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【非会員でも閲覧可】為五郎オリジナル小説⑤『Dear My Friends』第2話

2018/06/08 12:29 投稿

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 私こと濱本綾香と、エリこと溝端愛理は、大阪府の南部に生まれ育ち、同じく大阪府の南部にある『泉州大学』という名の小さな大学(よく考えてみれば矛盾した言葉だな)に通う一回生だ。私はもちろんの事、奇跡的にエリもストレートで合格したので、お互い十九歳である。

 先述した通り、我々は幼稚園から現在の大学まで、全て同じ進路を辿ってきた。しかし、それ以外はほとんど共通点のない二人でもある。
 まず、私が高校三年生の時までずっとバレーをしていて、短髪を貫き通したせい――だと自分では思いたいのだけど、とにかく異性とはほとんど縁のない人生を歩んできたのに対して、小さな頃から突出した美貌を誇っていたエリの周りには、常に多くの男性が存在していたという相違点がある。ちゃんと付き合った男の数こそそれほど多くはないものの、彼女はそういった噂にはいつも事欠かない女であった。ただ、今までのやり取りでもわかるように、彼女は男性に対する理想が尋常ではないくらいに高いので、交際自体は長続きした試しがない事を付記しておこう。
 そんなエリと私は、性格も見事に正反対だ。私は潔癖症とまで周囲から言われるくらいに几帳面な人間なのに、エリはずぼらとしか言われようがないほどの体たらく。先のロケット広場における一件でもわかるように、彼女には規律を守ろうという精神が悲惨なまでに欠けている。それが原因なのかどうかはわからないが、お互いの実家は極めて近い場所にあるのに、一刻も早い自立を望んでいる私が大学近くのアパートで一人暮らしをしていても、エリはさも当然といった様子で家族と一緒に住んでいる。彼女に一人暮らしをさせたならば、いったいどのような惨状が繰り広げられるのか、想像すらしたくない。
 そして、悲しい事に私達は趣味すらも合わない。私は基本的にアウトドア派であり運動やスポーツをしている時が一番楽しいのだが、エリは家に一人で篭って漫画やテレビを観賞するのが一番幸せだときっぱり言い放つ。私は健康志向なので煙草は吸わないが、彼女は十七歳の時から片時もセブンスターを手離そうとしない。
 さらに何よりも決定的な違いは、私が二十歳前の大学生に相応しい知識と常識を兼ね備えているのに対して、エリは恐ろしいほどの天然――ひらたく言えばアホだという事だろう。……どれくらい天然なのかと言えば、高校最後の文化祭で、彼女の美貌と無知ぶりを利用する形で企画され、わざわざ体育館を一時間も借り切って行われた大イベント、『溝端愛理先生の常識テスト』において、そんな時だけは全問普通に正解してしまうほどのタマなのである。要するに、空気すらも読めないほど生粋の天然なのだ。
 だけど、そんな水と油のような私達なのに、どういう訳か昔からとてもウマが合った。今でも自他共に認める大親友として、ほぼ毎日行動を共にしている関係である。基本的に、優柔不断でなよなよしているエリを、気が強く行動的な私が引っ張って行くというのが、二人のお決まりのパターンであり、幼稚園時代から十数年も続いている構図でもあった。
 ところが、今夜に限れば、主導権を握っているのはエリの方だった。大学の最寄りの駅に着いた私達は、そのまま夜の散歩を楽しむ事となった。“最寄り”といっても、この駅から大学までは歩いて十分程度かかる。格段アルコールに弱い訳ではない我々でも、夜風にあたって酔いを醒ますこの機会は、おおいに歓迎すべきものと言えた。
 月明かりに負けてしまいそうなくらい頼りない街灯の光を浴びながら、私とエリは大学へと続く、かろうじて舗装の跡が見受けられる一本道を歩く。周囲では、私達の会話を邪魔しないかのように、木々達が静かに揺らめいていた。
