7
姫花はうっすらと目を開けた。
自分を覗き込む、顔、顔、顔。そのどれもに、心配そうな表情があった。
「大丈夫ですか?」
涙でぐずぐずになった、はなきの顔がそばにあった。
「ええ。ありがとう。私は無事よ」
「よかった……! ぐすっ……」
「自分で妃に志願したとも思えない、泣き虫になっちゃったわね」
泣きじゃくるはなきの肩を叩いてやる。
「体は大丈夫かい?」
「本当に、よくあいつを倒してくれたわ」
「ありがとう、ありがとう……」
人々が口ぐちに言いながら、姫花に手を差し伸べる。
姫花は体に力が戻ってきているのを感じていた。
(この人たちの想い。眠っていた私の力が強くなっていたのは、かすかにでも私のことを覚えてくれていたから……)
数百年、忘れないでいてくれた。純粋な感謝の心が力となり、自分に宿っていたのだ。
そして、この力でみんなを守れた。
深く深く息を吐きながら、姫花は目を閉じた。
(悪くないわね、こういうのも……)
「きゃああああああああ!」
はなきの悲鳴。姫花は目を開けた。
きっ、と睨みつける。
「兵御院……」
兵御院桂介が、杖をかなぐり捨てナイフを持って、はなきの首筋に突き付けていた。
その顔は、先ほどまでの老人とは別人に思えるほど、凶悪さに満ちていた。
「その子を離しなさい」
「できかねますなあ、姫花さま」
しゃがれ声で答える。にやっと兵御院は笑った。
密集していた人の輪が散る。
姫花はゆっくりと立ち上がった。
「なぜ、こんなことを……」
「簡単なことでございますよ。あなたにいてもらっては不都合。それだけです」
「どういうことかしら。私は荒神を倒しただけ。この地に平穏をもたらしただけよ」
「そのお力が恐ろしいのですよ。なんといっても、蘇らせた荒神を、倒してしまわれるのですから……」
「なんですって?! あなたが全ての……」
姫花の目が見開かれた。
「すべて、という程大物でもありません。わしはただ、下らん伝承で採掘を禁じられた坑道の先に眠る、銀がほしかっただけですよ。その資金を以って、わしはこの地方で名を上げる。あらゆる貴族を、ひいてはこの国の全てを跪かせる。それが野望じゃ」
「……荒神のような虚栄心ね」
「これは手厳しい。しかし一理ありますなあ。わしは、荒神と取引をしたのですから」
滔々と、兵御院は語った。皆が自分の言葉を聞き入っていることに、悦びの表情を浮かべながら。
「荒神に、古の経緯を聞きましてな。自分の前に生野姫花を連れて来れば、わしの野望に手を貸すと。生野銀山に眠る銀。荒神の力。そろえば恐ろしいものなど何もない!」
「外道め……」
低く唸る姫花。老人はさらに饒舌に続ける。
「本当に生野姫花が存在し、ましてや荒神を倒してしまうとはな。わしの計画は崩れてしまった。かくなる上は……」
はなきの顎を乱暴に引っ掴み、首を反らせる。そこにナイフを押し当てた。
「この娘の命、惜しいじゃろう? わしの言うことを聞いてもらおうか」
「何が望みなの?」
「あなたの命じゃよ。どうせ荒神と違ってわしに賛同してくれんのだろう。だったら、消えてもらった方がいい。それとも、この娘ごとわしを討ちますかな?」
姫花は唇を噛んだ。兵御院を攻撃しようにも、巧みに少女を盾にしている。
(どうしたら……。?)
