「道徳ゲーム」の終焉
「道徳ゲーム」導入に代えて
ここに、「道徳ゲーム」と呼ばれる一つのカードゲームがあります。プレイヤーは初めに、何枚ものカードを配られます。プレイヤーは順に、様々な状況に応じて手持ちのカードから一枚を選び取り、審判に見せます。審判が、それに得点を付け、プレイヤーは得点を溜めて行くのです。得点は、カードの「道徳性」によって決まります。
例えば「老人に座席を譲る」カードや、「見て見ぬ振りをする」カード。ある状況で「老人に座席を譲る」べきか、いや老人が「恥ずかしい」と思わないように「見て見ぬ振りをする」べきか、プレイヤーはそれを慎重に、真面目に、厳重に推測してカードを出さねばなりません。「老人に座席を譲る」カードは、概ね点数が高いようです。一方、女性の服が乱れていて、下着が見えている場合、「教えてあげる」カードを出すべきか、「見て見ぬ振りをする」カードを出すべきかは、かなり判断が困難になります。どちらの方が得点が高いかは、審判の判断に任されます。
注意しなければならないのは、自分が正しいと思うことを貫いていては、このゲームでは高い得点を得られないということです。大抵の状況に於いて、「戦争反対!」カードは、概ね点数が高いようです。どうしても戦争に勝って国の財政を立て直す必要があるとしても、「戦争に賛成する」カードを出すのは好ましくないのです。審判は、戦争をしなかったために国に大量の餓死者が出ることが想定されるにしても、それについてはあまり触れないので、もしあなたが餓死者のことを思いやっていたとしても、安心して「戦争反対!」のカードを出せば良いのです。
さて、このゲームは随分と流行っておりました。ところが困ったことに、「道徳ゲーム」を実施すると、毎回何人かの抗議者が現れるのです。今回も、一人の男性が抗議しました。
「馬鹿馬鹿しい! どんなに他人を気遣っても、結局点数を決めるのは審判じゃないか! 同じカードなのに、点数が高いこともあれば低いこともある。一体、この点数は何によって決められているんだ! 昔・・・戦時中なら、「お国のために戦う」カードは、最も高い点数だったと聞く。それなのに、今私が出したこのカードに、審判は目の色を変えて最低の点数を与えた! なんてことだ! 結局、審判の気分で全てが決められているじゃないか! 如何に審判の気分に迎合するか、どれほど審判に気に入られるか、それが勝負の全てじゃないか! 審判の得点基準は、一体どうなっているんだ!」
審判は少したじろぎましたが、「ゲームを邪魔してはいけません」と言って、彼を退場させました。他のプレイヤー達は、概ねゲームのルールに不満を持ちませんでしたから、その決定に同意しました。
ところで、一体この「道徳ゲームをする」こと自体を、「道徳ゲーム」のカードの一つとしてゲームに入れてみてはどうでしょうか。このゲームをすると、毎回何人かの人間が、さっきのようにルールに疑問を感じて抗議します。ところが多くの人は、その抗議を充分に吟味することもなく、「僕はゲームが楽しいから」と言って、抗議者を爪弾きにします。つまり、多数者の楽しみのために、少数者は排除されてしまいます。少数者の抗議が、如何に的を得た「正しい」ものであったとしても、多数者の意見だけが優遇されるのです。そうだとすれば、「道徳ゲーム」において、「道徳ゲームをする」カードを出すことは、あまり良い得点を与えられることではないように思われます。でもどうでしょう! 審判は、そんな判定を出してしまえば「道徳ゲーム」が成り立ちませんから、「道徳ゲームをする」カードには、最高の点数が与えられました。逆に、少しでもルールを変えようとする者には、厳重な罰則が与えられました。それにしても、「道徳ゲーム」のルールは、必ずしも昔から同じだったというわけではありません。それこそ昔は「お国のために戦う」カードは、最高のカードだったのですが、今はそうではありません。カードの得点の基準は、決して明確に説明されることはありませんでした。時の審判の決定が絶対だったのです。
「道徳ゲームをする」カードが高い点数を与えられたことによって、多くの者は自分が「道徳ゲーム」に参加していることに、さらに一層の誇りを持ちました。そしてゲームを、思う存分に楽しんでいます。だけど考えてみて下さい。結局、審判が言うことが全てで、少数者の意向は踏みにじられてしまうのです。ゲームのルールに馴染めない者は、いつものけ者にされてしまいます。そればかりか、ゲームの参加者は、「道徳ゲーム」に参加しない人を軽蔑さえしています。多数者は、少数者のことは放っておいて、いつもいつも自分たちだけがゲームを楽しむのです。これはこれで当然のことですが、今や「道徳ゲーム」は、「道徳的なゲーム」なんかでは、到底あり得なくなってしまったのです・・・。
一
A「さあ、僕たちももう大学二年生だ。僕らは立場こそ違うが、各々考えることが大好きで、受験を終えて落ち着いたこの一年間で色々なことについて考えてきたと思う。」
B「そうだね。如何に生きるべきか、なんて言うと仰々しいけど、生き方の指針、物事の考え方などについて、まあ自分なりに考えてみたわけだね。」
A「で、納得のいく結論は得られたか?」
B「残念ながら、それにはほど遠いよ。どんな問題について考えても、必ず暗礁に乗り上げてしまうんだ。かと言って僕は宗教家じゃないから、世界は神様が創られました、神様の意志に沿って生きましょう、なんてのは信じられない。結局、惰性で生きているようなものだ。」
A「うむ。今の日本は惰性だけで生きていけるほど豊かだからな。」
B「ああ、だけどなんだか釈然としない。僕は僕なりの信条が欲しいわけだ。それで、君はどうやらそれらしいものを見付けたようだね。だから今日は、君からそれを一通り聞いて、参考にしたいと思うんだよ。」
A「なるほど。解った。」
B「じゃあそういうわけで、よろしくね。」
A「うむ。こちらこそよろしく。」
B「・・・で、率直に言えば、さっそく君の考え方を聞きたいのだけれど。」
A「僕の考えは、何と言うか・・・構造的だ。それ故に、他人に説明することが困難なのだ。そこで僕は、僕がこの話をする時に毎回使う方法で、君に説明することにする。」
B「それは、どんな?」
A「僕の考えの中でも取り分け重要な位置を占める概念を三つの原理として抽出し、それらと対置されるべき「常識」や「道徳」への懐疑と議論を通じて、僕の考えの全般を次第に明らかにして行くという方法だ。」
B「・・・何か、すごく難しそうだね。」
A「いや、こういったことは、聞き手である君が理解しておくべきことではない。君は普通に、僕の話についてきてくれれば良い。」
B「安心したよ。僕は、君の考えが構造的であるかどうか、なんてことは気にせず、普通に聞いていれば良いんだね?」
A「そうだ。ただ、今言った理由で、僕の考え自体の多くは、基本的に何かに対する対置や反論として語られるだろう。そのことは一応気に留めておいてくれ。それだから僕は、僕の話に、単純な説明としてと言うよりはむしろ議論としての性格を持たせるつもりだ。よって君が、僕の話の矛盾や誤謬に対して注意深い眼差しを持っていてくれることが望ましい。」
B「解った。努力するよ。」
議論の準備
二
A「先ずは議論をどのように進めるか、その方向を示しておこうと思う。」
B「準備はいいよ。」
A「君の欲している「生き方の指針、物事の考え方」というのは、常識的なそれとは異なったものだよな?」
B「??」
A「つまり、常識的な「生き方の指針」だったら、何もこうして考えたりする必要などないわけだ。僕も君も、常識を知っているからな。「人のためになる仕事をして、自分もそこそこに豊かになる」、精々そんなところでいい。こんな議論をすること自体が、常識的に生きることには、むしろ邪魔なわけだ。今の若者の常識なら、例えば「適当にやって、みんなそこそこ幸せ、それでいいじゃん」ということだ。」
B「うん。勿論、そんなことじゃない。もっとこう、巧く言えないけど根本的な、一貫した考え方が欲しいわけだよ。何が本当に正しくて、何が本当に間違っているか、そんな判断が出来るような。」
A「・・・なるほどな。それならば、僕たちは常識の枠に捕らわれることなく、様々なことについて「何故だろう?」「本当だろうか?」なんていう問いをぶつけてみなければならない。常識自体が「本当は」間違っているかも知れないわけだから。」
B「うん。」
A「だから、だ。基本的には、常識を食い破る方向で議論を進めたいと思うのだ。」
B「常識を食い破る?」
A「普段僕たちがどっぷりと浸かっている常識の、特に根本的なところ。その部分の一つ一つに、「何故?」「本当か?」という検定を行っていく。で、そのうちにまあ、巧く行けば何が本当に正しくて、何が本当は間違っているか、例えば僕たちの常識の何が正しくて、何が間違っているのか、なんてことが、少しずつ見えてくるのではないだろうか、と。」
B「でもちょっと待ってくれよ。僕らは普段から常識にどっぷり浸かってる。その中から幾ら「常識を食い破ろう」としても、結局常識の枠からは逃れられないんじゃないか。」
A「うむ。よろしい。早速「本当か?」という態度だな。だけどまあ、常識からは常識しか生まれない、と考えるのは早計だ。歴史を見てもそうだ。昔は、地球が丸いなどということは誰も信じていなかったが、今は、地球が丸いことは子供でも知っている。つまり、常識が変わったわけだ。」
B「だけど、それは長い年月が経ったからじゃないのか? 初めてそれが言われたときは、誰もそんなことを信じなかった。それに、それは科学じゃないか。科学はまあ、常識というのとは随分離れている。「空間は曲がっている」だとか「速く動くものは、遅く動くものに比べて時間の進みが遅い」なんてのは、ちょっと常識的とは言いかねるよ。」
A「そうだな。だけど、一つ言えることは、常識は大きく変質することがある、ということだ。」
B「うん。長い年月を経てね。」
A「いや、そうとも限らない。例を出すなら、例えば宗教家だ。常識的にみれば、教祖アサハラなんて狂ってる。で、あんな宗教に入ることだって正気の沙汰じゃない、と思える。だが入ってしまえば、それに染まる人もいる。その人の「常識」は、一般的な常識から大きくかけ離れたわけだ。別に長い年月を要することなく。」
B「・・・なるほど。つまり、常識の中からでも「常識を食い破る」ことは、必ずしも不可能ではない、ということだね。」
A「まあ、概ねそういうことだ。しかし普通に暮らしていて、何も考えなかったら常識を食い破ることなんて、そうそうあることではない。だからこそ「常識を食い破ってやる」くらいの気持ちで、「何故?」「本当か?」と考えていくことが、ここでは必要なわけだ。」
B「解った。議論のやり方としては、基本的に「常識を食い破る」方向で考える、ということだね。」
第一原理「認識の信仰性」
三
A「さて、僕の考えを紹介する準備は整った。僕は、僕の考えの主要概念を三つの原理に要約したと言ったが、さっそく第一の原理から説明しよう。第一の原理は「認識の信仰性」だ。簡単に言えば「全ての判断は確実ではない」ということだ。」
B「・・・「全ての判断は確実ではない」か。何か、ありがちなフレーズだね。日常的判断や常識的判断は元より、科学的判断も含めて、全てが確実ではないということ?」