 本当に、この辺りは自然が豊かだ。というより、自然しかない。人工物といえば、聞いた事もないような名前のコンビニ、意図せずにレトロ博物館と化している食堂、動物の為に作られたとしか思えない公園、知る人ぞ知る古書店、そして知る人もあまりに知らない泉州大学くらいのものである。
 思えば、我々の生まれ育った街も、同じような様相を呈していた。どうも、自然に縁があるのかもしれない。もっといえば、(エリは断固として否定するだろうが)田舎が似合う女達なのかもしれない。
「……夜から大学を訪れるなんて、初めてやわ」
 エリがぽつりと呟いた。「ハマちゃんは、そんな経験ある?」
「ない事はないな」
 ぶっきらぼうに答える私。
「まぁ、ハマちゃんの家はここからすぐ近くやもんな」
 先述した通り、私の住むアパートは泉州大学のすぐ近くに存在している。要するに、さっきの駅は私の住居にとっての最寄り駅でもあるのだ。
 アパート自体は最近建てられたようで、家賃が五万円の割にはそれなりに小綺麗で設備も整っているのだが、なんせここまで寂れた環境の中にぽつんと存在している格好になっているので、私のような屈強な女性でもない限り、女一人で住むのには怖い場所だと言えよう。
「今日はハマちゃんの家に泊まろうかな!」
 彼女がぐいっと私の腕を握った。
「はぁ? またか!?」
 『遅刻防止』なんて自分勝手な理由をつけては、日頃からちょくちょく私の部屋に転がり込んできているエリ。本来ならば、一人暮らしの寂しさを紛らわすありがたい行為のはずなのだが、「勘弁してや! あんたが泊まったら、ベッドはボロボロになるし、テレビはつけっ放しやし、お風呂は水道出っ放しやし、洗面所は電気つけっ放しやし、もう何もかも滅茶苦茶になってしまうねん!」
「そう言わずにさぁ! ……せめて、テレビの電源は消すからさ!」
「なんでそんな小さな改善しかできへんねん! 全部に気をつけろよ!」
「“ちょっとずつから始めたい”」
「なんやそのしょうもないキャッチコピーみたいのは!」
 呆れながら私が彼女の腕を振り払う。「それにさ、また前みたいに親から怒られるで」
「大丈夫。ちゃんと『家出します』って連絡するから」
「どうして事態をややこしくするかなぁ!」
「まぁ、いいやん! 今日は泊めてや!」
「今日も、やろ」
 こんなわがまま過ぎる要求ですら、こいつが言うとなんだか愛らしく思えた。「考えとくわ」
「やった!」
 晴れやかな表情を浮かべるエリ。それを見て、私も思わず苦笑してしまう。
「ただし、煙草は禁止やで!」
「ええ~!? 煙草を吸わなかったら、うちは何のとりえもないのに~!」
「少なくとも、煙草はあんたのとりえじゃない!」
 とまぁ、そんな会話を交わしているうちに、いつの間にか私達は泉州大学の正門前に辿り着いていたのだった。
「ここまで来てから言うのもなんやけどさ」
 エリが弱気な顔で私の方を向いた。「桜井さんはここにいるんかなぁ?」
 本当に、何を今さらの発言だった。
「確信があったからあたしを連れて来たんじゃないの?」
「いるかもしれんし、いないかもしれないって確信はあるけど……」
「ものすごく幅の広い確信やな!」
 たまに彼女は言葉の意味を拡大解釈しすぎる傾向があった。「でも、いるんじゃない? あの人、文化祭が近いから、ここんところずっと土日もプレハブで作業をしてるって言ってたし」
「へぇ、やっぱり、ハマちゃんは桜井さん情報に詳しいなぁ!」
「何が言いたいのかくらいはわかるけど、それをあんたが言う前にしばくからな!」
 そう凄みながら、私は勢い良く正門を跨いだ。エリも慌てたように後を着いて来る。最終的にはやっぱりこうなるみたいだった。
 ――『泉州大学』は、全ての施設を合わせても全部で五棟しかない、非常に狭い大学だ。生徒数も千人足らずと、他の在阪大学からすれば大きく見劣りする小規模さを誇る。