はなきを捕らえる兵御院の周りに、緑色の霧が漂っているのに姫花は気付いた。鼻息荒く兵御院が呼吸するたびに、体内へと吸収されていく。
(かすかに残った荒神の残骸が、同じ野望をもつ邪心に共鳴している……。このままではあの体を乗っ取り、荒神がまた蘇ってしまう)
そして、また地獄が戻ってくる。
(やりなおしはもう、うんざりだわ)
ふっ、と姫花は笑った。
「いいわ。私の命が欲しければ……」
「ダメです!」
はなきが遮る。
「もうわかってます。あなたは本物の姫花さまなんですよね? だったら、わたしなんかと引き換えになっちゃダメです!」
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、少女は叫んだ。
姫花は首を振った。少女と、荒神と化しつつある老人を見つめた。
「いいえ。そこまで言ってくれるのならわかるはず。生野姫花だったら、こういう時にどうするか。あなたたちが覚えていてくれた生野姫花なら……」
言いながら、あることに姫花は気づいた。
(みんなが覚えていた私……そうか)
決意を込めて、姫花はあたりを見回した。
集まった人々に聞こえるよう、凛とした声を張り上げる。
「今から何が起ころうと、私を、姫花を信じて。姫花は荒神には屈しないのだと」
言い終わると同時に、妖力を実体化させ短剣を作り出す。
それで、姫花は自らの喉を突いた。
花びらのような赤に、大地が彩られる。
「クハ、クハハハハ……! ついに生野姫花、滅びたり……!」
いつの間にか、兵御院の声は老人のしゃがれ声ではなく、荒神のそれになっていた。
はなきを突き飛ばすと、小躍りしながら姫花に近づき、首筋に手を当てる。
「確かに絶命しておるわ。クハ、クハハハハ……我が天下なり!」
狂笑が続く。その口から毒が流れ出している。
人々が姫花に駆け寄った。穏やかな表情のまま息をしない姫花。
「みんな、思い出して! 姫花を信じて。そう言ってたわ」
はなきが叫んだ。起き上がって姫花に駆け寄る。
「姫花さま! あなたは言い伝えの通りでした。優しくて、強くて。でももう、これ以上つらい思いを、一人で背負わないで……!」
はなきが姫花の手を握る。民衆が口々に姫花の名を呼ぶ。
冷たくなりつつあった力ない手に、はなきの体温が移っていく。
きゅっ。
少女の手が、握り返された。
(一人で背負わないで……。そう、そうね)
誰も不幸にしたくなかった。だから戦う。
今も、昔も。
(でも、私が眠ってしまったとき、みんなはどんな気持ちだったんだろう)
姫花一人が戦い、そして荒神が封じられた。
それで、残された人々は幸せになれたんだろうか。
姫花が、目を開ける。
「ありがとう、はなき……」
今度は間違えない。自分を想ってくれる人を悲しませることはできない。
起き上がり、姫花は体中の妖力を解き放った。
人々の祈り。自分を想ってくれる心。それらをすべて、一つにして。
「出でよ!」
傍らに、巨大な銀虎が現れた。唸りを上げ、今にも飛び掛からんばかりに姿勢を低くしている。
荒神が気づき、目を見張る。
「馬鹿な! 息の根は止まっていたはずだ!」
「虎は伏して機を伺う。忘れたの?」
まっすぐに荒神を指さす。
「さあ、行きなさい! 竹田城の伏せる虎!」
姫花の声を合図にして、放たれた弓の勢いで虎が襲い掛かる。
荒神は、それをかわすことはできなかった。
兵御院の肉体に牙を突き立てた。虎は実体を失い、あたりに銀色の光が満ち溢れる。
すべてを浄化するような、神々しい光。
「グアアアァァアァ!」
山間に反響する絶叫。
老人の体は緑色の塵と化した。銀の光に飲まれ、白い煙となって、立ち消える。
荒神は消滅した。
8
眼下をゆっくりと、雲海が流れていく。
朝日に照らされて、黄金色の雲波がいくつも連なる。
姫花は竹田城跡にいた。城下を見下ろす。
たゆたう雲に隠されて、人々の佇まいを見ることはできなかった。
「変わらないわ。ここに城があった頃から、何一つ」
自分のいた時代は、遠く時に彼方に流れ去ってしまった。
「でも、私を知っている人たちがいる。私を大切に想ってくれる人がいる」
確かに一度、姫花は命を落とした。
だが、眠る彼女に妖力が蓄えられたように、人々の想いが、生命力となって姫花に宿った。
人と人とのつながり。
今も昔も変わらぬ、強い絆のみなもと。
ふわり。谷を渡る風が、姫花の頬を撫でた。
雲海が、払われていく。
朝日に照らされた、朝来の街が現れた。
荒神はもういない。ふと、姫花は思う。
これから自分は何をすればいいのだろう。
「……まあいいわ。眠っていた分だけ、時間はたっぷりあるのだもの。ゆっくり考えましょ」
不安はもうない。
優しい人たちに囲まれて、この時代を生きよう。
時を越え、名を変えても、姫花を忘れなかった、愛しい故郷。
兵庫県朝来市。この街で。
<< back |