A「うむ。ここで言う確実というのは、間違いなく絶対、という意味でだ。日常的判断では当然のことながら、科学で言うところの「科学的事実」というのも、「絶対確実な事実」というのではなく、統計的に蓋然性の高い判断にしか過ぎない。何もハイゼンベルグの不確定性原理を持ち出すまでもなく、ね。」
B「例えば物体が落ちる、なんていうのも?」
A「それはこれまでのところ、そうだっただけだということだ。むしろ統計学的に、つまり科学的に、自然科学全体に対して、それが百パーセント絶対であるというわけではないということが厳密に証明可能なのだ。」
B「厳密に証明可能、というのは絶対確実、という意味ではないのかい?」
A「それは違う。統計学の正しさを仮定した上で、厳密に証明可能なだけであって、初めから統計学が間違っている可能性もあるわけだ。」
B「結局科学的判断が確実かどうかさえ、確実ではないということか。」
A「そうだ。そしてそれは結局、確実でないことと同じだろう、と言いたいんだ。物体が落下する、というのも、「殆ど確実」なだけで、「絶対確実」じゃない。」
B「なるほど。」
A「そしてまた、SFみたいな話だけど、真剣に言おう。この世の中全部、君の見ている夢だとしよう。そう仮定しても、何ら問題は起きないよな?」
B「・・・そうだなあ。普段見る夢の中の世界と、この世界とで、何が違うかと言われても困る。精々、現実の世界はリアルだけど、夢の世界はそうではない、という程度だし、夢の中ではその世界をリアルに感じていることもある。」
A「だから、この世界がひょっとしたら夢かも知れない、という可能性は、ほんの僅かな可能性だけど排除できないだろう。」
B「ちょっと馬鹿げた仮定だけどね。」
A「ではもう少し現実的に、実は今、君の見ている世界は同じく夢だとする。でもそれはいわゆる普通の状態で見る夢ではなくて、科学が進歩した時代に、君が他人の記憶を自分の脳に投影されて見ている夢だとしてもいい。君は「B君」ではなく、実は全くの他人で、歴史に名を残した「B君」の人生を、科学の力を使って鑑賞しているだけだった、としても良い。これならば、まだあり得る話だな。」
B「科学万能主義的な話だけど、まあよかろう・・・確かにそう考えても矛盾はない。」
A「つまりそういうことだ。」
B「??」
A「だから、全ての判断は確実ではないだろう、という話。」
B「ああ、なるほど。確かにね。実は僕は、本当は僕ではなく、二百年後の世界の「X君」かも知れないし、三百年後の世界の「Yさん」かも知れない。さらにその「Yさん」の記憶を見ている「Zさん」かも知れない。」
A「それどころか、現実には存在しない記憶を造り出した可能性もある。例えば宇宙の果ての異星人が、顔も形も、それどころか文化や言語や、自然法則さえも全く違った「地球」という幻想を造って、その異星人がこの地球という仮想世界を記憶投射によって楽しんでいるだけかも知れないわけだ。」
B「そうなると日常的判断や科学的判断はおろか、「本当に」目の前に君がいるかどうかさえ怪しくなるし、君が突然妖怪に変身しても不思議ではない、ということになるね。」
A「そうだろう? ともかく、全ての判断は確実ではない。勿論この判断自体もまた、確実ではない。結局、全てが「本当には」解らないだろう、ということだ。」
B「しかし待ってくれよ。そんなことを言い出したら、僕らは何もできないじゃないか。腹が減っても、本当に腹が減ったかどうかは解らない、本当に食べ物を食べたら腹が膨れるかどうかは解らない、君は食べ物さえ食べないというのかい? とんでもない理論主義者だな!」
A「まあそうあせるな。何もそんなことを言うつもりはない。ただ、このことを意識しているかどうかで、物事の考え方は随分と違ってくる。特に、長年染みついている常識なんかを食い破ろうとするときには、思わぬ効果を発揮するかも知れないのだ。」
B「でも待ってくれ。そうすると僕が知りたい「何が本当に正しくて、何が本当は間違っているか」なんて判断も、出来なくなるじゃないか!」
A「それは、ある意味ではそうだ。絶対に正しい、絶対に間違ってる、と、絶対の判断を下すことは出来なくなる。だけど、それはそんなに重要なことではない。要は、自分がどちらを選択した方がより正しいらしいか、それが判断できれば、先ずは良いのだ。」
B「そんな! 僕は確実な判断を手にしたいのに!」
A「まあ落ち着け。僕の話を最後まで聞けば、個人の判断の正しさなどというものは、別に大して重要なものではなくなるかも知れないのだ。それはともかく、今は先ず、どの判断が正しいらしいか、それを冷静に判断できるようになっただけでも良かったとしておこう。例えば、科学者は「霊なんていない」と言うが、それも絶対確実じゃない。物々しい言い方だが、論理実証主義的認識という範疇の上での話だ。勿論、だからといって即座に「幽霊は怖い」などと怖がり出すのもおかしい。「霊はいる」という判断も絶対ではないからだ。ただ、感情的になって「霊はいない」「いや、いる」と結論を急ぐことはなくなる。絶対ではないからこそ、ではどちらの判断を信じれば自分のためになるか、それが今までよりは冷静に判断できるようになるだろう。」
B「・・・だけど、その判断が確実じゃないからこそ困るんだよ!」
A「幽霊の話はともかく、それでも君にとってまあ、「殆ど絶対に」正しいものはあるわけだ。いや、少なくとも、正しくなくては困るものがある。例えば・・・そうだな、さっきの話で言うと、食欲だ。」
B「食欲?」
A「そう。腹が減った、これだ。「本当に」自分の腹が減ったのか、確かにそれは確実ではない。だけどそれは確実でなければ困る。「本当は腹が減っていないだろう」では困るのだ。どうしても君は、何か食べなければならないということだ。だからこれから言えることは、絶対ではないとしても、君が君の意志で、無理にでも絶対確実だと決めつけなければ困るものがあるということだ。「確実じゃない」などと言いながら、そのくせ一生食べ物を食べ続けるのは不自然だ。もうそれは君が絶対だと決めつけてしまったもの、君の信仰だと言っていい。同じように、人間の行動は全て、言ってみれば信仰に基づくものだと言える。だから、基本的に全ての認識や判断は、信仰の一形式なのだ。」
B「ああ、じゃあ、本当は何が正しくて何が間違っているか、そんな判断も個人の、または集団の信仰にしか過ぎないのか! 僕が求めていたものは何だったんだろう?」
A「心配には及ばない。僕の話を最後まで聞けば、きっと君は、自分の生き方の指針や考え方を、かなりの部分まで固めることが出来ると僕は思っている。」
B「・・・そう言ってくれるとありがたいよ・・・。」
A「勿論この判断も、僕の信仰にしか過ぎないが。」
B「ああ・・・!」
道徳の道徳的解釈
四
A「君の反応を聞いていると、恐らく結構「いいところ」まで行っていると思うのだが。」
B「いいところ?」
A「君はさっきこう言った。「本当は何が正しくて何が間違っているかの判断は、個人や集団の信仰に過ぎない」とな。多分、それはその通りだ。全ての判断は確実ではないと思われる。それなのに人間は、それがまるで確実であるかのように振る舞っている。例えば腹が減ったら食べ物を食べる、これはもう、「腹が減った」という感覚は絶対確実ではないけれど、実際、絶対確実だと思い込んでいるようなものだ。つまり信仰だ。だから、本当は何が正しくて何が間違っているかの判断だって、正に個人や集団の信仰に過ぎないわけだ。」
B「・・・それは、何度も確認した通りだよ。」
A「これは、常識の牙城を突き崩すチャンスだと思わないか?」
B「・・・いや、そうは思わないよ。だっていくら僕たちが、常識のこういう部分が間違っている、と判断し、二人とも納得したとしても、それは僕らの信仰に過ぎない。常識が単なる信仰に過ぎないとしても、その常識が間違っているという判断もまた、同じ信仰にしか過ぎないじゃないか。それでは優劣が付けられない。」
A「いや、信仰に優劣は付けられる。と言うより、勝手に付ければ良い。お腹が減った時、僕らはどうしたか。「実はお腹は減っていない」ではなく、やはり「お腹が減った」を優先した。その信仰に賭けた。だから結構、僕たちは自分の好みで、信仰に優劣を付けてしまっているわけだ。で、もし常識を信じるより、非常識的な何かを信じた方が自分のためになると思ったなら、僕たちはそれを勝手に信じることが出来るのだ。」
B「そうか・・・なるほどね。」
A「そこで、常識を一度突き崩してみる。何か全然常識的ではない考えを作ってみる。それでも常識の方が良さそうなら、安心して常識を信じれば良い。もしも常識より優れた何かが見つかったなら儲けもの、ということだ。初めから常識だけしか知らず、常識だけを信じていたなら、そうしたチャンスはずっと訪れないだろう。だから先ず、信仰の対象を並べてみるのだ。で、自分の気に入ったものを選べばよいのだ。」
B「なるほど。出来るだけ客観的に比較し、ためになるものを選ぶ、ということか。僕らは常識にまみれてはいるけど、常識を食い破ることも可能だ、ということは初めに確認したね。」
A「そうだ。そういうわけで、常識を検定してみようと思う。常識の内で、どうやら間違っていそうな部分を見つけ出して、別の考えを作る。で、それらを比較してどちらを信じた方が自分のためになるかを判断する。」
B「準備はいいよ。」
五
A「さて、僕たちを含む「一般の人間」の生き方に最も影響を与える常識は何だろうか。」
B「・・・すぐには思いつかないな。でも、自分の生き方の指針を探るなら、最も影響力のある常識について「何故?」「本当か?」を考えることが、確かに一番効率的だろうね。」
A「それでまあ、僕は「道徳」がそうではないか、と思ったのだ。」
B「道徳か・・・確かに。生き方、考え方、という点から見ると、道徳が一番それらに影響を与える常識かも知れない。」
A「その上、一昔前の道徳と、今の若者の倫理観は、恐らく極めて大きく異なっているのではないかと思うわけだ。だから、そういう変化に適応するべきなのか、変化に抗うべきなのか、或いはもっと別の方法を選択すべきなのか、その辺りの判断は僕たちの生き方、考え方に、大きな差を生み出すだろうと考える。だから、僕の考え方の全般を、道徳と絡めて話すことにしようと思う。」
B「解った。じゃあ道徳について考えてみようよ。」
A「先ずは、いきなり「道徳とはなんぞや?」などとは言わず、道徳の表面の部分から入って行こう。えーと、「全ての判断は信仰に過ぎない」のだとすれば、僕が「この道徳は本当は間違ってる」と主張しても、それも一つの信仰なのだから、あまり効果はないかも知れない。だから、道徳が間違っていると思うなら、その矛盾点を指摘してやればよいと思う。」
B「矛盾点だって? 矛盾している、なんて判断だって、信仰に過ぎないから同じじゃないか。」
A「いや待て。確かにそうなのだが、信仰を比較することは出来る。だから例えば、このように矛盾した道徳よりも、こういう風に矛盾のない考えがありますよ、そしてそうした方が世のため人のためになりますよ、ということが解れば、人は自ずと矛盾のある道徳から離れるだろう。いくら同じ信仰に過ぎないとはいえ、世のため人のため、と言っておきながら暴利を貪っているような道徳があったとしたら、やはり皆「矛盾だらけじゃないか!」と思うと思うのだ。」
B「ふむ。」
A「で、まあ最終的には「世のため人のため」になることは、なぜ良いことなのだろうか、といったように、道徳の根本まで考えたいわけだが、初めは道徳的な観点から、道徳のどこに問題があるのかを考えてみたい。」
六
