(大学生の頃……2000年くらいに書いた文章です)
『神話から現実へ!』 道徳がいかに論理的にデタラメかを詳細に語る2
神話から現実へ!
とつげき東北
(大学生の頃……2000年くらいに書いた文章です)
(大学生の頃……2000年くらいに書いた文章です)
「コーヒーとミルクとが何対何の比率で混ざったカフェオレが、最も美味しいカフェオレか?」──この形式の問いに短絡的な答えを出してしまうもの、それが当然の常識であり、守るべき道徳であり、愚にもつかない神話である。
Ⅰ 最も美味しいカフェオレとは何か
最も美味しいカフェオレ、それは何か宗教的でさえある。仮にカフェオレの美味しさがコーヒーとミルクの比率だけで表せるとしても、好みの違い、状況や時間的な差異などの要因によって、その「最良の」比率は当然変化する。単純にミルクが嫌いな人もいるし、逆の人もいる。十分前にコーヒーを三十杯も飲まされた人にカフェオレを勧めれば「ミルク多めにしてください」と涙目に懇願するかも知れない。コーヒーとミルクの理想的な比率は、決して初めから客観的に与えられたり、普遍的に妥当するものでないことは明らかだ。どんな基準(誰が、何に対して、どのくらい、など)で解釈するかによって判断や評価は変化するのであって、一つの基準を絶対視して「最も美味しいカフェオレはこれだ」と真面目に語るのは、今や滑稽に違いない。
別の場合も想定してみよう。「能力」という言葉があるが、この解釈基準も全く主観的・固有的に決定されざるを得ない。わかりやすい例として「数学の能力」を取り上げよう。数学の能力? 数学の能力はある種のテストで点数化されるが、このテストの、まさに「配点比率」がこれを大きく左右する。「微分積分は得意だが、図形問題は苦手」な人は、解析学重視のテストでは高得点を取れても、幾何学重視のテストではそうはいかない。「解析学と幾何学とが何対何の比率で配点されたテストが、最も客観的な数学の能力を表すか?」──。開き直って「解析学」と「幾何学」とに分けてテストを行う方法も、結局は「客観性」を追求するための何の根本的手段にもならないだろう。幾何学とは言え、角度を求める問題が重視されるべきなのか、円の性質を考察する問題が重視されるべきなのか、それとも……。
仮に誰かが、数学の能力の客観的基準は、解析学と幾何学の比率が一対一のテスト得点で表される、と主張したとしよう。しかし、そのような基準で測られた「数学の能力」で、実体的な「数学的活動の上手さ」を「客観的」に捉えられるだろうか? 中学校の数学教師には微積分の知識は必要ないから、たとえ「客観的」テストの点数が悪くても、仕事に必要な分野が得意な者が向くだろう。結局「能力」とは、極めて個別的な状態をモデル化した単なる一つの解釈であり、その基準は状況や目的によって常に変化するものなのだ。
それにもかかわらず、常に客観的な判断が語られる種々の状況が実際にある。偏差値の高い者よりも、心の優しい者の方が立派だとされたり、「偏差値ではない賢さ」こそ必要だと言われたり、或いはそれらのバランスが重要だとされたり、要するに幼児向けのおとぎ話である。解釈の基準を何も考慮せずに「バランス」だとか「本当の賢さ」だとかを口にするのは「最も美味しいカフェオレ」について雄弁に語るに等しい。あらゆる判断は解釈主体の基準に依存する。故に──別に筆者がそう考えているわけではないが──「偏差値(学歴)こそ全てだ」と捉える解釈も「あり」の筈である。そうした捉え方をする者を「可哀想だ」とか「そんな人生はつまらない」とかと批判してみても、「哀れさ」や「人生の価値」の解釈もまた個人に相対的であるわけで、何の意味も為さない。
初めに基準ありき、この視点をもう少し原理的な形式に適用してみる。一足す一は二だ、こうした「正しさ」の判断もまた、脳構造の状態(基準)に依存する一つの解釈でしかない。その証拠に、脳構造的に「一足す一は二だ」をどうしても「正しい」と判断できない状況は可能である(物理的にだけでなく、より現実的に心理的にも可能である)。この場合の配点比率(脳構造)は、数学テストの配点比率よりは自然に形成されるものであるにせよ、結局は一種の環境的・文化的なイデオロギーに他ならない。一足す一は二だ、と解釈すればつじつまが合うからそれは正しい、と考えるのはナンセンスだ。つじつまを合わせるだけなら、例えば「夏は必ず春の後にやってくる。だから春は夏の原因だ」と言ってよいことになる。そうではなくて「正しい」という判断そのものが「最も美味しいカフェオレ」の判断と同様に、独断的で非客観的な解釈にしか過ぎないと捉えることが重要なのだ。全ての「正しい」は、単純に解釈の問題であり、解釈の基準や「配点比率」の決定要素は多様なのだから、一足す一は百だ、というのもまた一つの解釈として可能でなければならない。そんなことを言い出したらどうしようもない、ということは、差し当たって問題ではない。それは「便利か、不便か」の問題であって、筆者の分析とは何の関わりもないことである。原理的・理論的に、一足す一は百であり得なければならないのだ。もしそうではないとしたら──それなら「最も美味しいカフェオレ」はどこにあるのだろうか?