 だけど、ここの演劇部だけは昔から著名な俳優を多く輩出している事もあって、それなりに名を轟かせていた。その手のコンクールでは上位の常連でもある。
 そんな訳で、こんなにせせこましい敷地内の端に、部室として一階建てのプレハブが設けられるほど優遇されていたりするのだ。
 そして、その演劇部を事実上管理しているのが、今まで私達の会話に何度も名前が出てきている、桜井俊祐だ。彼はまだ二回生にも関わらず、部室であるプレハブの鍵を一人で管理するまでに演劇部の実権を掌握していた。桜井の事を良く思う人間は、その理由を彼の類まれなる容姿と才能に見出し、悪く思う人間は、彼がこの演劇部のOBであり地元の有力者でもある有名俳優、桜井和正の息子だという点に見出していた。いずれにしろ桜井俊祐という人物が、この知名度は低いものの歴史だけは無駄に長い泉州大学において、一目以上置かれる存在である事は間違いなかった。
 そんな桜井と始めて出逢ったのは、入学当時、つまり今から一年前に、私達が大学新生活に胸を躍らせながら、様々なサークルやクラブを見学に回った時の事だった。エリは、桜井の容姿に惹かれて即、入部を決意。さらに私も、一足先に部員となっていたエリの執拗なまでの勧誘と、『君には何か感じるものがある』という桜井の甘言に惑わされて、そのまま入部する運びとなってしまった。
 ところが、“何か感じるものがある”はずの私に任された仕事は、基本的に裏方の業務であった。脚本や演出まで手掛ける桜井の助手――と呼べば聞こえはいいが、要するに雑用係だ。いまどき手書きで書かれている桜井の脚本をパソコンで打ち直したり、彼の要請によって色々な資料を調べたりするのがメインの業務で、舞台に立つ事は全くない有様である。いったい、桜井は私に何を感じたのだろう。
 エリの方はといえば、その美貌から将来のヒロイン候補として大いに期待はされているものの、台本を覚えられないのならまだしも、勝手に改変してしまうといった暴挙によって、いまだにその他大勢から抜け出せないでいた。一度だけ彼女は主役を務めた事があって、それは新入部員によるテスト公演『ロミオとジュリエット』なのだが、あろう事かエリ演ずるジュリエットだけが生き残ってしまうといった奇抜な解釈によって、観客から涙ではなく失笑を買う羽目になってしまった。舞台袖で見ていた桜井の、苦虫を噛み潰したどころか苦虫のフルコースをディナーで出されたような表情は、今でも鮮明に覚えている。
 とまぁそんな経緯で、何故かこの大学では三月なんて忙しない時期に一日だけ行われる文化祭(大学側は、一年の集大成を発表するには秋よりも三月がふさわしく、日数もダラダラと数日にわたるより、一日に凝縮した方が完成度は高くなるという苦しい説明をしているのだが、実は予算の関係上一日しか開催できず、また日付に関しても、人気のない我が大学に少しでも足を向けさせる為に他校との競合を避けているというのが本当のところだと、学生の間ではもっぱらの噂である)を直前に控え、公演予定である推理劇の準備に追われる私達でもあった。
「けれどさ、もう九時やで。さすがに帰ってるんじゃない?」
 エリのその指摘に、私は自分の携帯電話を覗き込んだ。
 確かに、ディスプレイには『九時五分』と表示されている。
「まだ九時やろ。絶対に残ってるわ」
 ……ある意味では、私ほど桜井の事を知り尽くしている人間はいないだろう。なんといってもこの一年、私は演劇部でほとんどの時間を彼と一緒に過ごしたのである。
 さらに言えば……
 私と桜井は、かなり心が通い始めていた。
 先輩、後輩として、ではなくて、それ以上に。例えば、人間として。例えば、男女として。
 ……なんて風に、自分では思い込んでいた。思い込みの激しさだけは、昔から誰にも負けない。
 だけど。
 けれども。