B「道徳か・・・例えば「他人に迷惑を掛けなければ何をしても良い」なんていうのは、道徳だよね?」
A「ああ。一つの道徳だろう。倫理学用語で言えば、まあ「自由主義」、或いは「個人主義」と言えるだろうか。ここでは「自由主義」と呼ぼう。よし、良い例だ。自由主義を、道徳についての考察の入り口にしよう。ところで、君は自由主義というものを、道徳的に正しいものだと思うか?」
B「これは、一番良くできた道徳だと思うよ。これをみんなが守れば、少なくともみんな他人から迷惑を受けない。それは良いことだからね。」
A「うむ。それがまあ一般的な感情だろう。だが、恐らくその道徳は矛盾だらけだ、と言うより、実践不可能だ。」
B「なんだって? それは心外だな。誰も迷惑を受けたくない。誰だってそうだ。だから、みんなが他人に迷惑を掛けないようにすれば、みんなが喜ぶじゃないか。まさかこれを、「それは確実じゃない」なんて言うんじゃないだろうね?」
A「勿論そんなことは言わない。ただ、その「迷惑」の基準が、人によってバラバラであることが問題だ。君にとっては迷惑ではないことが、僕にとっては迷惑なこともある。」
B「・・・だけどそれは常識で解るじゃないか。いくらなんでも、例えば殺されることは誰にだって迷惑に決まってる。」
A「お互いの迷惑は拮抗するのだ。卑近な例を出すならば、タバコだ。」
B「タバコ?」
A「嫌煙家にとっては、彼の周りでタバコを吸われること自体が「迷惑」だ。一方、愛煙家にとっては、「私の周りでタバコを吸うな」と押し付けられるのも、また「迷惑」だ。実際には喫煙コーナーが設けられたりといった、様々な妥協案が出されるわけだが、本当にタバコが嫌いな人にとっては愛煙家の存在自体がもう「迷惑」だし、逆に本当にタバコが好きな人にとっては嫌煙家に文句を言われること自体が「迷惑」なのだ。「他人に迷惑を掛けなければ何をしても良い」などという理念が、こうした実際社会の「迷惑の拮抗」を、どう解決できるのだ? 愛煙家も嫌煙家も、他人に「迷惑」を掛けているのだ。」
B「・・・そうか。」
A「迷惑だと解っていても、せざるを得ないことだってある。君は入学試験に合格して大学に入ったわけだが、君が合格したことで、確実に一人の人間が不合格になっているのだ。君は一人の人間に・・・恐らく「多大な迷惑」を掛けた。だけどそれが解っていても、だからといって君は大学への進学を諦めたはずはない。もちろん、もしそれで大学進学を諦めるなら、それもまた他の人間に「迷惑」だろう。例えば親にとっては、教育費を掛けた息子がそんな理由で大学を受験しないのは「迷惑」なことだ。「迷惑を掛けなければ」なんてこと自体が、到底守れるものではないのだ。結局、生きていく上で「迷惑の拮抗」は避け得ない。」
B「なるほど・・・。」
A「それにしても、「常識」が通用する場合はまだ良い。決まり事を作って、お互いが「常識的に」妥協すれば良いのだから。しかし、君はさっき「殺されることが迷惑だということくらい、常識で解る」と言ったが、「常識」が通用しない場合はどうか。例えば・・・そうだな、宗教だ。宗教には宗教の常識がある。例えばオウム真理教は、理想郷を作るためには殺人も仕方がない、と捉えていた。で、殺人を行った。」
B「許せないよ。馬鹿げた宗教に引っかかって、他人に迷惑を掛けるなんて。」
A「そうとは言えない。オウム信者は「理想郷の完成こそが、人類にとっての究極目的である」というような「オウムの常識」を信じていた。つまり、理想郷のためなら、殺人でさえ迷惑にはならないと思っていたわけだ。迷惑の基準である「常識」そのものが違う。確かに我々の常識から見れば、理想郷のための殺人など、甚だ「迷惑」だ。だけど、オウム信者にとってはそうではなかった。それどころか、我々が理想郷のための殺人を許さないこと自体が、オウムにとっては迷惑だった。そこで、お互いの「迷惑」がぶつかり合ったのだ。その時に我々がしたことは、同じ「迷惑」の掛け合いなのにも拘らず、一方的に国家権力でオウムを潰すことだったわけだ。」
B「君はオウムの味方なのかい?」
A「別にそうではない。どちらかと言えば軽蔑する。だが、重要なのはこの形式だ。どうしたってどちらかが迷惑を被らざるを得ない場合があるということ、「迷惑」の基準を決める常識そのものが異なっていることがあるということ、そしてその場合に我々が選択した解決策は、一方的に国家権力で相手を排除することだったということが重要なのだ。」
B「だが・・・そうだな、オウムの人間は確かに常識が違っていた。一般人を殺すことが、一般人にとっても必ずしも迷惑ではないと思っていたとしようか。それにしても、そんな「オウムの常識」を持つこと自体がおかしいじゃないか。みんな、初めは義務教育を受けて、「普通の常識」を知っていたはずだ。その「普通の常識」を忘れて、「オウムの常識」を持ってしまったこと自体に問題があるとすればどうだい?」
A「では、生まれた時からそういった宗教の中で育てられてきた人は、殺人をしても良いということになる。」
B「・・・でも、日本は義務教育だ。だから「普通の常識」を得る機会はあったし、言ってみれば義務でもある。第一、それは殺人だ! 殺人は法律で禁止されている。日本の法律を守ることは、日本人の義務じゃないか!」
A「・・・ふむ。だけど今の日本の法律は誰が作る? 常識者だ。決してオウム信者ではない。結局、常識者は自分達の都合の良いように法律を作って、オウムに押し付けた。オウム信者にとってみれば、これは甚だ迷惑な話だ。」
B「だけど、法律は昔からあったじゃないか。先ずはそれを守ることは、義務だ。」
A「今現にあるきまりだからといって守らなければならない、というのは少し乱暴になる。決まり事を作るのは時の権力者だ。で、今、権力者は概ね常識者だ。ということは今後も、普通にしていればオウムに都合の良い法律など、出来たりはしない。だから、オウムはこれからもずっと「法律で決まっている」として、「理想郷」を作れないわけだ。これもまた、オウムにとっては迷惑だ。」
B「誰が造ったにせよ、法律は法律だ。守らなきゃならないよ。」
A「それにしては、法律は結構コロコロと変わるものだな。もし本当に「法律は守らなければならない」のなら、人間が本当にやらなければならないことは、法律の内容によってコロコロ変わるということになる。大日本帝国憲法に従うなら、少しでも日本の制度に反抗するような考えを持つことは「してはならないこと」だった。でも今は全く違う。「本当にしてはならないこと」は、そんなにコロコロ変わっていいのかい? まあともかく、せっかく法律の話が出たのだから、権力の話に移行しよう。」
七
A「権力とは、武力、力、強制力というような意味だが、結局各種の決まり事は、権力者が造るものだ。例えばオウムの決まり事は、オウムの権力者たるアサハラが造る。日本全体の決まり事は、日本の権力者が造る。法律などもそうだ。で、君の言うように、もし「法律に従わなければならない」が、本当だとするならば、これは結局、権力こそが全ての判断の正しさを造り出す、ということにならないだろうか。」
B「ええっ? ・・・だけど確かに。もし「法律に従わねばならない」が正しいならば、「法律を造る者の言うことに従わねばならない」ということになって、法律を造る者、つまり権力者の言うことに従うことこそが「正しい」ということになってしまう。」
A「そうだ。つまり圧倒的な武力を持った者の言うことは、それがどんなに酷いことであれ、無条件に「正しい」ことになってしまう。結局、権力こそが「正しい」ということだ。」
B「そうか・・・となると、感覚的には「法律には従わなければならない」は、必ずしも正しいとは言えなくなるなあ。」
A「そうすると、さっきの君の「法律を守ることは、国民の義務だ。だからオウムは悪い。」という言い方は、必ずしも妥当ではなくなるよな。」
B「・・・そうだね。じゃあ君は、どういう具合にオウムは「悪い」と言うんだい?」
A「待ってくれ。良い、悪い、だとかの判断だって、権力が決めるものだ。だから、「オウムは悪い」と僕が言うことができたとしても、それはただ僕が今の権力に迎合できているだけだということに過ぎない。「本当に」オウムが悪い、などということは、誰にも言えない。それを言うとすれば、それは単なる自己正当化だ。同じ「迷惑」のぶつかり合いを、権力で解決したことへの言い逃れに過ぎない。」
B「??」
A「つまりだな、例えばオウムがあの「革命」に成功して、日本を乗っ取っていたとする。そうなると日本の最大権力はアサハラだ。そうすると「オウム信者以外は死ななければ救われない」は、正しいこととなるわけだ。」
B「そんなことはないよ! それが正しい判断である訳がない!」
A「反対する者は皆殺しだ。君なんて真っ先に殺されてしまう。だから淘汰的に、アサハラの判断を正しいと思う人間だけが残って行くわけだ。そうなると・・・いいかい、全ての判断は信仰にしか過ぎなかった。科学的判断も、僕らの常識的判断も、全てだ! 全ての判断は「絶対正しい」わけではない。だからこそ、みんなが「正しい」と信じていることは、言ってみれば「殆ど確実な」ことになるわけだ。」
B「??」
A「・・・だからだね、例えば地球が丸いというのは、「絶対」ではない。しかし、実際に見たわけでもないのに普通の人は当たり前のように「地球が丸い」ことを信じている。逆に昔の人は、当たり前のように「地球は丸くない」と信じていたわけだ。結局、権力者を含む「みんな」が信じていることは、「殆ど確実」になるということ。」
B「・・・なるほどね。」
A「そこで、少なくとも圧倒的権力者がにらみを利かせている間は、全ての判断も行動も、権力者の思いのままに出来る。反対する奴は排除してしまえばいい。そうして二世代も過ぎた頃には、その時の常識が完全に定着している。権力者の言っていたことが「殆ど確実」なことになるのだ。オウムが「革命」に成功していたなら、アサハラの言うことが「正しい」ことになるというのは、こういうことだ。」
B「そうか・・・。」
A「そういうわけで、「善悪」「正しい判断」なんてものも、概ね権力者が決めたものに過ぎないということになる。少なくとも、圧倒的権力者が一方的に決めることができるものだ、とは言える。例えば、「他人に迷惑を掛けてなければ何をしても良い」の「迷惑」の基準だって、精々時の権力者が押し付けるものに過ぎない。僕ら「普通の人」は、宗教家に比べれば権力者の考えに近い考えを持っている。自分たちが権力者と同じ立場にいる以上、結局僕らが「他人に迷惑を掛けるな」と言うのは、「自分に迷惑を掛けるな」と言っているのと同じことだということだ。そしてその上で、自分は他人に迷惑を掛ける。例えば、同じ「迷惑」の掛け合いであるにも拘らず、オウムを「迷惑だ」として一方的に抑圧したりね。たまたま僕らは、権力者と同じような立場にいるから安心だけど、そうではない人にとってはそれはとんでもなく窮屈だということ。だから僕たちは何らかの、原理的に正当な理由があって自由主義を掲げているのではなくて、権力に迎合できているから「正しい」と威張っているに過ぎないということ。そして自分達の利益を守るためには、非権力者、弱者は一方的に抑圧しているということだ。」
B「うーん、でもやっぱり、オウムの考え方はおかしいと感じるよ。」