Ⅱ 「私は神だ」という真理
先ほど「美味しさ」の基準が相対化されると共に「正しさ」の基準も相対化された。これは何を意味するか──? 客観的に「正しい」ものなど存在しないということ、つまり一般に「正しい」とされている全てのものは「正しさ」とは根本的に異なった何ものかから導出されるということだ。
それでも「正しい」ものは存在する? 我々が先端自然科学を極め、或いは神と交信して──とにかく何か「正しい」ものに辿り着いたとして──そこで目が覚める、ということは考えられないだろうか? 全てが夢にしか過ぎないという仮定を、我々が取り除くことはできるのだろうか……? 夢の中で、必死に「これは夢ではない」と証明し、「正しい」ものを探している者の姿を想像してみると良かろう。絶対の「正しい」を述べることは「最も美味しいカフェオレ」を探すのと同じで、神話的で宗教的で滑稽な態度であることが理解されるはずだ。
今、証明という言葉を用いたが──もとより「証明」だとか「根拠」だとかといったものは、本質的には「正しさ」と全く関わらない。「正しさ」が共有される状態は「正しさ」の基準が一致した上で初めて可能となる。だから、初めから基準や解釈が全く異なっている者には、それらは何の助けにもならないのである。ここに「私は神だ」と信じている者がいるとせよ。彼を見て、確かに我々はおかしいと感じる。あらゆる科学的根拠を以て、それを否定することができる。ただし、あくまでも「我々から見た」我々の正当性が保証できるだけだ。「私は神だ」の者が、常識や科学などの共通理解を全く持たず、神としての判断基準(私は神であるから、何を言われても私が正しい)を持っているとすれば、彼は決して論破されない。深刻な意味で、あらゆる判断・認識・解釈は、ことごとく一種の信仰である。彼が「私は神である」と信じたことは、我々が「彼は神ではない」と信じたことと、何も形式的に変わりない。我々は「私は神だ」という主張さえも原理的に正しく批判できないのだ。
筆者の記述に色々の反論もあろう。「そういう合理的な考え方はつまらない」といった的はずれの反感から、「正しいものがないなら、この記述も正しいとは言えない」などのありがちな反論、その他種々の反発や批判が想定されるが、結局それらは全く問題ではない。要するにそれらを含む全てが解釈に過ぎず、どんな解釈も、常に「そうではない」と解釈され得るということが重要なのである。もし仮に神や科学や、筆者の記述に対する何らかの反論などが「絶対のもの」であるとしても、それが筆者と何の関わりがあろう? ──ない。たとえ「絶対のもの」だろうと、筆者にそうと解釈されない限り、筆者にとってはそうではないのだ。そしてこのように解釈する筆者がいる限り、あらゆる判断、あらゆる「正しさ」は、決して絶対的でも原理的でも、客観的でさえもあり得ない──(筆者の記述はあまりにも非常識だ、と思う者は、例えば現代思想を少しでもかじってみると良い。筆者がいかに学問的常識を語っているかが一目で解るだろう。自然科学を見ても同様である。数学や論理学の原理的な正当性は証明されないということを、ゲーデルが数学的に証明している。「常識」もまた解釈なのだ)。
Ⅲ なぜ人を殺してはならないのか
「私は神だ」を否定するためには共通理解(自然科学的知識や論理実証主義など)が必要なのと同様に、証明の正当性や根拠の正しさなどの判定には「真偽」や「正誤」の基準を規定する構造、共通の信仰が必要となる。そして筆者が問題とするのは、まさにこの、共通の信仰が成立しない可能性についてなのである。
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