 桜井は、プレハブの合鍵を、あろう事か私ではなく、エリに渡したのだった。
 この『合鍵を渡す』という行為は、泉州大学演劇部において、基本的に部長がその人間を事実上のナンバー2に任命するといった意味合いの儀式であった。いくら桜井自身が二回生で部長待遇という異例な人物とは言え、合鍵を渡されるのが一回生で、なおかつ今は“その他大勢”でしかないエリだというのは、異常事態なのだ。
 そこにもし、論理的な説明を求めるのならば、結論は明らかだ。――桜井は、個人的な感情からエリに合鍵を渡したという事。大学の公共物である部室を、まるで自分の部屋か何かと勘違いしているかのような暴挙。
 なおかつ、私の心を裏切るかのような暴挙である。
 当初は、『わぁ! うちが副部長や!』と無邪気に喜んでいたエリも、そのうち事態の深刻さに気がついて、『そんな責任は負えないし、うちだけ特別扱いされるのもなぁ……』と困った顔で私に相談してきた。そこで、私は色々な意味から『早く鍵を返しなさい。なんだか、相手の好意を受け入れてるみたいやで』とアドバイスして、その直後に、彼女は言われた通り桜井に鍵を返しに行った。……それが、一昨日、つまり二月二十日の出来事であった。
 そういう事情があったから、私は『桜井を注意したい。なんなら殴ってやりたい』とエリに説明したのだ。それなのに、なおかつ平然とプレハブに連れてくる彼女の神経がよくわからなかった。
 もっと言えば、彼女がわざわざ今日という日にプレハブを訪れる理由すらわからなかった。桜井は、大学が休みである土日に、決まって一人きりでプレハブに篭って作業を行う。彼の説明によると、自分の家よりも部室で構想を練った方が、よりインスピレーションに恵まれるとの事である。あまり理解はできないけれど、とにかくそういう訳なので、他の部員はその期間中、けっしてプレハブに近づいてはいけないというのが、我が演劇部の不文律だった。なのに、あえて土曜日に彼を訪れようとするエリの考えが、全く読めなかったのだ。まぁ、エリの考えが読めないのは、いつもの事なのだけど。
「ハマちゃんが言うなら、桜井さんはまだプレハブにいるんやろな」
 私の言葉に対して、エリは素直に頷いた。あいかわらず自主性のないヤツだ。
「とりあえず、そんな事はプレハブに行ったらすぐにわかるって」
 泉州大学自体は、基本的に毎日二十四時間開放されている。だから、こんな夜分遅くでも、私達は何の気兼ねもなく敷地内を闊歩できるのだ。
 ふと、前方に人の気配を感じた。
 誰かがこちらに向かって歩いて来ているようだった。毎日通い慣れている場所とはいえ、夜という事もあり、さすがに少し身構える私。
「……濱本さんにエリちゃんじゃん」
 向こうも私達に気付いたのか、そう声を掛けてきた。やがて相手の顔がはっきりと見えてくる。「誰かと思ったわ!」
 ……よく見れば、それは同じ演劇部員の西垣沙紀(にしがきさき)だった。黒を基調としたファッションと、呪術師のようなネックレスを付けているせいなのか、いつもよりもさらに影を感じさせる。少なくとも、夜に出歩く女子大生に相応しい格好ではなかった。
 それでも知り合いだとわかったので、私は安堵して息を吐く。
「沙紀さんやん! おはよう!」
 いつもの癖なのか、エリが芸能人ばりに時刻を無視した挨拶を述べた。
「おはよう。でも、二人ともこんな夜遅くに何をしてるん?」
「ちょっと、桜井さんに用事があってね」
 私が答えると、
「桜井さんに用事? 今から? 土曜日だよ?」
 怪訝そうな顔つきになる西垣。彼女も演劇部の不文律をよくご承知だからであろう。
「ハマちゃんが、告白するんやって!」
 楽しげに茶化すエリの頭を、私が平手で殴る。今日だけで、いったいどれくらい殴っているのだろう。
「あ、そういう事か。それなら納得やわ。まぁ、前から怪しそうだなって思ってたんだけど」
 西垣も愉快そうに話に乗ってくる。「いいじゃん、二人はお似合いのカップルやで」