A「それは君が一般の常識にまみれているからというだけだ。オウム信者にとっては、「一般人」の考え方こそが「おかしい」のだ。で、今は我々一般人の方が人数も多いし、権力があるからこそ君の主張は多くの人に受け容れられるが、逆に君のような考え方をしている人が少数だったら、一般には君こそが「おかしい」ということになる。」
B「言っていることは解るけど、やっぱり人を殺すことは良くないだろう。」
A「その気持ちだ! オウム信者の多くも、きっとそんな風に考えている。「一般の人の言うことも解るが、やっぱりどこかおかしい、人を殺してでも理想郷を造ることこそ「本当は」正しいんだ、自分の言っていることこそが「本当は」正しいんだ」、とね。」
B「・・・そうか。僕は、圧倒的権力者が何を言っても、何をやっても、「本当に」正しいことは変わらない、と感じていた。だけどそれは違う。「本当に正しい」「絶対に正しい」なんて、初めからなかった! それは何度も確認したことだったね!」
A「その通り。君も、オウム信者も、立場の形式は同じだ。信じているものが違うだけだ。「絶対確実」ではないにも拘らず、それを信じて「人殺しは悪い」と言ってみたり、逆に理想郷を求めて殺人をしたりしたわけだ。で、そこに権力が介在して、君の言っていることが「正しい」こととされただけなのだ。」
B「・・・うん、理屈は解ってきた。」
A「だいたい「他人に迷惑を掛けなければ何をしても良い」などというのも、ただそう決められただけだ。そしてそれが、たまたま君の趣味に合うだけだ。昔は「自律」だとかを重んじたから、「何をしても良い」というわけには行かなかった。それが今や、古い考えになりつつある。道徳はこうも変わりやすいものなのだ。僕は自由主義なんて甘ったるい戯言は嫌いだから、「他人に迷惑を掛けなければ何をしても良い」などという考えを押し付けられること自体が、僕にとって迷惑なのだ。だけど自由主義はおかしい、なんて言うと、「君の考えを押し付けるな、迷惑だ」と言われてしまう。こちらも同じように迷惑なのにな。にも拘らず、今の日本の多くの人は「他人に迷惑を掛けなければ何をしても良い」と考えているから、一方的に僕の方が「間違っている」ことにされてしまう。つまり結局、自由主義は権力主義の一形式にしか過ぎない。それなのに自由主義を信じている人は、「自分たちの言っていることこそ「本当は」正しい」などと図に乗って、彼らの「迷惑」の基準を、僕やオウム信者のような「少数者」に権力で押し付けるわけだ。それも無自覚だから始末に負えない。全く迷惑なことだ。」
B「うーん、なるほど。権力は基準を作ることができる。だから「他人に迷惑を掛けなければ何をしても良い」なんていうのも、最終的には「迷惑の基準を決定する力」、即ち権力でケリがついてしまう、ということか。とても、道徳として優れているとは言えないなあ。」
A「そうだ。「それでも僕は巧くいくからそれで良い」と言うなら、初めから「他人に迷惑を掛けなければ」などと言わずに、「僕に迷惑を掛けるな」と言えば良いことだ。それを隠して、一見理解ある人間のように見せかけるのは、言ってみれば自己中心主義、利己主義であって、少なくとも道徳的な意味で「正しい」ことではなさそうだな。」
B「うん。」
八
A「もっと根本的な話に移ろうか。全ての判断の「正しさ」は、結局権力に依存しているのだ。例えば「嘘をついてはならない」という道徳的判断の「正しさ」を、何が保証するか。嘘をついた人間に対する軽蔑の眼差しであり、排除意志であり、それらを許す道徳という名の分散権力だ。」
B「・・・なるほど。「嘘をついてはならない」という判断は、少なくとも自然的、原理的に保証される「絶対確実な」ものではないね。人間が勝手に作ったルールだ。それに「正しさ」を与えるために、権力的な抑圧が必要だということか。」
A「そうだ。「嘘をついてはいけません」といくら教育しても、それを守らぬ者もいる。だからそこに権力を持ちだして、その判断を「正しい」ものにしてしまうわけだ。」
B「解るよ・・・だけど、実際その決まり事がなければ困るよね?」
A「君にとっては、たまたまそうだった。だが、そんな決まり事を「迷惑」に感ずる者もいるはずだ。我々は「他人に迷惑を掛けてはならない」という押しつけの決まり事と共に、「嘘をついてはならない」と、迷惑な強要を試みるのだ。全く自分勝手な都合と、権力的な方法を以てね。」
B「うん・・・。」
A「確かに「嘘をついてはならない」というのが、多くの人にとって必要な決まり事であることは明らかだろう。だがそのことは、「嘘をついてはならない」という判断が「絶対に正しい」ことの何らの根拠にもなりはしない。多数者にとって便利であることと、「絶対に正しい」こととの間には、形式的な因果関係などないのだ。にも拘らず「嘘をついてはならない」という言葉は、一般に「正しい」ものと解釈されている。嘘をつく者は、親に叱られ、友達に嫌われ、場合によっては法権力による罰則を受ける。「絶対に」正しいわけではないことが、権力によって「正しい」ことにされているのだ!」
B「・・・。」
A「全ての判断は信仰にしか過ぎないのだとすれば、何もかも「絶対」ではない。一方、「他人に迷惑を掛けてはならない」「人類は皆平等だ」「嘘をついてはならない」などの道徳は、一般には「正しい」と見なされている。そこに介在したものは何か・・・権力だ! 道徳を信じない少数者に対して「冷酷な奴め」という制裁の意志を押しつけ、一方的に多数者の判断を正当化しようとする権力感情だ。」
B「うーん・・・。」
九
A「あらゆる道徳に、同じことが言える。道徳は、時代や状況によってコロコロと変わるものだ。昔は奴隷制度は「悪」ではなかった。しかし今や、奴隷制度など最高の「悪」とされている。奴隷制度が「本当は」悪なのかどうか、それは別に原理的に決まっていたわけではない。時の権力がそれを「悪ではない」「悪である」などと決定し、流布したに過ぎないのだ。」
B「なるほど・・・今、学校教育で「奴隷制度は正しい」などと教えようものなら、国家権力がその学校に罰則を与えるだろうね。昔は恐らくその逆だったんだろう。結局権力が、奴隷制度の是非を決定しているということか。」
A「権力が道徳を造りだし、道徳の正しさは権力によって保証される。今、我々が奴隷制度を「悪である」と解釈するのは、そうした権力的な教育的洗脳と、社会的先入見の産物に他ならないのだ。少なくとも、奴隷制度の再現を望む者が想定し得る以上、我々は自分たちが多数者であることを良いことに「自分の考えが正しい」と威張っているに過ぎない。道徳主義とは、多数者が少数者を一方的に排除する権力主義の一形式なのだ!」
B「・・・。」
A「君にはまだ納得できないかも知れない。しかし、君がどれほど「正しい」と感じることでも、君が権力を味方に付けなければそれは「正しい」こととは見なされない。君が「理想郷のための殺人など、間違っている」と思っていても、オウムが圧倒的権力を掌握した世界では、君の考えは「誤っている」ことになるのだ。そしてまた、「絶対に正しい」ものが存在しない以上、君の判断が「本当は」正しいなどということは、誰にも言えないのだ!」
B「・・・そうだったね。」
A「そうならば、道徳にしても同じことだ。「昔の道徳」と「今の道徳」は、かなり異なっている。そのどちらが「本当は」正しいのか、或いはどちらも「本当は」誤っているのか、そんな判断にも、何らの「絶対確実な」根拠はない。あるのはただ、その時の権力が何を保証するかの問題だけだ。ところが「普通の人」は、道徳におけるそうした権力構造を理解していないから、「道徳的悪人」に対して義憤感情や軽蔑感情を抱くわけだ。結局彼らは、「絶対正しい」保証がないものを信じ込んで、それがたまたま権力に迎合できているから「悪人」を抑圧しているに過ぎない。多数者の権力を以て少数者を抑圧する・・・彼らもまた一端の「道徳的悪人」に違いない! だから全く、道徳主義は権力主義そのものなのだ。」
B「なるほど・・・。」
十
A「今や道徳の構造が暴かれた。僕たちが理解したこと・・・善悪を含む「判断の正しさ」は、時代や状況によって全く異なるものであるということ、権力は「正しさ」を造り出すことができるということ、道徳は権力的に実践されるものであるということ。だから「善人」というのは、決して、何か本質的な、自然的な理由で「人間的に優れている」ということではなくて、ただその時の道徳を、巧く守ることが出来た人にしか過ぎない、ということだ。今日の「善人」は、百年後からみれば「悪人」になっているかも知れない。それこそ百年後がオウムの世界だったなら、つまり権力者の善悪の基準が変わっていたなら、そういうことは充分に起こり得ることだ。」
B「・・・それは少し抵抗があるなあ。例えば他人のことを思いやる人間や、ボランティアをする人間を、やっぱり僕は「立派だ」と思ってしまう。でも「何故立派なのか」、と問えば、今や明確な答えが出せない。「善だから」だとか「常識だから」だとかと考えてしまえば、結局それは「今の権力者に迎合できているから」という意味になってしまう。」
A「その通り。良く理解している。最早君は、「善悪」とか「常識」というものの信仰から、少しずつ抜け出しつつあるわけだ。」
B「善悪や常識が、余りにも時代や環境によってコロコロと変わるものならば、その上権力によって一方的に決めることさえできるものならば、それはちょっと信じ込むには値しないような気はする。」
A「全ての判断は確実ではないのだった。しかも、道徳なんてのはコロコロと変化するものだ。そうした、「本当に正しい」かどうか限りなく怪しいものを信じて、「悪人め!」などと人を非難するのは、道徳的だと言えるだろうか? 確実な根拠もなく「自分が言っていることこそが正しい」と思っているのだ。これは道徳的に見れば「傲慢な」態度だ。」
B「・・・だんだんと理解してきたよ。」
A「道徳などというものは、矛盾だらけだ。大した根拠がないのに「悪人め!」と他人を非難するのは、言ってみれば不道徳的だ。では悪人を許すなら、例えばそれで被害に遭った人のおさまりがつかない。これもまた、他人の気持ちを解らない行為、不道徳的行為だろう。どうしても不道徳を避けられない。で、ひょっとして一番「不徳」なのは、何らの確実な根拠もないくせに人々を不道徳呼ばわりする、道徳そのものなのではないか、ということだ。」
B「・・・。」
A「道徳に対して道徳的な評価をするなら、道徳は常に「傲慢」だ。「自分こそが正しい、他の判断は間違っている」という、盲信と矛盾の体系だ。「他人に迷惑を掛けなければ何をしても良い」という腐敗した自由主義を見よ。自由主義以外のどんな考え方を広めようとしても、自由主義者はそれを認めない。ただただ、「迷惑だ」の一点張りだ。何が自由なことか! 結局、自分だけが正しいという信念と、権力への迎合で出来たのが道徳だ。僕はもう、道徳なんてものをほんの少しも信頼していないから、別にそのこと自体を「良い」とか「悪い」などとは言わない。道徳を無視する人なら、傲慢な態度も大いに結構。自分こそが正しい、と言うのも構わない。本来生物とはそういう性向を持つものだしな。だけど道徳を信じる人なら、道徳的でなければならないはずだ。それなのに道徳は、常に自分自身に矛盾している。それどころか原理的、自然的に見るならば、道徳こそが全ての「不徳」の原因だということだ。道徳こそ、道徳が禁じている筈の人間の序列、つまり「善人、悪人」という差別を生み出すのだ。「本当の道徳者」、もしそんな人物がいたとしたら、つまり自分の行いが本当に正しいのかを誠実に、真面目に考えられるような人物がいたとしたら、彼は決して道徳を信じ込んで、他人を罵倒したりはしない。道徳的、格言的に言えば、「真の道徳者は、道徳を信ぜぬ者である」ということだ。」
