名言とギャグ
センスの死
現代的な病
の3本だてです!
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- 名言とギャグ
お笑いの世界での成功を夢見る全国の若手芸人たちが年に1度、賞金1000万円と次年度以降の大ヒット(=仕事)とを賭けて戦う『M-1グランプリ』において、島田紳助(敬称略。以下、芸名等について同様)やダウンタウン松本人志が、コメントや審査を担当するという形で「頂点を極めた雲の上の存在=神」としての役割を演じ、上から見下ろすようなコメントをする風景に対して、これといった違和感を覚える必要はなかろう。その種の儀式性をはらむこの舞台が、若手たちに「神聖さ」を感じさせずにはいられないこともさして不思議ではなく、それが求められ、しかも上等に機能していることも理解できるからだ。
だが、こともあろうにこの聖地で、島田紳助が気の利いたギャグや警句めいた芸指導の代わりに、「感動」を安売りしはじめたとすれば(2003年、2005年ともに複数回「感動」と発話した※)、松本人志を含む誰もがテレビカメラから目線を逸らしながら、まるで偶然にもその刹那にだけは別の案件に思いを馳せていたのだといわんばかりの態度で接せざるを得ないのも致し方ない。視聴者は、不幸にも「感動」の文脈に巻き込まれた若手芸人が、テレビカメラにむかって、斬新な「ボケ」「ツッコミ」を誇示する代わりに「ありがとうございます」という穢(けが)れた駄言を呟く姿を目撃することになる。それに続く、「なるほどぉ……さて」といった禍々しい番組回しを余儀なくされた司会者の人工的な無表情と、この事態の推移とを目にすれば、東大生になるか医者になるかお笑い芸人になるかで少々悩んだあげく、結局凡庸なる東北大生になるよりなかった私が苦々しい思いを持つことも許されるだろうか。
私は何も、これが島田紳助ではなく笑福亭鶴瓶であったなら、司会・今田耕司の「さっきから感動しすぎちゃいますのん……年末やからて、丸い顔して」程度の発言で、冗長な即席感動から最低限の笑いの文脈をかろうじて奪い返せただろうことをもって、権威性の暴力とお笑いとの縁遠い関係について論及したいのではない。島田紳助という偉大な芸人が、近年では、テレビに映るたびに「感動」を連発することのうちに秘められたある種の取り返しのつかなさと、皮肉にもそれが表している氏の成功=安定、即ちテレビにおける「お笑い以外もできる人」という役割の偽らざる獲得ぶり、そこに至る過程の一つとなったと目される感動生成番組への出演――やしきたかじんらによって、ことの残念さは当時から既に指摘されていたが――に対して、特段の個人的な悪意を伝えたいわけでもない。
面白さを出すための最良の方法が「それ面白いね、と言うこと」では決してないのと同様、感動を演出するためのそれが「感動した、と発言すること」とは真逆の何かに他ならないという真実に対する氏の無頓着ぶりを示したいのでもなければ、「明石家さんま、千秋、ダウンタウン、ロンドンブーツ」といった反=感動的な芸人を並べ立てて、その下にそれと照応させる形で、これみよがしに「島田紳助、久本雅美……」などと書き連ねて差異を際立たせたいわけでもない。
そうではなく、笑いの文脈、笑いを作りだすためのセンスと、感動の文脈、名言を生み出すセンスとの間にある、否応ない二律"排反"性・相互排他性をもう一度確認しておきたかったのである。
わかちがたく結びついている感動と名言との関係は、そのまま権威と支配形態との関係になぞらえることもできよう。「堅く力強く」構築された感動や権威が自らの力を保持する上で恐れるべきものは、もはや相手にならない脆弱な反論やパフォーマティヴな反体制的運動ではなくて、「ずらすもの、調子を狂わせるもの」としての「笑い」に他ならない。
学校の先生が何かクラス内で生じた道徳的問題――例えば、いじめ――を発見して昂ぶっている場面を考えよう。平素は取り立てて嫌われたりバカにされたりしているわけではない、この大声を張り上げる大人を前にして、生徒は一応静まり返っている。教壇に立つ彼は、生徒が反省の色を見せ、従順になり始めるのを確認した上で、次第に自らの怒りの言葉を、感動の旋律と名言の文脈とに調和させはじめる。この手法で長年、彼はクラスをまとめてきたつもりである。