「そんなんじゃないって!」
 焦って否定する私。「だいたい、そういう沙紀さんこそ、こんな時間に何をしてるんよ?」
「……え?」
 途端に困惑したような表情を浮かべる彼女。こっちも受けたんだし、そこまで変な質問だとは思えないのだけど。「ああ、ちょっと図書室に本を借りにきたねん」
 我が大学の図書室は、基本的にいつでも利用可能だった。というのも、他の図書室では必ずいるはずの、管理人という存在がいないからだ。本を借りた人間は、自分で図書カードに記入すればいいだけという、実に学生の自主性を尊重したシステムであるおかげで、日々その蔵書数が減っていくという現象も起こっていた。いくらなんでも学生を信用しすぎだと私は思う。
「本って、漫画? それとも雑誌?」
「……別に何でもいいやん!」
 エリの問いに対して、何故か怒ったように答える西垣だった。「まぁ、一人暮らしやから、暇なんだよね」
 彼女も、私と同じアパートで一人暮らしをしているらしい。聞くところによると、名古屋から単身で大阪に出てきて、この大学に通っているとの事だ。だから、喋り方も完全に関西弁ではないのだろう。
 同じ場所に住んでいて、しかも同じ一回生の演劇部員――普通ならばもっと仲良くなってもいいはずの私達なのだが、そこは色々な事情があって、どうしても一線を引いたような付き合いになってしまっていた。……同じ一回生なのに、どういう訳か彼女の方が二つも歳上だという理由以上の、色々な事情があって。
「じゃあ、気をつけて」
 あっさりとした挨拶を済まして、西垣はそそくさとその場を去っていってしまった。
「……沙紀さんも暇なんやなぁ」
 全く他人の事を言えないエリが、離れていく西垣の背中を見つめながらそう言った。
「そうなんかなぁ」
 私が気のない返事を返すと、
「あれ? でも、おかしいなぁ」
 エリが大きく首を傾げた。「図書室って、沙紀さんが歩いて来たのと、全然逆の方向じゃない?」
「あ、そういえばそうやな」
 確かに、言われて見ればそうだった。西垣は、第二学舎と呼称されている建物の方向から歩いて来た。ところが、図書室がある第五学舎は、その建物と全く逆の方向にあるのだ。「って事は、だいぶ遠回りしたんやなぁ」
「迷子になったんかな?」
「こんなに狭い大学内で!? エリじゃあるまいし、そんな事はないと思うで」
「そうやな、エリじゃあるまいし!」
 まさか自分の事を言われているなんてありえないといった風に、実に自然な顔で彼女も同意した。
「それよりさ、早く行こうよ。……ぼやぼやしてたら、桜井さんも帰ってしまうで!」
 ――とりあえず、この時は西垣についてこれ以上深く考える事はなかった。それよりも、我々にはもっと大事な目的があったのだ。
 部室であるプレハブは、さっきも言った通り敷地内の一番端にあった。ちゃんと計測した事はもちろんないが、校門からは三百メートルくらいの距離だろうか。
 我々は、そのまま第二学舎の前を通って、目的地へと向かった。
「さぁ、果たしてハマちゃんのおっしゃる通り、憧れの桜井さんはいるんでしょうかねぇ!」
 プレハブの前で足を止めて、ニタニタし始めるエリ。私が無言で睨みつける。
 この建物自体は、小学校の教室程度の大きさだ。まぁ、小学校の教室と言っても色々あるだろうから、これが適切な比喩だとは思えないが、とにかくそこまで広大な施設ではない。ただ、その内部では様々な人間模様が繰り広げられてきた。よって、思い入れだけはとても大きい建物でもあった。
 私は何の言葉を発する事もないまま、一番目の扉を開いた。ここの造りは複雑というか変わっていて、入り口は二重扉となっている。一番目の扉は鍵がなくても開けられる仕組みだ。余談になるが、この開閉音で、桜井はいつも訪問者に気付くらしい。