B「うん・・・なるほど。」
A「道徳というのは人々の行動規範の一つであり得たわけだが、もはや僕たちにとっては信頼できぬものとなった。何故ならば、それは権力的に造られるものであり、暴力的に実践されるものであり、その上非原理的、反自然的で、時代、状況によってコロコロと変わるものだからだ。では、行動規範の信仰として、道徳よりは信じやすい、まだ正しいように思えるような何かを考えてみよう。僕の考えの第二原理、「欲求の一元論」だ。」
B「??」
第二原理「欲求の一元論」
十一
A「いいかい、今日一番初めに僕が話した、「全ての判断は信仰である」を思い出してくれ。」
B「ああ、どんな判断も、絶対確実とは言えないだろう、だからこそ僕たちの判断は一種の信仰であると言える、というあれだね。」
A「そうだ。これまで僕が君を説得してきた全てのことも、僕の信仰だ。そればかりか君が本当にここにいるのか、明日もまた僕は生きているのか、何もかもの判断や予測が、僕の信仰に過ぎない。」
B「うん。」
A「だからこそ自分が信じられるもの、賭けるべき対象を、慎重に選択するんだった。そこで、だ。最も信頼できるのは、常識や道徳や、ましてや幽霊の存在などではなくて、自分自身の本能的欲求だと思うのだ。」
B「本能的欲求?」
A「そうだ。これは初めの方でもちらっと触れたが、例えば僕が「本能的欲求は信じないことにしよう」と思っても、やはりお腹は減るし、身体が痒くなったら掻きたい。つまりもう、信じるしかないのだ。まあ一応言っておくなら、感覚的な部分だけでなく、科学的にも本能的欲求の存在は必然だ。ともかく、自分の本能的欲求を信じること自体を、僕は欲すると言っても良い。「本能的欲求を信じません」なんて言って食べるのを我慢することを、僕は欲さないからな。そういうわけで、本能的欲求というのは「信仰としての判断」の内でも、まあ最も信じやすい対象であると、僕は信じている。」
B「確かにそうだね。」
A「そこで、だ。「人助けは良いことだ」などという、時代や状況によって嘘になったり本当になったりするような言葉と、それと対立する「他人を押しのけてでも自分が生きたい」というような本能的欲求とで、どちらをより強く信じるべきだろうか、ということなのだが。」
B「うーん、そう言われると確かに説得力はあるけど、例えば「人を助けたい」という感情もあるはずだよ。そうでなければ、例えばボランティアなんて生まれるはずもない。」
A「いや、そうでもないのだ。ボランティアのような「利他的行為」が、欲求で説明できることを示そう。今、多くの人は「自己犠牲で人の役に立つことは立派だ、素晴らしい」といったようなことを信じている。だから「立派な人間になりたい」と思って、ボランティアに参加する人は当然出てくる。「立派だ」というのは、他者が介在して生ずる評価であるから、これは「他人に良く見られたい」という利己的な欲求に基づいている。そしてボランティアをすると、何か気持ちよくなる。それは本人が「立派な人間になれた」と、達成感を得たからだ。つまり欲求を満たしたからだ。」
B「・・・。」
A「次に、ボランティアをする本人が道徳を信じていなくても、ボランティアをすることによって多くの人に「あの人は立派だ」と思われて優遇されたり、就職に有利になったりする。それ故多くの人が道徳を信じている環境の中では、必ずしも本人が道徳を信じていなくとも、ボランティアに参加する人が出てくるのだ。この場合はそのまま利己的な欲求だな。」
B「・・・なるほど。」
A「習慣というのもある。ボランティア、と言えば仰々しいが、隣の人が消しゴムを落としたら、別に「人間として立派だ」とか「この人に良く思われる」などと考えるまでもなく、無意識的にそれを拾うだろう。これも、小さいときから「他人が喜ぶことをするのは立派だ」というようなことを、ずっと刷り込まれているからだろう。そうするとさっき言ったことに含まれるね。それに習慣というのは生物に共通の行為だから、まあ欲求の一形式、とも言える。」
B「うん・・・。」
A「互酬性というか、初めから見返りを期待して行われる「利他的行為」もある。友達が困っている時に助けてあげれば、いつか自分が困った時に助けて貰えることが期待できる。そういった場合も、欲求で説明できるな。」
B「なるほどね。」
A「そういうわけで、利己的な行為ばかりでなく、一般に言われる「利他的行為」もまた、欲求で一通り説明できるものだ。逆に道徳では、利己的行為はとても説明できない。それどころか神さえも人々の心を誘惑するためには、欲求へ介入せねばならなかった。つまり「こうすれば天国へ行ける」「こんなことをしたら神の怒りに触れる」などの形式だ。道徳だって同じことだ。道徳的行為をすれば「道徳的に価値のある人間になれる」「他人に良く思われる」という見返りがあればこそ、人々は道徳的になれるのだ。」
B「・・・。」
十二
A「さっき権力の話をした。権力は全ての判断の「正しさ」を決められる、善悪や常識さえも、という話だった。では何故、権力はそれほどまでに強力なのか、道徳的判断や常識的判断さえも凌駕する決定権を持っているのか。」
B「??」
A「つまりだね、「全ての判断は信仰である」のだから、権力の強力さも「信じない」と言って無視できるのではないか、それなのに何故、権力はこれ程までにリアルなのか、という問題。」
B「・・・そうだなあ、権力は・・・強制力だからかい?」
A「ふむ。強制とは、どういうものだ?」
B「やらねばならない、という状態を造り出すものだね。」
A「何故、やらねばならないのだろうか。実は、それはもっと・・・」
B「そうか、解ったよ! 欲求だ! やらねばならない、じゃなくて、どちらかと言えばやりたい、だ!」
A「ご名答。そうなのだ。つまり、権力は僕たちの欲求に訴えかけるのだ。僕たちが信じざるを得ないもの、欲求だ。「人を殺してはならない」は、それ自体が我々を拘束するのではない。今も僕はそこのナイフで君を殺すことが出来るのだから。そうではなく、人を殺すと僕が罰を受ける、下手すると死刑だ、だからこそ、僕は人を殺さない。少しくらい人を恨んでいたとしてもな。恨みを晴らしたい欲求を満たすよりも、やっぱり僕の自由が奪われることを避けたい。欲求の比較。欲求こそが僕を拘束する。そしてその欲求を正面から揺さぶることが出来るということこそが、権力の強さなのだ。道徳は、権力そのものほどは強く欲求に訴えかけない。だからこそ、当然の結果として道徳を破る者が現れるのだよ。いじめられっ子が、いじめっ子に「万引きしてこい」と言われたら、いじめられっ子はそれに従う。「万引きは悪い行為だ」と思っていたとしても。それよりも、今正にそこにある権力支配に負けるのだ。道徳は欲求に負けるのだ!」
B「なるほど!」
A「だから、「やらねばならない」「してはならない」というのは、それ自体に拘束力はない。僕が「君は僕に金を払わなければならない」と言っても、それは信じるに値しない。だが、僕がナイフを突き付けてそう言えば、それはとたんに強烈な拘束力になる。欲求に訴え掛けることによって、ある言動がリアルになった。権力が「正しさ」を造り出したのだ。法律も同じことだ。「人を殺してはいけません」は、「人を殺せばお前を罰するぞ」という権力なのだ。で、「やらねばならない」「してはいけない」などの判断は、あくまでも個人の損得の問題になる。「やった方が得だ」「やったら損だ」という問題だ。「人を殺してはならない」という言葉自体は、何も僕たちを拘束していない。道徳を破って「人間的に劣った者」に「なりたくない」、法律を犯して刑罰を「受けたくない」・・・僕たちを拘束するのは、欲求による要請なのだ。」
B「だいぶ解ってきたぞ。人間は欲求でしか動かない、とするなら、権力がこんなにも強力なことにも説明がつく。」
A「もし道徳が人間行動の基礎であるなら、権力は権力足り得なかったはずだ。「力による支配」など、道徳が本来最も避けるべきものだからな。しかし実際、欲求が道徳を越えている! ボランティアをしている「立派な」人は、自分の全財産を恵まれない人に寄付するか? わざと入試に失敗して他の受験生を助けるか? そんな筈はない。結局、自分の身が大事なのだ。そしてそれは、全く恥ずべきことではない。むしろ生物学的には当然の、そして自分の欲求を満たすために最善の、賢い行為だ。」
B「でも、自分の財産が有り余っているとき、少しでも他人の役に立てれば・・・と思って寄付するのは、良いことなんじゃないか。」
A「それが、君が現在の道徳にはまりきっている証拠だ。赤の他人が得することによって、自分が得しないなら、そんな行為を選択するのは、生物としてみるならば正に愚行だ。勿論、寄付したことによって「あの人は偉い」と思われ、様々なメリットが予想されるならば別だが。とにかく、その「良いこと」「悪いこと」という言い方は、もうやめないか。」
B「ははあ・・・確かに、道徳的な意味での「良い」「悪い」というのは、あまり根本的な判断ではないね。善悪の基準は、時代や状況によってコロコロ変わるからな。今日の「良いこと」は、百年後の「悪いこと」かも知れない。そうだなあ・・・じゃあ、どんな言葉で他人を評価するんだい?」
A「欲求での一元論を受容するなら、欲求に対して賢いか愚かか、だけが行為の判断基準になり得る。例えば、今の道徳に「合わせて」、善人ぶって他人を助け、見返りを得たならば、彼は彼の欲求を満たすための優れた行動を選択できたということだ。つまり「賢い者」。今の道徳に「はまって」しまい、自分の利益を明らかに捨ててまで他人を助けたならば、彼は自分の本能的欲求を踏みにじった。自分の欲することを、欲しなかったわけだ。こんなのは生物学的な「愚か者」だ。」
B「うーん、余りにも「非常識的」だなあ。「常識」を食い破るのは解るが、どうも付いていけない感じはする。それだと、選択の全てが「損か得か」になる。」
A「正にその通りだ。欲求に対して損か得か、原理的な全ての行動判断はこの一点でよい。何故ならば、どんな判断も信仰に過ぎないのだから。同じ信じるなら、「欲望を抑制できれば天国へ行ける」などという信じにくいものを信じるより、「SEXは気持ちいい」を信じた方が得だ。欲求、取り分け本能的欲求の存在は、信じざるを得ないものだ。これが僕の言う、欲求の一元論だ。」
行動原理としての欲求と道徳
十三
B「待てよ・・・ボランティアの話に戻るけど、「ボランティアは立派だ」というのが、例え反自然的に造られた幻想に過ぎないとしても、それで人の役に立つなら、それは良いことじゃないか。」
A「・・・また道徳に舞い戻る。道徳的に「良いこと」は、何ら原理的な「良い、悪い」ではなかった。欲求を基礎とするなら、行為への評価は「賢い、愚か」だけでよい。確かに、僕たちが税金を払ってしなければならないようなことまで、ボランティアの人たちがやってくれるのなら、それは僕たちの欲求に対して「良い」。でも同時に、明らかにボランティアの人たちの欲求に対しては「悪い」ことだ。「ボランティアは立派なんだ」と信じてそれを自ら選択するのは、愚かだ。」
B「でもそれを信じている人は、ボランティアをすることによって満足を得られるわけだ。それは得なんじゃないだろうか。」
