そして迎えた、その日の昼休み。
いつもならば、昼飯を買いに正門近くの購買部まで出向かなければいけないところだけど、この日の俺にはその必要がなかった。……後ろの席に座る同居人が、わざわざ早朝に起きて二人分の弁当を作ってくれたからである。
色々な意味でドキドキものな代物だけど、この二日間、家事に関する参考書をみっちり熟読していた少女の作品なのだから、たぶん中身は心配ないだろう。いや、きっと大丈夫なはずだ。
……とにかくそんな訳で、入学してからずっと校舎の裏で一人寂しく昼食を食べていた俺が、美少女と机を囲みながら彼女の作ってきてくれた弁当を食べるといった、信じられないほどの幸福を享受できる時間――のはずだったんだけど、残念ながらそうはいかなくなってしまった。
いきなり何かに気がついたかのように席を立ち上がった玲音が、二人分の弁当が入った通学鞄を手に、そのまま廊下側最後列の席まで駆け寄っていってしまったからである。
……なるほど、時間に余裕のあるこの昼休みに、さっそく例の『交渉』とやらを実行するつもりなのか。事情を察した俺も、しぶしぶその席――すなわち、星村凛子の席に近づいていく。
俺の共同生活者が慌てた理由は明快だった。チャイムが鳴って十秒くらいしか経っていないのに、星村がすでに教室の扉に手をかけていたからである。……たぶんこいつも、どっか人気のない場所で一人寂しく昼食を食べているクチなんだろう。
「お、お待ちください、マザーリア!」
「…………何?」
悲痛な声で呼び止める玲音に対し、星村は振り向くこともなく言った。「というか、またあなたなの? 初対面の私にまとわりつくだなんて、どういうつもりなのよ? ……あと、さっきも言ったと思うけども、その訳のわからない呼び方はやめてちょうだい」
その点はすごく共感できるな、うん。
「も、申し訳ございません。あの、その、実はマザ……星村さんに、ぜひとも見ていただきたいものがあるんです!」
「見ていただきたいもの?」
ようやく、すらっとした長身の肢体を振り向かせる星村。だけどその顔と声からは、あいかわらず何の感情も読み取れない。「……いったい、私に何を見てもらいたいというのよ?」
「は、はい……」
小さく頷いた後、玲音は自分の鞄から……厳密に言えばそこに入っていた銀色の封筒から、一冊の本を取りだした。「……とりあえず、これをご覧ください」
彼女が自分の衣服を犠牲にしてでもこの時代に持ち込まなければならなかった代物――それは、ちょっとした辞書くらいの大きさと分厚さを誇る本であった。
題名は、『The Word』。……事前に共同生活者から受けた説明によると、十九世紀の初頭にイギリスで出版されたものの、ある事情から、すぐに絶版となってしまった小説らしい。
実際のところ、玲音が今手にしているのも本物ではなく、『中学時代からずっとこの本を追い求めていたマザーリアが、大学での四年間を全て費やして調査と取材を重ねた結果、創り上げた複製本を、さらに複製したもの』とのことである。
要するに、高校時代の星村凛子にとっては、“喉から手が出るほど欲している本”であり、“当然ながら歴史が改変されてしまうリスクは充分あるものの、交渉道具としてはこれ以上ない本”でもあるという訳だ。……ああ、やっぱりややこしい話だな、おい。
「……ど、どうして!?」
案の定、星村はそれを見るなり、切れ長の瞳を大きく見開かせた。「……どうしてあなたが、その本を持っているのよ!?」
おお、この女にも一応感情というものがあったんだな、と感心する俺の前で、
「ああ、それは、その……じ、実は、あたしのパパが、この本の原作者の子孫と知り合いでして……ええっと、特別に、原著をお借りして複製させていただいたみたいですねぇ、はい」
なんだか、某国民的ロボットアニメに登場する、いけすかない大金持ちみたいな弁明を繰り出した後、強引に星村の手にその本を押し付ける玲音。「……と、とりあえず、実際にその目でお確かめください!」
少し躊躇するように自分の手元と玲音の顔を見比べてから、『The Word』とやらを手に取った星村は、最初こそ疑心暗鬼な様子でそれに目を通していたものの、
「ま、まさか……そんな……」
いつしか、食い入るように顔をうずめるのだった。
……どうやら、『交渉』の第一段階は成功したということらしい。
「どうでしょう? ……本物だということが、おわかりいただけたでしょうか?」
予想通りのリアクションに気を良くしたのか、余裕めいた口調でそう尋ねる玲音に対し、
「……で、先峰さん、でしたっけ? 私は、いったいどうすればいいのよ?」
本から視線を外さないまま、冷徹な口調を取り戻した星村が応じる。「まさか、ただでこの本をプレゼントしてくれる訳じゃないでしょう?」