ここでふと、いじめとは何の関係もないクラスの男子が、前の席の別の男子にちょっかいを出して小さな声でクスクス笑いはじめる。
「人の話を真面目に聞け~~ッ!!!!!」
いじめを発見した時よりもさらにいっそう顔を赤らめた彼が怒号をあげる。全てを「教室システム」の内側に回収し直し、いつものように平和が戻ってくるという筋書きを通すために――。
この皮肉な出来事の前後に、「先生-生徒」「指導する-指導される」「咎める-咎められる」「善を教える-善を教えられる」といったような関係性の全体は、何一つ転換されてなどいない。むしろ平均的には強められてさえいるのかもしれぬ。
ただ、ごくわずかに弛緩し、文脈をずらされ、「調子が外れた」のだ。ある一人の生徒の悪意ない「笑い」を通して、生徒のうちの何割か――いや数名、ことによるとたったひとりだけ――が、この仕組みの中にある奇妙さ、各人の役割、演劇めいたもの、戯画性、そして名言性といったものに、センスや程度の差はあれ、薄々気づいてしまったのだ。つまり、どんなに荘厳な宗教的儀式(簡単な例で言えば、黙祷や葬式)も、漫才の席上に乗せられれば、さも真面目そうに漫才師に演じられれば演じられるほど、笑われる「オチ」がつくより他にないのと同様に、ずれた-ずらされた真面目さは容赦なく滑稽なのである。
「感動すべき場面」で感動しなくなること、「名言」が通用しなくなること、そうした文脈の生成を妨害されることほど、教育者(あるいは上司等、「教育者の役割を担う者」)にとって避けるべき事態はないと体験的に感じていた教師は、だからこそ、いじめと比較すればそれほど「悪い」行為をしていないかに見える生徒の態度を厳しく咎めたのである。
しかし実は、「感動」や「名言」が常に通用しているかに見える場面においても、必ずしも本当にそうなのではない――他ならぬ「ギャグセンス」のある者によってのみ、「感動」と「名言」は心の内でそれとなく反復され、笑われ、面白い話題の糧とされているに違いないのだ。だから休み時間になればいつでも、「先生の怒り方」を真似してみせる生徒が現れ、そこにいる全員を救ってくれる。
頑なに名言を口にし続け、「感動を呼ぶ語り」を病的なまでに反芻する連中に、ひとたび「面白い話題」をふると、途端に彼らの口が鈍重になり、場合によっては場を凍りつかせてしまうのも、世界・社会・他人のありかたに悲劇的なものばかりを見てとろうとする輩がネット上に公開している「日記」とやらが例外なく笑いを提供しないのも、一方で洗練された「ネタ」を提供する者が、必ず何かしら言葉の端々に「知性」を感じさせるのも、笑いと感動との生成過程における不可逆性・不可侵性の構造が存在するからである。つまらない説教を垂れる人間に限って、オヤジギャグ(=名言的なもの、飽きることなく繰り返されるもの)を口にするではないか。
感動が権威であり名言が(家庭的・学校的・職場的)支配形態となるような一種の通俗的あり方から逃れるための最良のスキルは、ギャグセンスの習得を除いて考え難いし、教育者的な役割を担う者にも「感動」「名言」以外の教育作法を身につける必要があるのだと仮定すれば、それもまた、ここで私がそう呼ぶところの「センス」以外ではありえない。
※なお、島田紳助の「感動」発言について、筆者が確認した限りでは、2005年のM-1グランプリではマイクに拾われたのは2回だけである。ただし、音声が入っていない場所で口が「KANDO」と動いているのをビデオで確認した。視聴者とは無関係の場面でも「感動」を口にしているのだとすれば――事態はいささか深刻である。
- センスの死
「犬は、近所の私に行くとき、スーパーマーケットを連れていく。その私のすぐ向かいにある別の私に比べて、こちらは安くてエサがいろいろある。」
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