A「しかしそれならば、「幸運のペンダント」を買って満足しているのと、大して変わらない。ボランティアなどせずとも、他にも欲求を満たす方法はいくらでもある。無駄な苦労をする分、自分の損得に対して不利なのだ。少なくともボランティアは、原理的、根本的な意味で素晴らしい行為などではないということだ。」
B「だが、ボランティアで得られる満足感は、即物的な満足感とは違ったものだろう?」
A「それは、そう信じている人にとってはね。生理学的に見れば、まあ金を拾った時の満足感よりも、むしろロールプレイングゲームをクリアした時の満足感に近いのではないか。まあ、その程度だ。そして、一度その信仰が崩れれば、もはやボランティアなど何らの特別な満足も与えてくれない。例えば僕などは、誰も見ていないところでなら、決して自己犠牲行為などはしない。損だからだ。そして自己犠牲行為をしても、何の特別な満足感も得られないわけだ。」
B「うーん、じゃあ、その「特別な満足感」が得られるというだけでも、ボランティアが素晴らしいと信じている人は、得じゃないか。」
A「・・・だんだん直感的な話になってきたな。まあそれに反論するなら、僕だって例えば「ボランティアなんて大したものではない」と解ったこと自体で、幾らか満足感が得られた。それだけでなく、今後は自分の損になるような行為を可能な限り避けられる。「心の美しい人間になりなさい」なんて、面倒臭い教えも気にせずに済む。そういうことの方が、やっぱり利益は多いと感じるね。あと、形式の問題もある。ボランティアのように、何ら原理的に「素晴らしい、正しい」ものではないようなものを、「素晴らしい、正しい」と、端から考えもしないで信じ込むような態度こそが、大金かけて「幸運のペンダント」を買ったり、極端な場合では変な宗教を信じ込んだりすることにも繋がりかねないわけだ。形式的に分析すればね。それは端的に、損だ。」
B「・・・なるほどね。」
A「君が気付いているかどうか解らないが、何れにしてもここで、もはやボランティアは「良いか、悪いか」ではなく、「損か、得か」という問題になっている。欲求の判断が、道徳的価値を没落させているのだ! そして僕は、それこそが原理的であるし、かつ「得」であると言っているのだ・・・。」
B「そうか・・・!」
十四
B「しかし・・・欲求だけを基礎にしていて、日常生活が巧く行くのだろうか?」
A「もちろん、欲求を基礎とすると言っても、欲しいものは欲しい、などと言って強盗したりするわけではない。」
B「だけどそれでは、自分の欲求を抑圧していることになるよ。」
A「いや、欲求は何も一つではない。強盗で捕まって、懲役刑を受けるなどというのは御免だ。懲役刑などは、全く辛そうだからな。自由が束縛されるのだから。だから、常に「どっちが得か」を判断しなければならない。」
B「そうか。」
A「さらに、「どっちが得か」を判断して生きると、今の日本では、外見的には道徳的に生きるのと殆ど同じことになる。」
B「・・・なるほど。友達のことを気遣っているように行動すれば「いい奴だ」と思われてむしろ得する。犯罪など起こさず、美辞麗句を並べ立てれば「立派な人だ」と讃えられ、色々なメリットがある。こういうわけかい。」
A「そうなのだ。今の日本では、余りにも沢山の人間が道徳に酔いしれているから、むしろこっちも酔っぱらったふりをして道徳的に振る舞うのだ。その上で、人が見ていないところでなら、如何に不道徳的な行為であれ、自分の「得」を追求する・・・これが正に、一番賢い生き方だと僕は思う。少なくとも生物学的な根拠を持って、これは言えることだ。」
B「うーん、しかしやはり余りにも極端で、まだ僕には飲み込み難いなあ・・・。」
A「それは僕もそうだった。道徳について考えたとき、初めは僕もまあ、道徳的な人間だったから、如何にして道徳に納得できる理論を与えるかを必死になって考えたものだ。しかし結局そうではなかった。道徳は矛盾だらけだったからだ。そして、全ての判断は信仰に過ぎない以上、現実的な範疇で「自分の得になること」をするのが一番得である、と思ったわけだ。実際、多くの人間はそうしている。「他人に迷惑だ」と解っていながら、入学試験には全力で臨むし、他人よりも資本を貯蓄しようとする。ともかく自分の損得の前には、「人間的に立派」だとか「心が貧しい」だとかの戯れ言、つまり道徳主義という宗教家の熱弁は、一切無視できたのだ。そんなことを気にして損するのは「愚かだ」、むしろ周りのそういった「道徳的感情」を逆手にとって得することこそが「賢い」とな。」
B「言っていることは解る。だけど、もう少し猶予期間をくれ。頭では理解しているんだ。」
A「まあ、君がすぐには飲み込めない気持ちは良く解るよ。自分の持っていた信念を揺さぶられるときは、大抵そういう気持ちになるものだからな。・・・君は科学主義者ではなかった。しかし一応言っておくならば、僕の言っていることは極めて科学的だ。それと言うのは、例えば「他人に迷惑を掛けてはならない」は科学的事実ではない。だが、生物が本能的欲求によって動くことは科学的事実だ。そしてまた、本能的欲求は「他人のことを考える」ことなどしない。如何なる問題も、自己保存を含む「遺伝子の保存」の問題として捉えるのだ。だから、非血縁関係の他人に対して何かする場合、それは必ず自分の問題として立ち現れる。「あいつを助ければ自分が得する」「あいつを陥れても自分の身は危険にならないな」といったようにね。これは、現代の動物行動学、社会生物学においては常識なのだが。そういうわけで、「他人に迷惑を掛けてはならない」は非科学的であって、「人間は自分に迷惑を掛けると思われる行動をしない」「人間にとっては、自分に関係がないと思われる個体のことはどうでもいい」あたりが科学的結論であると言える。」
B「・・・僕は科学主義者ではないが、君の言っていることは、理論上はかなり説得的だ。「バレなければ何をしてもいい」こそが科学の主張に反さないわけだね。」
A「そういうことだ。」
十五
B「しかしそうは言っても、「バレなければ何をしても良い」なんてのは、やっぱり抵抗があるなあ。」
A「もちろんそうだろう。ただ、良い、悪い、だとか、善悪、道徳、常識だとかの判断は、時代や状況によってコロコロと変わるものだった。つまり、原理的な、何か特別「正しい」根拠があるものではない。それどころか権力、つまり暴力によって造り出せるものでさえあるわけだ。確実ではないのに「本当は正しい」をあまり強く信じすぎると、下手すると宗教にはまって警察のご厄介になる、ということにもなりかねない。それが良い、悪い、ではなくて、単純にそれは損だ。つまり、そうした行為をするのは愚かだ。」
B「うん・・・。」
A「で、まあ「命は大切だ」とか「幽霊はいる」などという、何の実証性もないものよりは、まだ科学的にも示される「生物の行動原理は欲求である」の方が信じやすい。少なくともこれまで、正体不明の常識やオカルトに比べたら、科学は大きな成果を上げてきているからな。オカルトを信じて損するよりは、科学を信じて得した方が、自分の欲求を満たす、と、こういうわけだ。欲求という一面から、言い換えれば損か得かという一面から物事を判断する、それが欲求の一元論。少なくともこの発想は、合理的、論理的、実証的だ。」
B「思ったんだけど、「自分の得になれば良い」というのは、結構、多くの人は解っているんじゃないだろうか。」
A「気分的に解っている者は多いかも知れない。だが、それが明確に理解されていないことが多いのだ。日常生活で「道徳的な人」を見て、ついつい、立派だ、偉いなあ、などと感じてしまう人がね。」
B「しかしまあ、それは自然な感覚ではないだろうか?」
A「自然な、というのは、確かに習慣にどっぷり浸かった判断だという意味では、まあ自然だ。ただ原理的に言えば、これはとんでもない悪癖、最悪の習慣だ。そんなことだから、例えば誰もいないところで大金を拾っても、正体不明の「習慣的な」義務感に駆られて交番に届けてしまったりするわけだ。頭では「自分の得になれば良い」と思っているのに。生物という観点から見て、これほど劣った習慣は他にない。正体不明の自己犠牲、霊魂崇拝としての他愛行為という悪癖!」
第三原理「権力の優位」
十六
A「さて、権力が判断の正しさを造り出す、ということをもう一度確認しよう。僕は今言ったようなことを、もう既に信じているわけだ。それでもし、誰か道徳者が、「君の考えは余りにも酷い」と思って、僕を説得しようとする。どうやって説得すれば良い?」
B「・・・もう説得できないんじゃないか? 君の考えは、少なくとも科学的だ。君は非科学的なものを余り信頼していないから、「神の意志に背く」なんて言っても、説得されないだろう。一方、「自分の損得だけじゃなく、他人のことを思いやりなさい、それこそが人の道です」と言っても、もう君はそんな言葉では説得できないだろう。」
A「そうだ。僕は、全ての判断は信仰に過ぎないと信じているから、誰が何と言おうと、それも信仰に過ぎないと捉える。同じ信仰なら、僕が信じざるを得ないもの、欲求を基礎にした僕の考えを信じる方が「得」だ。それに僕の考え方は、僕が信頼する自然科学にも基づいている。こうなるともう、僕を「心から」説得することは出来ないわけだ。ただし、少なくとも表面上は、僕を説得することも出来るね。」
B「??」
A「僕は損得でしか動かない。だからこそ、「説得されたふりをした方が得だ」と感じたならば、僕は表面的には、説得されるだろう。」
B「なるほど。」
A「例えば、僕の考え方を一般の人間に話したら、「なんてやつだ!」と思われるに違いない。友達も減るだろう。だから、その権力に負けて、僕はまるでこんな考えを持っていないように振る舞うわけだ。結局、僕を説得したのは権力だ。「そんな考えをするやつとは友達になれない」という、権力の発動だ。そいつがそうやって権力で僕を操ること自体が、僕の考え方そのものを裏付けているのにね。そいつはそんなことに気付きもしない。善人ぶってはいるが、やっていることは権力支配だ。」
B「・・・。」
A「結局、僕だってナイフを突き付けられて「その考えを改めろ」と脅されたら、少なくともうわべだけは考え方を変える。信仰を持っている者を説得する方法、少なくとも自分の都合に合わせる方法は、権力行使が一番確実だということだ。それでも説得されないなら、権力で排除してしまえばよいのだから。それで、この形式は、至る所で見受けられる。例えば常識や道徳。どんなに間違っているように見えても、それを信じているふりをしなければ「非常識なやつだ」「他人の心が解らない、冷酷なやつだ」と軽蔑され、場合によっては地位を奪われる。こんなのはただの権力制裁だ。少数者は一方的に排除しよう、という考え方だ。別にそれが「良い」とか「悪い」とか言うわけじゃないが、権力で少数者を排除するなんてのは、少なくとも「常識的」でも「道徳的」でもないよな。ということは結局、常識や道徳は矛盾しているということだ。それらは権力支配の自己正当化に過ぎない、ということが言えると思う。」
B「確かに、圧倒的権力は判断の正しさまで造り出してしまうね。」
A「だからもう、こっちは常識や道徳を徹底的に利用してやる。それらを信じているふりをして「識者だ」「立派な人だ」と思わせ、権力を手にする。後は好きなようにすればよい、というわけだ。」
B「・・・なるほど。企業や政治家なんかは、結構そういうことをやっているんじゃないだろうか。「地球環境を考えて」「国民のために」なんて言って、自分が権力を得ようとする。政治家なんて、選挙期間中は「皆様のために」なんて言っているけど、当選したら結構「悪い」ことをする人もいるね。」
