戦時下においては映画そのものが一種の「兵器」となったことも見逃せない。例えば、一九一一年生まれの映画批評家・今村太平(マーシャル・マクルーハン、瀬尾光世、花森安治と同い年)は一九四三年の著書のなかで、望遠鏡撮影、高速度撮影、空中(水中)撮影といった映画の特撮が「日常的肉眼的な見方の否定」であると述べつつ、次のように指摘していた。
今日の戦争から映画をとり去ることはできない。それはニュース映画が国民の志気を鼓舞するとか対外宣伝に使われるとかいう場合をさすのではなく、軍事的に今や映画が不可欠になりつつあるという事実をさすのである。ドイツのP・K〔引用者注:ゲッベルスの指揮下でプロパガンダを担った宣伝中隊〕の如きも、ニュース撮影を第一目的にしているのではなく、作戦上の必要から映画を撮っていることはあきらかである。
肉眼の限界を超えて戦線を記録したフィルムは、プロパガンダ的なニュースだけではなく、きわめて有益な軍事資料にもなる。今村が鋭く述べたように、映画はまさに「思想戦における最大の武器である以上に、はるかに直接に、近代戦における重要兵器の一つ」なのだ[6]。
この機械化した映像のリアリズムは、今なお更新され続けている。例えば、軍用の無人機ドローンは、地上の眼とヘリコプターやセスナによる従来の空撮の眼の「あいだ」の領域を格段に広げ、ニュース、災害救助、野外ショー等の幅広い分野の「眼」を書き換えてしまった。ドローンで撮られた動画は当然ニュースやイベントだけではなく偵察や監視の用途にも利用可能なわけだが、あえて悪趣味な言い方をすれば、視聴者は世界の秘部にタブーなく侵入していくその猥褻な軍事的エンターテインメントにこそ興奮しているのだ。今村はこのような新しい機械的=軍事的知覚の出現を早い段階でつかんでいた。
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