 そして、やっとプレハブ本体が目の前に現れる。厳密にいえば、目の前に現れるのはもう一つの扉――ここでは便宜上、『ドア』と表現しよう。その周りといえば、屋根はあるものの、他には何もない無駄な空間である。要するに、大きな箱の中に小さな箱が入っているような構造だ。どうしてこのような設計になっているのかは知らない。知ったところで、私の人生には意味がなさそうだし。
「あれ、明かりがついてないで?」
 後から入ってきたエリが、暗い周囲をキョロキョロしながらそう呟いた。「やっぱり、もう帰ってるんじゃない?」
「いや、そんな事はないやろ。だって、そこに桜井さんの靴があるやん」
 私がドアに併設されている靴箱を顎で指す。プレハブ本体内は、基本的に土足禁止なのだ。
「ああ、ホンマやな」
 感心したように靴箱を覗き込むエリ。
「それに、傘まであるわ。両方忘れて帰るほど、桜井さんはアホじゃないで。あんたじゃあるまいし」
「うちはそこまでアホじゃないで! ……とも言えない」
 正直な、そして正確な彼女の答えだった。「それにしても、桜井さんの靴や傘までちゃんと覚えてるなんてたいしたもんやな!」
「あの人はいつも同じ靴や傘やからな」
 桜井は、基本的に舞台上以外での身なりをあまり気にしない男だった。三日連続同じ服で現れて、部員を驚かせた事もある。
「あれあれあれぇ!?」
 突然、エリが奇声を発した。
「ど、どうしたんや?」
 驚いて私が尋ねると、
「ドアに鍵が掛かってるで!」
 ドアノブをガチャガチャとさせながら、彼女が報告してきた。「珍しい!」
 不精な性格である桜井は、ドアに鍵を掛けるといった行為にもほとんど縁のない男だった。
「確かに珍しいなぁ」
「やっぱり、中にはおれへんちゃう?」
「だからぁ! そんな訳ないやろ!」
 呆れ顔で私が応じる。「じゃあ何か? ちゃんとドアの鍵は掛けたけど、靴と傘は忘れて帰ったって事か!? 桜井さんはそれほどスーパーアホじゃないで。あんたじゃあるまいし」
「うちはそこまでスーパーアホじゃないで! ……とも言いがたい」
「桜井さぁん! 濱本ですけど!」
 スーパーアホを無視したまま、私が叫んだ。「ちょっと、用があるんで、ドアを開けてください!」
「桜井さぁん! 溝端もいますけど!」
 エリも真似するように声を張り上げる。
「桜井さぁん!」
 ドアを強くノックしながら、再度大声で呼びかけてみたが、やはり何の音沙汰もなかった。
「……おかしいなぁ。寝ているにしても、こんなに大きな声で呼びかけたら起きそうなもんやけど」
 私が首を傾げる。
「なぁ、中に入ってみようよ」
 ふと、エリが私の腕を掴んできた。
「入ってみようって、ドアに鍵が掛かってるんやぞ。どうやって入るねん!?」
「でも、様子が変やで」
 少し蒼ざめたような表情で、彼女が呟いた。
「確かに、変なのは変やわ。この中に桜井さんが居てるのは間違いないと思うんやけどなぁ」
「だけど、明かりもつけないで……」
 エリが動揺し始めたのが手に取るようにわかった。「なんか、嫌な予感がするわ」
 ――彼女がこのような反応を起こすのも、無理はなかった。
 エリは高校時代、気づかない間に祖母が自分の部屋で内側から鍵を掛けたまま死亡していたという経験を持っていた。その時、何の疑いも抱かずに隣の部屋でテレビを見ていた自分を、彼女は今でも激しく責めている。
 そんなトラウマを抱えているエリが、こういったシチュエーションに直面して必要以上にパニックになってしまうのは、極めて自然な事と言えた。
「ちょっと、落ち着きや」
「ど、どうしよう! まさか、何かあったとか、そんな、その……」
 もはや完全に錯乱状態に陥ってしまっているエリの両肩を、私はぎゅっと握り締めた。
「大丈夫。……大丈夫やから!」
「う、うん」
 力なく返事をする彼女を見て、私はこう言った。
「わかった。じゃあドアを開けましょう」
「う、うん。いや、ちょっと待ってや。その、ドアを開けるって言っても、どうやって開けるん? 鍵が掛かってるんやで」
