5
兵御院に示された入り口から、姫花は坑道に入った。
人の手によって整備されており、壁は固められている。
しかし、明かりはない。
「光よ……」
指先からほんの少しの妖力を解放する。
ふわりと光の玉が浮かんだ。
あたりを照らす。
「でも、霧に阻まれてあまり遠くまでは見えないわね。嫌らしい霧……」
外よりもはるかに濃い、べったりとした緑の霧が漂っていた。
死臭と腐臭、刺激臭。ありとあらゆる悪臭の塊。
姫花は服の裾で口と鼻を抑えた。
「気分が悪くなってくるわね……」
前を睨みつけ、姫花は奥へと歩を進める。
足元はだんだんぬかるみはじめ、空気は重く湿り気を帯びる。
毒霧は濃度を増し、視界は悪くなる一方だ。
だが、突然霧が薄くなった。開けた場所に出たのだ。
天井は高く、上の方には澄んだ空気がたまっているのか、霧はない。
それを見て、姫花は妖力の光球を上方に飛ばした。
最奥に、人の背丈のゆうに三倍はあろうかという巨大な岩が見える。
その前に、緑の霧が凝ったような人型の何か。
体のいたるところから毒霧を噴き上げている。
冠に袍、沓に笏。
壁画に描かれるような、古の日本を治めていたであろう王族の衣装。
数百年の時を経てなお、変わらぬ宿敵の姿。
「荒神っ……!」
円形の広場に、姫花の声が響いた。
「妃たる娘か……」
低く、くぐもった声が残響する。
人型の頭の部分に、下卑た表情が浮かんだ。
「ほう、これは美しい。我が妃に相応しい。さあ、近う寄れ……」
姫花は両足を肩の幅に開き、踵を浮かせた。
両腕を胸の前で交差させ、妖力を集中させる。
「私の顔を忘れたの? 長いこと経って耄碌したんじゃない?」
「ぬうっ……貴様、生野姫花か!」
「今更気づいたの? 間抜けなことね」
姫花は鼻で笑った。
「ふん、貴様が来たならこの上ないわ。うまくいったようだ。妃などもはや必要なし」
「何かわからないけど、戯言はここまでよ! 引導、渡してやるわ!」
姫花の両腕から放たれた純粋な妖力が、荒神に叩きつけられた。
しかしその瞬間、荒神は実体を失い、緑の霧へと変じた。
妖力の塊は、一瞬前まで荒神がいた場所をすり抜け、後方の大岩にぶつかった。
ドォォォン!
爆音が響く。もうもうと煙が立ち、天井からぱらぱらと土の破片が降り注いでくる。
「手間を省いてくれて感謝するぞ、小娘」
荒神の声だけが響く。
土煙が収まると、巨大な岩に変化が生じていた。
妖力の光を反射して、坑道中が照らされる。
表面を覆う岩と土が払われ、中の銀が姿を現したのだ。
「この山に封じられて、むしろ幸運であった。我が失われし肉体に相応しい憑代を見つけたのだからな」
霧が筋となって、巨大な銀塊に巻きつく。
そしてそれは、吸い込まれるように消えて行った。
やがて。
低く、山そのものを揺るがすような地響きが始まった。
銀塊が動く。命あるもののように銀塊が蠢く。
まるで眠れる巨人が起き上がるかのごとく、それは徐々に人の形を縁取り始めた。
「!? 何をする気なの、荒神っ」
「人の肉体のように脆弱ではない。霧のように薄弱でもない。我が肉体は、強く美しく、輝きを放つ銀とする!」
甲に冑をまとい、右手には巨大な直刀。
姫花の時代よりさらに昔。太古の兵装をなした銀の巨人が、姫花の前に立ちあがった。
その身丈は、姫花の五倍はあるだろう。
姫花は息を飲んだ。だが、すぐに立ち直る。
「所詮は木偶人形よ。粉々にしてやるわ」
ギロリ。
冑の下から、姫花を睨みつける。
表情は、霧でいた時よりもはるかに殺気に満ちていた。
「クハハハ! 小さいな、生野姫花」