A「そうだ。権力の座に就いた者は、そういう風に結構賢いものだ。中には本気で「世のため、人のため」なんて考えている馬鹿者がいるかも知れないが、企業なんかはそれではとても生き残れないだろう。」
B「・・・。」
十七
A「判断の「正しさ」の保障者としての権力。「全ての人間に平等に生きる権利がある」といった霊魂崇拝思想さえ、今や権力によって「正しいこと」に変えられている!」
B「・・・ほう。すると君は、生きる権利のない人間もいると言うのかい?」
A「待て待て。権利だとか義務だとかという言い方自体がおかしい。権利は、権力によって保証されるものだし、義務は、権力によって強制されるものだ。つまり、権利があるからやっても良い、義務だからやらねばならない、なんてのは、権力が全てだと言っていることと同じだ。権力者の決定に任せます、とね。」
B「それはそうかも知れないけど、平等であるというのは重要なことだろ?」
A「平等主義なんてのは、先ず、どうにも実現できないものだ。生まれ付き能力のある者もいるし、能力のない者もいる。機会平等ではないわけだ。じゃあ結果平等にしよう、と、全ての優れた能力を無視してしまうなら、能力の優れた者は損をするわけだ。だから結果平等も、決して平等ではない。」
B「それはそうだけど、少しでも平等になるように工夫することが大事なんじゃないか。」
A「そもそも、何故「平等であることは良いことだ」と思ったのだ?」
B「それは・・・そうか。ただ、そう言われているだけだ。昔は白人と黒人の扱いは平等ではなかった。別に平等であることは「良いこと」とは限らなかったわけだ。それが今は違う。何でも平等、平等だ。だけどそれはただ、常識が変わってそうなっただけで、本来、平等であることが「絶対に」良いことだったというわけではないのか。たまたま今の常識ではそうなっていて、僕が常識に染まっているから、「平等でなければならない」と思い込んでいただけだ。さらに言えば、権力による「義務教育」が、平等主義は「正しい」と教えていて、僕らがそれにまんまと引っかかっていただけなのか!」
A「そうだ。良い、悪い、という判断は、人間がするものだ。だから、平等であることが「良いか、悪いか」も、人間が勝手に決めることだ。何も原理的、自然的な根拠があるわけではない。むしろ原理、自然に従うなら、平等主義なんて明らかにおかしい。ヒトがヒトに進化したのは、自然淘汰の結果だった。自然淘汰というのは正に、「優れた個体・種が生き残る」という原理の典型だ。その結果、こうして考えたり、喋ったりすることが出きるようになった人間が「平等なのは良いことだ」なんて言っている。少なくとも、原理、自然に従うなら、平等主義は正に「間違っている」のだ。もし平等主義というのが、原理的、自然的なものだったならば、即ちあらゆる種に能力の差がなかったのならば、人間は未だに単細胞生物だっただろう。」
B「・・・なるほど。結局「平等であることは良いことだ」というのは、少なくとも非原理的、反自然的な信仰に過ぎない、ということか。」
A「そうだ。何があったか知らないが、たまたま権力がそう言いだしただけだ。平等という考えとは対極にいる筈の「権力」がね。昔は、奴隷には、まともに生きる権利など与えられていなかった。何故ならば時の権力がそう決めたからだ。今は、誰にでも平等に生きる権利が認められている。少なくとも表面上はね。それも、今の権力がそう決めただけだということに過ぎない。だからまあ、「全ての人間に、平等に生きる権利がある」なんてのは、勝手な妄想の一つに過ぎないのだ。それも非原理的、反自然的、ついでに言えば非科学的で霊魂崇拝的な、ね。単に、今の権力に迎合しているから、なんだかそれが「正しい」こととされているだけだ。」
B「うーん、そうか。原理は解った。「平等であることは良いことだ」なんていう言い方はよそう。」
A「そして、権力はそんな嘘さえも正当化できるのだ!」
十八
A「僕たちが一番信頼できるのは、本能的欲求だった。で、いくら「全ての判断は信仰に過ぎない」としても、その欲求に訴え掛けることの出来る権力は、信じるに値するものだ、ということだ。権力を手にし、少々の悪事は見逃され、金を稼いで、まあ自分のやりたいことが大概出来るようになることが、最高の「得」だろう、と。」
B「うーん、確かに君の言った通り、生き方の指針、物事の考え方は、大きく揺さぶられるなあ。」
A「そうだ。「何が正しくて、何が間違っているか」は、そんなに重要ではない。何故ならば、正しい、間違っている、は、権力が決められるものだからだ。「権力の優位」、これが第三原理だ。」
B「・・・なるほど。第一原理は「認識の信仰性」だった。全ての判断は確実ではない。で、第二原理として「欲求の一元論」があった。最も確実だと思われるのは、本能的欲求だった、と。だからこそ本能的欲求に介入する手段としての権力は、信仰の対象になり得ると、こういうわけだね。それが第三原理「権力の優位」か。」
A「そうだ。信仰とは言え、霊魂崇拝だとかよりはまだしも信じやすい、欲求という原理を用いている。ついでに言えば、自然的で科学的、合理的、論理的だ。それでまあ、「世のため人のために」なんてことを信じるよりは、これを信じた方が「得」だろうな、と思うわけだ。」
十九
A「ここまで話したのが、僕の考え方の根幹となる基礎部分だ。基礎とは言っても、個人的な実践の為にはこれだけを理解しているだけでも随分と違ってくる。下らない道徳に縛られて行動を抑圧される機会は減るだろうし、原理的な根拠のないものを頭から信じ込んで騙されるようなことも少なくなるはずだ。重要なのは、これらのことを初めから信じ込んだり、反発したりするのではなくて、それについて納得がいくまで考え抜いてみることだ。それでも道徳を信じるというなら、どうぞ御勝手に。もちろんその場合、僕は君のことを徹底的に軽蔑し、あらゆる僕の利益を君に与えないことになるけどね。一切の道徳的罪悪感なしで。」
B「ハハハ。なるほど。君を敵に回さなくて良かったよ。」
A「まあそれは冗談にしても、道徳なんて科学的には、そして常識的に検定しても、全くでたらめの体系だということだよ。」
B「うん。僕は今まで、科学よりはむしろ道徳を信頼していた。今は、何でも科学、科学だからだ。しかし考えてみれば、科学だって絶対じゃないし、そう考える僕の判断も絶対じゃない。「科学は絶対じゃない」という判断を「絶対的に」信じることは、科学を絶対だと信じるのとあんまり変わらない。どちらも独りよがりだし、むしろ今の権力と迎合できない分、損だ。だから科学も道徳も、それが正しいとか間違っている以前の問題として、「自分の得のために利用してやる」と考えるのが、やっぱり一番得なんだろう。」
A「そういうことだ。科学は絶対じゃないが、幽霊を恐れる必要はない。日本では、ハチに刺されて死ぬ人は年間何人かいるが、幽霊に殺されて死ぬ人は、まずいないのだ。そんな小さな可能性を恐れてびくびくするのは、まるっきり損だし、普通は「馬鹿な奴だ」と思われる。だから基本的に、自分の「得」のためには、自然科学はかなり信頼して良いと思う。何度も言うが、自然科学は絶対じゃない。だけどそれなりの成果は上げてきた。そういう点から判断すれば、自然認識の方法としては、オカルトは自然科学以上にしょうもないものなのだ。」
B「良く解るよ。」
A「まあともかく、同じように、道徳なんて大したものじゃないと解れば、「傲慢だ」「独りよがりだ」「冷酷だ」「非情だ」「悪人だ」「偽善者だ」「優しい」「立派だ」「善人だ」「尊い」なんていう、一切の非原理的な道徳的評価も気にならなくなる。幽霊が怖くなくなるのと同じようにね。道徳的な意味での「人間性」の差は、「今の権力と考えが同じか、違うか」という程度の差でしかないからだ。」
B「なるほどね。」
A「それよりも、やはり道徳は矛盾点が多すぎる。価値観容認の時代、なんてテレビで言われているが、本当の意味で他者の価値観を認めるというのは、道徳に迎合しない価値観をも認めるということの筈だ。僕みたいな差別主義者も、不平等主義者も、「悪人」も、犯罪者も、みんな認めるということだ。それなのに、そうした人間の価値観は、権力で一方的に踏みにじられるのだ。何が価値観の容認なものか! 結局道徳者の態度は、典型的な「自分の言っていることだけが正しい」であり、気分的に自分の趣味に合わぬものは、全部一方的に排除する態度なのだ! 今や不道徳性の牙城となってしまった「道徳」は、克服されねばならない!」
B「・・・。」
A「結局、道徳的に「悪い」こと自体に、何の意味があろう? そこに何らかの「良くない」意味を付与するのが道徳者たちだ。彼らは同時に自らの行為自体にも、何らかの「良い」意味を与えようとする。「価値観の容認」も「他人に迷惑を掛けなければ何をしても良い」も「人間は平等だ」も、全て、道徳者だけが得しようと企む、不道徳性の現れなのだ。道徳者は嘘をついてまで保身する! いよいよ道徳は没落した! もう道徳など、幽霊と同じくらい、信ずるに値しない。幼稚なお伽噺は信じるな! ああ、僕の言っていることは価値観の押しつけだとも。だが、それは正に、道徳者がこれまでいつもやってきたことではないか!「価値観を押しつけてはならない」という価値観の押しつけ、「他人に迷惑を掛けるな」という迷惑な強要、他のどんな考えよりも「常に必ず優れている」と信ずる平等主義!」
B「うーん、熱くなっているね。でも、なるほど解ってきたよ。」
A「僕が真に道徳的に行動してみようとする。だけどそれでは、何もできないのだ! 殺人犯を罰するのも「人が人を裁くこと」だから不徳、かと言って殺人を許すのも不徳だ。結局道徳なんてのは、何をしても不徳になるようにできているのだ。人を傷つけないために嘘をつくべきか? 判断を下すのは、「道徳者」と称する宗教家の「気分」なのだ。道徳者という「絶対に正しい」権力者なのだ。矛盾だらけの「直感主義」道徳を克服せよ! ・・・これはもちろん、矛盾のない「より良い」道徳を信じろ、という言葉ではない。原理的に、道徳自体が実践不可能なのだ。むしろそれとは逆のことを僕は望む。つまり、価値観を押し付けよ! 自分の損得だけを考えろ! 権力を守り抜け! 邪魔者は巧く排除せよ! 賢い無道徳者になりたまえ!」
B「これが君の無道徳主義か。なるほど時代や状況によってコロコロ変わる、しかも矛盾だらけの道徳よりは、まだしも信頼できるし、信じて「得」な気がするよ。」
道徳への鉄槌
二十
A「くどいようだが、もう一度道徳批判を繰り返そう。道徳を「疑う」段階から、道徳を「無視する」段階への心境の変化は、多くの場合極めて困難だからだ。僕もそろそろ「飛ばして」行こう。つまり、ここからはより一層「傲慢に」語る。僕の経験から言えば、「頭では解っているが・・・」という段階の踏み越えは、徹底的で一方的な批判によって為されるからだ・・・覚悟してくれよ。」
B「ハハハ、それは恐ろしいね!」
A「さて、君は恐らく、僕の言っていることを概ね理解していると思っていることだろう。しかし、君がどれ程「以前の自分」を克服できるか? どこまで道徳を「道具化」し得るか?。」
B「ああ、遂に君が僕の批判者となった・・・それは恐ろしいことだ! しかし、正直に言えば、僕はまだ君の主張を完全に受け容れるには少し早いようだ。「納得は出来る・・・」というレベルに留まっている!」