 つぶらな瞳をさらに見開かせながら、エリは訊いてきた。「それとも、ハマちゃんは怪盗なん!?」
「いや、“泥棒”でいいやろ。なんでかっこよく言うねん!」
「じゃあ、コソ泥なん!?」
「今度はかっこ悪すぎや!」
 こんな時でも馬鹿みたいなやり取りをしてしまう我々だった。「まぁ、十年もバリボーをやってたあたしにかかれば、こんなしょぼいドアなんかちょろいもんやで」
 プレハブ自体が、情緒は全く溢れていないが歴史だけは刻んでいる建物なだけあって、このドアもかなりガタが来ているといって差し支えのない代物だった。つまり、そこそこの力を持った人間がその気になれば……
「バリボーって、発音めっちゃいいやん!」
 変な部分に感動するエリ。
「どうでもいいからさ、ちょっと離れといて」
 調子を崩されながらも、私が構えを取った。
「え? もしかしてハマちゃん……」
「これを機会に、新品のドアを買ってもらおうや! ……ていっっ!!」
 私が力の限り、ドアを蹴飛ばした。
 ……結果として、ドアはけたたましく開かれた。厳密に言えば、壊された。
「うわぁ!」
 ちゃんと指示に従っていなかったエリは、ビックリしたように尻餅をついた。
「どうや、開いたやろ?」
 私が誇らしげに語ると、
「す、凄い! たくましいな!」
 花も恥らう十代の乙女に対する賞賛としては、かなり不適切だと思われたものの、そんな事を気にしている場合ではなかったので、私はすぐさまプレハブの内部へと足を踏み入れた。
「……何も見えへんな」
 当たり前だが、室内は完全に暗闇状態であった。「桜井さぁん! 大丈夫ですか?」
 この期に及んでも、何の応答もない。
「明かりをつけようよ」
 後ろからびくびくとした動作で入ってきたエリが、ドアのすぐ近くにある照明のスイッチを押した。
 その途端、部屋内部の光景が鮮明になった。
 そう、何もかもがはっきりと見えるようになって……
「きゃぁぁぁぁ!!」
 エリの叫び声が、室内に響き渡った。
 そして、彼女が何故叫んだのかという理由は、私の目にもすぐに明らかになった。
「さ、桜井さん!」
 ――桜井は倒れていた。彼専用の事務机の近くで、うつぶせになって。
 桜井の近くには、この部屋に多く飾られている、数々の演劇賞のトロフィーのうちの一つが、添い寝するように転がっていた。
 それだけならまだしも……彼の頭部からは多くの血が流れていたのだ。
「こ、これって何なん!?」
 エリが私にしがみつく。「これって、何なんや!?」
「何って……その、血、血やろ」
 うわずった声で答える。
「なんで、なんで桜井さんは血を流して倒れてるねん!?」
「なんでって……私に訊かれても」
 どう答えればいいのかわからなかった。
「絶対やばいやん! 絶対やばいやん!」
 そんな事は、彼女に言われるまでもなくわかっていた。
「警察に……電話……しなくちゃ……」
 私がポケットから携帯を取り出して、電話を掛けようとする。……だが、手袋が邪魔でなかなか操作が上手くいかない。
「もうハマちゃん! このプレハブが電波の通じにくい場所やって事は知ってるやろ!」
 怒ったようなエリの声が聞こえた。
「で、でも、とにかく連絡しないと!」
 呻くように喋る私に、
「動揺しすぎやって! ちょっと落ち着いて!」
 さっきとは立場が逆になってしまった。テンパりやすい性格の癖して、エリは意外に立ち直りも早い女だった。「もういいわ! うちが近くの公衆電話で110番してくるから!」
 別に近くの公衆電話なんかじゃなくても、ちょっと外に出て携帯を使えばいいだけの話なのだけど、その時は突っ込む余裕なんてなかった。
 ……なので、物凄い勢いでプレハブから飛び出していくエリの背中を、私は少しの間ただ呆然と見守っていたのであった。

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