響き渡る哄笑。
巨人となった荒神は、その直刀を上方に振り上げた。
山頂に至る、天井に向かって。
衝撃波が走る。
坑道の中が光に照らされた。鉱山そのものが切り裂かれ、そこから陽光が降り注いだのだ。
そして次の瞬間、崩落が始まる。
「きゃあああああ!!」
大岩が姫花めがけて落下する。
「今度はお前が銀山に封じられる番だ! 地中深くに埋もれるがいい!」
崩れゆく銀鉱を、ゆっくりと荒神は上昇してゆく。
6
生野銀山の頂上に、荒神は姿を現した。
「数百年ぶりの地上か。なんと太陽の力強いことか」
地上を見下ろす。
山々に囲まれた生野の地は、古の時代よりも栄えているのが見て取れた。
銀山の入り口に群れた人々が、恐怖の眼差しで荒神を見上げていた。
それが、たまらなく心地いい。
「愚民ども……。その命、我に捧げよ。その生気を我が妖力としてくれよう」
大きく息を吸い込む素振り。そして街に、毒霧を噴きつけた。
固形化したような緑の霧が、人々に襲い掛かる。
「ゲホッ……ゴホッ!」
「いき……が……」
「けほっ……あのひとは……」
ある者はそのまま地に倒れた。
喉を掻き毟る者、咳き込みうずくまる者。
涙を流しながら、空に手を伸ばすもの。
妻と子を抱きかかえながら倒れ伏す父。妻の悲鳴は、毒に塞がれて外に出ることはなかった。
荒神は上空から、緑の霧に包まれた地獄絵図を、恍惚の表情で眺めていた。
「時が経とうと、人は変わらぬものだな。なんと心地よい絶叫か……むっ!?」
何かを察し、荒神は身を翻した。
雷球が銀の体をかすめて飛んでいく。
「なんということを……! 残虐にして極悪なのは、変わっていないようね!」
怒りに満ちた声が響いた。
「生野姫花……っ」
「おあいにく。あの程度でどうこうできると思ったら、舐められたものだわ」
衣装の裾がはためく。
髪が、風にたなびく。
全身を淡い銀の光に包まれた姫花が、空に浮かんでいる。
妖力を解放して、浮力に変換しているのだ。
「生野の地よ。谷よ。風よ。今ここにある毒を打ち払え……!」
その身に宿る力を乗せて、姫花は祈るように唱えた。
刹那。
地上を突風が駆け巡った。
姫花のいる上空では、髪の先を揺らす程度のそよ風だったが、大地に溜まる毒霧はすべて払われていた。
人々が、互いに助け合い立ち上がるのが見える。
「貴様あぁぁ!」
「ふん、お前が人々の苦しみを妖力に変えるなんて百も承知よ。そうはさせないわ」
彼女は油断なく、身構えた。
「さあ、決着をつけましょう。今度こそ永遠に古墳に葬ってやるわ……!」
「ぬかせ小娘! 跡形も残らぬよう捻り潰してくれるわ。その苦悶を我が力としてやろう」
姫花は不敵に笑った。
自分の数倍の大きさのある敵を相手にしながら、その瞳に恐怖はない。
銀色の光が、稲妻を成して彼女の体を走る。
自分の妖力が高まっていくのを、姫花は感じていた。
「さぁ、そろそろ本気を出そうかしらね」
左手を大きく打ち振る。
雷球が空中に五つ、荒神の巨体を囲むように現れた。
「喰らいなさい!」
広げた手のひらを、ぐっと握る。それに合わせて、同時に五つの光が荒神に襲い掛かる。
「手ぬるいわ!」
荒神は刃を打ち振るい、雷球を切り裂いた。
弾ける音を立てて、雷球が消え去る。
「やるわね!」
光の残滓の中を、荒神が刃を掲げて突っ込んでくる。巨大な体躯に見合わず、その動きは素早い。
姫花の瞳に、振り上げられた剣が映る。避けられない。
「盾よ出でよ!」
とっさに、姫花は身を守る。妖力が実体化し、盾の形をした結界壁が形成された。
ギイン!