A「僕の主張に対して「感覚的反発」を持つということは、それだけで一つの「不徳さ」の証明になり得る。僕の主張を理解し、吟味し、その上で違う立場に立つというのならばともかく、僕の主張を真剣に受け取らず、しかし「常識者」として僕の意見を無視するならば、それこそが正に権力支配だ! 実際そうした人物が多いからこそ、僕は「常識的社会」において、極めて肩身が狭いのだから。少数者の言うこと、自分の理解を超えたもの、自分とは異なる者を一方的に排除する不道徳者! そのことに自覚がないということは、それこそが最も不徳に違いない! そしてそれ故にこそ・・・道徳を克服せよ! ああ、僕の言っていることが解るか?「解りません」・・・そうだ、解らぬ者もいるであろう。いや、もっと理解の共有が困難な思想もあることだろう。例えば宗教だ。それらに対して、これまで「道徳者」が何をしてきたか? 権力の発動だ!「常識者の道徳」の判断の、一方的な押しつけだ! 最高の程度に「絶対正しい」存在、「道徳ゲーム」における審判そのもの!」
B「・・・。」
A「今や、「道徳」とは一体何であったか? 果たして「他人を思いやる」理念が、「他者を受け容れる」啓示が、「正直にある」教えが・・・何であったか? ああ、我々は不幸な者の自殺を止めてはならない。何故ならば、我々如きが真に絶望した不幸な者の死を止める権利を持っている筈がないからである。ああ、我々は自殺を止めねばならない。何故ならば、彼の死は他の人間に絶望を与えるからである。ああ、我々は偽らねばならない。何故ならば、真実は時に人を傷つけるからである。ああ、我々は偽ってはならない。何故ならば、人を欺くことは不徳だからである・・・。「道徳者」は、これらの種々の「道徳的行動」の中から、最も自分の行い易い、最高度に「道徳的だ」と評価されるものを無意識的に選んではそれを指向し、納得し、自己満足を達成するのだ。それは他ならぬあの「道徳ゲーム」であった。決して、「絶対に」正しいものなどではなかった。それどころか、このゲームはルール上、全く破綻していたのだ! どの行為も、捉え方によっては「不徳」になり得るし、逆にもなり得たのだ。それ故に、ゲームの「審判」・・・即ち「常識的道徳者」の言うことだけが、「絶対に正しい」ことであるかのような錯覚を生んだのは当然のことであった。ルールに馴染めぬ少数者を一方的に「不徳だ」と決めつけ、自分たちを「立派な人間」に仕立て上げた、あの忌々しい「道徳ゲーム」! 退屈な「道徳ごっこ」は終わったであろうか・・・? 幼稚な「罪のゲーム」は克服されたであろうか・・・? 我々のすべきことは、もっと完全なルール、無矛盾で、如何なる少数者にも納得でき、「世のため人のため」になるようなルールを持った「道徳的な道徳ゲーム」を造るか、或いは「道徳ゲーム」自体を止めてしまうことである! そして、我々に出来ることは、ただ後者のみである!」
B「うん・・・」
A「道徳解釈における自由主義。あらゆる行為が「不徳だ」と解釈され得るにも拘らず、「道徳的な」人種が存在し得るとは! 誰が恣意的に解釈を偏らせたのかの問題。「常識的道徳者」と称する権力集団が、解釈の自由に任せて「これは道徳的」「あれは不徳」と・・・自分たちの都合の良いように決めつけているだけではないか!「常識的道徳者」になり得るための第一条件としての、認識能力の慢性疾患。自分の見える範囲内だけでの「道徳感情」、換言すれば、自分たちが「善い」と信じてさえいれば「許される」形式。狂信的権力集団!」
B「・・・。」
A「それとは逆に、冷徹な目を持ち、全ての予想され得る影響を考慮し、その結果あらゆる行為に「不徳」を感じて生きるべきか? 物を食べるのも不徳、食べないのも不徳、死ぬのも不徳、生きるのも不徳・・・勝手にやっていたまえ! しかし、その判断を他者に当てはめてはならぬ! 他者を差別し、搾取し、圧倒し、利用する賢い者に対して、何らの反感を持ってもならぬ。何故ならばその「反感」こそが権力を生み、遂には・・・よく考えよ、全体として・・・道徳が権力に転換されるのだから!」
B「ああ・・・!」
二十一
A「道徳ゲームの終焉! 例えば我々にとって、「権利」だとか「義務」だとかの概念は原理的に没落する。あるのは自分の欲求への責任、言い換えれば欲求への自己補償だけだ。君が権力を発動するとき、他の権力が報復する。それを望むかどうか! 欲求の比較、一切の判断はそこへ還元され得る。」
B「・・・。」
A「例えば我々にとって、「確実に正しい」「絶対に誤っている」といったような概念は原理的に没落する。我々が何を信じれば「得」であると信じるか、それが全てだ。そしてそれ故にこそ「信じなければ損をする」状態を造り出すもの、権力が、いよいよ力を得ることになるのだ。道徳が権力に転換される!」
B「うん。」
A「例えば我々にとって、「人間性」や「善人」などの道徳的概念は原理的に没落する。そればかりか、実践的にも我々の判断での「賢い」「愚か」だけが、我々にとっての判断基準となり得る。「優しい人」が近くにいれば確かに「得」ではある。ただし、それ以上ではない! 彼らを徹底的に搾取し、操作し、利用せよ!」
B「・・・。」
A「それ故に我々は馬鹿馬鹿しい義務感と怠惰と愚行とを排除しよう! 世俗的利益を求めることに「罪悪感」を感じてはならぬ! 権力を掴んで安住する者に対して「自分の方が人間的に上だ」などという怨恨感情を抱き、権力への志向を失ってはならぬ! 道徳に溺れて権力者を誹謗し、権力からの反感を買ってはならぬ!「人間性」「善悪」その他一切の「正しさ」を決定する権力へ! 価値の創造者!」
二十二
A「もはや「そうした行為は許されない」などという言動は・・・とんだ笑いぐさだ!「許さない」のは誰か? まさか「神」ではあるまい! 誰に対して「許されない」のか? 僕が言ってやろう、それは道徳者に、そして道徳者に対してのみ「許されない」のだ! 道徳という分散権力を手に、少数者を圧倒し、排除する狭量な精神の持ち主こそが「道徳者」なのだ! この上なく狭い条件付きの「他者の価値観の容認」! 彼らの手に掛かっては、何もかもが「許されない」のだ。「我々の一味になれ」・・・「道徳者」の言いたいことはこれだけか? 狭い価値観を押し付ける高等技術、権力を無意識の内に振り翳す典型形式、即ち「道徳」・・・そうした態度は「許される」とは! 同じだ! 全く同じだ!「常識者の道徳」と、「オウムの道徳」と、一体何が異なることか! 結局全てが彼ら「道徳者」の独断に任されるとは! そうではない、我々の行為は全て「許されている」のだ! 絶対の判断者、「神」は、もはや死んだのだ! 我々は他の誰によっても制限などされていない! その行為とそれに付随する結末を、我々が望むかどうか、それが全てなのだ! 自由主義の最高理念は、無道徳主義にのみ属するのだ・・・。」
「道徳ゲーム」のその後──結びに代えて
こうして、「道徳ゲーム」の勝ち負けには、審判の決定が極めて大きな役割を果たしているということがしだいに明らかになってきました。審判の判断が全てを決するならば、結局審判こそが、権力者こそが「善悪」を含む判断の「正しさ」を造り出しているというわけです。昔は「神」がいましたから、審判が不道徳的な判定をすれば「あの審判は間違っている」と言うことが出来ました。ところが今や、「絶対に」正しい、「確実に」間違っている、などと言える者は誰もいません。それどころか「私の判断は絶対だ」と考えるのは、「傲慢な」態度であり、「道徳的」ではありませんから、如何なる論拠をもってしても「道徳ゲーム」のルール上、審判に逆らうことは出来なくなりました。いよいよ、「道徳ゲーム」は「権力ゲーム」としての性質を持つに至りました。
困ったのはそれまで「常識的道徳者」と呼ばれていた人々です。彼らは実践力を持ちませんでしたから、なかなか権力を手にすることが出来ません。実践力を持った「不道徳的な」権力者が審判の座に就けば、彼らは排除されてしまうのです。かつてルールに抗議し、排除されていった者たちと同じように・・・。今や「道徳者」たちは、自分のしたことを呪いました。「ああ、あの時抗議した者達を、何故私たちは嘲笑ったのだろう。何故私たちの判断だけが「正しい」と信じていたのだろう!」と・・・。しかし、全ての人が納得できるようなルールなど、初めからありません。「道徳ゲーム」は、「道徳的なゲーム」としての地位を完全に失いました。それは初めから、「権力ゲーム」の一部だったのです・・・。
それでも未だに「道徳ゲーム」は正しいのだ、と言い張る人もいます。彼らは、審判がたまたま「常識的道徳者」であることを良いことに、自分の主張こそ「本当は」正しいんだ、と考えています。馬鹿馬鹿しいことです!「道徳ゲームをする」というカードこそ、「道徳ゲーム」において最も得点の低いカードなのですから。何故? 何故ならば、結局「道徳ゲーム」は、多数者の権力で少数者を一方的に排除するゲームだからです。それは何度も確認しましたよね?
今や私たちは、如何なる道徳性をも目指すことは出来ません。「道徳ゲーム」さえ「道徳的なゲーム」ではないと言うなら、どうして私たちが道徳的であり得るでしょうか? そしてまた、「道徳ゲーム」が「権力ゲーム」の一部であるならば、私たちにはどんな道徳性も必要ないのです。必要なものがあるとすれば、精々「権力ゲーム」での勝利くらいのものでしょう。
「権力ゲーム」には審判──あの傲慢な、一方的な、独断に満ちた存在──はいません。実践という結果があるだけです。その代わり、「権力ゲーム」の勝利者は、他の全ての「ゲーム」の審判になれるのです。そして、「神」が死んだ今、審判の判断を「本当は間違っている」なんて言える者は、もはやどこにもいないのです。今や、審判を批判できるのは・・・これまた、権力ゲームの勝者だけなのです。
「道徳ゲーム」のどこに問題があったのか、それをもう一度確認しましょう。「道徳ゲーム」は決してそれ自体ゲームとして完成しているわけではなくて、「権力ゲーム」の内の「道徳ゲームをする」カードの効果としてしか存立出来ないということ、つまり、結局「道徳ゲーム」の勝ち負けは、審判という権力者の独断で決められてしまうということ・・・。これは正に、ゲームとして致命的な欠陥です。だって考えてもご覧なさい。私たちがトランプを楽しめるのは、そこに明確なルールがあるからです。お互いにルールを受け容れてプレイするから、勝ち負けに納得がいくのです。もしそこにちゃんとしたルールがなく、それ故に一人の乱暴者が自分に都合よくルールを解釈するとしたら・・・私たちはトランプを楽しめる筈がないではありませんか! そしてその乱暴者こそ、これまで楽しく「道徳ゲーム」をプレイしてきた人々、つまり「常識的道徳者」と呼ばれる権力者でした。彼ら以外の少数者の意見は、いつもいつも「間違っている」ことにされ、少数者は「人間的に劣っている」と評価されてきました。何が「道徳」でありましょうか!
こうしたことから、「道徳ゲーム」とは最も不道徳的なゲーム、即ち「権力ゲーム」の一部に過ぎないということが、ようやく人々の理解するところの事実となったのです。さあ、しかしいよいよその「権力ゲーム」も白熱してきました。あなたは、次にどのカードを選びますか・・・?
一九九八年 六月
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