「ええ、この本を差し上げる為には、星村さんにある条件を呑んでいただく必要が……」
「どんな条件でも飲むわ!」
即答だった。「私がこの本を限りなく欲しがっていることを、どうして初対面のあなたが知っているのか、限りなく疑問でもあるけれど……この際、そんなことはどうだっていいわ。この本を手に入れる為なら、どんな努力や屈辱だって惜しまないつもりだもの。……ええ、たとえ処女を捧げたっていいくらいよ!」
「お、おい、変なことを言うなよおまえ……」
それまで少し離れた場所で二人のやり取りを眺めていた俺も、さすがに近づいて興奮した様子の星村をたしなめる。普段はまったく誰とも会話しない彼女がいきなり大声で放ったその衝撃的発言に、当然のごとく教室に残っていた弁当組の注目が集まっていたからだ。
「……何よ、あなたも今回の件に関わっていたの?」
そのせいで、初めて言葉を交わす女性から、いかにも侮蔑しきったような視線を浴びる羽目になってしまったけどな。「どうせ、いつかはなくなるものでしょ? ……だったら今失ったところで、何の不都合があるというのよ?」
「ええっとですね、星村さん。……その『ショジョ』というやつが、どういうものなのかは知りませんが、少なくともあたしが求めているのは、そんなものではありません」
平然とした顔で語るあたり、玲音はこの単語の意味をよくわかっていないらしい。……まぁ、約五十年後の未来では、それが『天然』という表現に変わっているみたいだからな。
「じゃあ、いったいどんな条件なのよ?」
「はい。実はですね……」
「……れ~お~ん! 何してんのぉ?」
肝心の条件を言いかけた玲音の体が、唐突に大きく揺さぶられる。
「きゃあっ!」
「おいおい、そんな悲鳴あげんといてやぁ。なんかうちがセクハラしてるみたいやぁん。……いひひひひ、いつの間にこんなに成長してたんやぁ。うちにもちょっと分けてぇやぁ!」
自分よりも頭一個分ほど背の高い少女を背後から抱きしめて、マスクメロン一個分ほど大きな胸を揉みしだくといった悪行の主は……何を隠そう、我が天使こと、東海林張乃であった。
彼女も真壁と同様、女子サッカー部の熱心な部員であり、昼休みは毎日、昼食を食べる前に部室で開かれているミーティングに参加しているとのことだけど、今日はそれがたまたま早く終わったみたいである。
「ちょ、ちょっと東海林……さん。い、今はあたし、星村さんとお話ししていて……」
「ありゃありゃ、またさっきみたいにうちのことを裏切って、ホッシーといちゃいちゃしてたんかいな! あんたはほんまにホッシーのことが好きなんやなぁ! まさか一目惚れかぁ!?」
言うまでもなく、『ホッシー』とは星村のことだ。例に漏れず、この東海林ですら星村からはまったく相手にされていないんだけど、それでも勝手にあだ名を作っているところが、いかにも彼女らしい。そして可愛い。激LOVE。「……あれぇ、那部坂君もいるやん!? あ、ひょっとして那部坂君も、ホッシーのこと好きなん!? 従姉妹をダシにして、なんとかホッシーとお近づきになろうとしてるんちゃうやろうなぁ!?」
「ち、ち、違うよ!」
とんでもない誤解である。俺が好きなのは、星村なんかじゃない。その近くで、無邪気な笑みを浮かべながらはしゃぎまくっている、ボブカットのちっちゃな女の子の方なんだ……なんてことはもちろん言えなくて、「……お、俺はその、つ、付き添いみたいなもんだよ」
「ひひひ、ほんまかぁ? 怪しいなぁ……」
悪戯っぽい口調と共にこちらの顔を覗き込んだ後、再び玲音の体を弄び始めた東海林の前で、
「……どうやら、ここで話の続きをするのは不可能みたいね」
幼馴染同士(一方は名前を借りているだけなのだけど)の賑やかなやり取りを、絶対零度な瞳で観察していた星村が、俺の耳元で囁いた。「では、こうしましょう。……今日の午後六時に、『黄蛸(おうたこ)崖(がい)』にまで来なさい。そこならまず、他人に邪魔されることなく話の続きができるわ」
「『黄蛸崖』ってどこだよ? ……そんな変な名前の場所なんて、知らないぞ」
急に女子に顔を接近させられるという慣れない経験に戸惑いながら、俺が訊き返す。
「あなた、この街に住んでいて、『黄蛸崖』も知らないの?」
「四カ月前に引っ越してきたばかりだからな」
すると星村は、大きな溜息を吐きつつ自分の机に戻り、ノートを破ってわざわざ詳細な地図を描いてくれた。
「いい? ……午後六時にこの場所へ、必ず来るのよ」
そして彼女は、地図と共に、あれほど欲しがっていたはずの『The Word』までをも、俺に手渡してきた。
交渉が終わっていないから、まだ受け取れないということだろうか。変に律義な女である。
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