金属同士がぶつかり合うような音。
その一撃で、姫花の盾には亀裂が入っていた。二撃以上耐えられないと判断し、実体化の妖力を打ち切る。盾は霧散した。
防御分の妖力も上乗せし、攻撃に転じる。
「刃がお前だけのものとは思わないことね」
大きく空中に十字を切るように、姫花は手を動かした。
切り裂かれた空気が意思を持つように、鎌鼬となって銀の巨体に向かう。
荒神は、避けようともしない。
「愚かなり」
真空の刃は荒神の体に、毛の筋ほどの傷をいくつかつけただけで、かき消えてしまった。
「金属を切り刻むなど、土台無理なことよ」
嘲りを含んで、荒神が笑う。姫花は舌打ちした。
「ちっ……。当然だったわね。じゃあ、火ならどう?」
空中で体制を立て直す。両手を合わせ、軽く指を曲げる。できた隙間に妖力を集中させた。
薬指、中指、人差し指と徐々に離していく。
花びらのように開いていく手のひらの真ん中に、青く燃える炎が現出した。
(一点狙いよ……)
両手を離す。その幅に合わせて火球も、轟々と音を立てて回転しながら、大きく膨れ上がっていく。
姫花は両腕をいっぱいに広げた。
巨大な火球が形成された。
「行きなさいっ!」
姫花の声を受けて、火球は荒神に向かっていく。
正確に言うのであれば、剣を構える右腕の、肘一点に。
「ぬうっ」
意図を見抜けなかった荒神は、迫りくる火球にとっさに右腕を上げ、顔面をかばった。
むき出しになった腕の関節に、火球が絡まりついた。
青い火球は、荒神の体を構成する銀を融解させていく。
ずるり。刃を持ったままの右腕が焼切られた。
水銀のように液体化した金属の雫が、日の光を反射しながら落ちていった。
「やったぞー!」
地上の人々の声が、姫花の耳にも届いた。
「う、ぐああぁぁぁ!」
「そんな体でも、痛みは感じるのかしらね」
冷たく言い放つ姫花。
「おのれ小娘、許さぬ……むごたらしく殺してくれるわ!」
憤怒の光を宿して、荒神は姫花を睨みつけた。
「いくら貴様の結界壁といえども、無数に襲い掛かる銀の礫に耐えられまい」
無傷の左手で、右の失われた肘先を引っ掴む。
バァン! 握力で己の体を砕く。肘、上腕、そして肩。そのたびにいびつな銀の礫が生産される。礫とはいえ、その一つ一つの大きさは人間の拳ほどもある。
傷口からは、血のように緑の霧が溢れ出た。
「喰らえ!」
荒神の体の一部であった銀塊は、それ自身が意思を持つかのよう空中を走り、あらゆる角度から姫花に殺到した。
「盾……いえ、球!」
姫花は己の周りに真球の障壁結界を形成した。身をかがめ、それでも訪れるであろう衝撃に備える。
幾百もの礫が、結界壁を打ちつける。
地うねりのような低い音があたりに木霊する。
(この勢いじゃあ、いつまでも耐えられないわね……)
障壁の内側で、姫花は焦っていた。攻撃はやむことなく、間断なく姫花の妖力を削っている。
かといって、攻撃に転じるために結界壁を消せば、その瞬間に無数の礫に打たれて命を失う。
差し違える屈辱はもうごめんだった。でも、このまま荒神に一方的に負けるのは、彼女の誇りが許せなかった。
(一気に妖力を解放し、その隙をついて一撃で決める)
いくらかの傷を負うことを覚悟の上で、結界壁の妖力を絶とうとした瞬間。
不意に、礫の攻撃がやんだ。
絶好の好機。彼女は結界壁を解除した。
だが。
「クハハハハ! 小娘は何百年経とうと小娘よ!」
姫花の目の前に、荒神の無傷の左手が伸びていた。
その細い体を、鷲掴みにする。
「ああああああっ……!」
姫花は、体の中で骨が軋る音を聞いた。
痛みが全身を支配し、集中させた妖力が霧散していく。
「この程度の策にかかるとはなぁ! 宣言通り、捻り潰してやろう」
荒神は、さらに握力に力を込めた。
姫花の悲鳴が、山彦となって生野の地を駆け巡った。
(この、ままじゃ……)
すぐそばのはずの荒神の嘲笑が、遠く聞こえる。
手足が冷えていく。
視界が暗くなっていく。
(か、さま……姫花さま!)
姫花のすぐ耳元で、はなきの声が聞こえた気がした。
(どうか勝ってください)
「負けられない……あの娘の祈りを、私は背負っているから!」
体に妖力がみなぎる。
手足にぬくもりが戻ってきた。
暗くなった視界は、霧が晴れるように明るくなった。
遠のいていた荒神の不愉快な笑い声は、途切れていた。
驚愕の眼差しで、姫花を見る。
「馬鹿な! 妖力も命も、尽きかけていたはず……」
「お前が人々の苦悶を妖力とするように、私にも糧とできるものがあったのよ」
姫花の体が光に包まれる。優しく、それでいて力強い光。
それが一気に収縮して、弾ける。
「ギャアアアァ!」
荒神の左手だったものが、砕け散り地上へ落ちて行った。
両腕を失った荒神。
姫花は宙を舞い、素早く懐に飛び込んだ。
「それは、人の希望、祈り。さあ、終わりよ!」
両腕にすべての力を集中させ、巨体の中央、胸の部分に叩き込む。
「おのれえぇェェ! まだ、まだだァ…… まだ我は……!」
言い終わらぬうちに、荒神の銀の体にひびが入った。
体から、緑の霧が吹きだし始める。
足が砕け始める。膝、腰、胸……細かい銀の砂となって、風に舞い散る。
「今度こそ……」
姫花は荒い息を吐いた。
ぐらり。視界が歪む。
(力を使いすぎたわ。浮いていられない……)
崩れゆく荒神の体と共に、姫花は重力の糸に引かれて、地上に落ちて行った。
後には、かすかに揺らめく緑の霧が残された。
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